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井上睦三の「終戦から引揚げまで」(二) 井上睦三 <この度、青島日本中学第25期生・井上睦三氏から原稿をいただきました。 青島医専に入学して間もなく終戦となり、 医学への道を諦めざるを得なかった氏の苦悩の青春時代を どうぞお読み取りください。> ↑井上氏が住んでいた金口一路の周辺地図。 8月15日日本敗戦以後、 中国では毛沢東が率いる共産党と蒋介石の国民党との勢力争いが 各地に起こり、済南〜青島間の鉄道も分断されて 奥地から引き揚げてくる邦人が遅れてしまいました。 其のうち米軍が引き揚げ用の船を青島に配船して来ました。 それで急遽予定変更されて青島在留邦人の帰国が先となり、 郊外に住んでいる邦人の安全を優先して 湛山・競馬場・水族館周辺の邦人が順次帰国する事になりました。 私達家族にも乗船2日前通知があり、準備に慌てました。 通達によれば日本人の帰国持ち帰り荷物は 一家族に行李一つ、布団包一つだけに限る。高価な物は禁止する。 違反すれば其の家族ばかりでなく其の集団の乗船拒否となる。 更に写真アルバムも持参せん方がヨロシイ。 アルバムに戦争犯罪人が写ってないかと検閲に時間がかかり迷惑になる。 などの注意だった。 ↑青島水族館が見える風景。 私達は12月上旬多分第3船目と記憶しています。 その朝、近辺の邦人は一箇所に集合して、 米軍のトラックで大港埠頭に運ばれました。 埠頭には星条旗を掲げた1000トン級の米軍上陸舟艇が係留されていて、 其の近くで邦人が並んで中国軍の検閲を受けました。 強い目付きで顔を見た後、開けた荷物の内容を調べていました。 検査中荷物を没収される物もありました。 小一時間程した時、急に検査が中止されて邦人の乗船が始まりました。 米軍側が出航時間が遅れるとの理由で催促したと聞いています。 私達は船首が開いた処から乗船し、荷物は甲板に積み上げました。 艦橋に艶やかな女の大きな裸体画が見上げられて、 アメリカ人気質の一端を垣間見た気がしました。 船底は平たくなっていて邦人達はギッシリ詰め込まれて 横になるのも苦労するほどでした。 いつの間にか船は、エンジンの音がして大港を出港しました。 私は苦労して人の隙間を選び甲板に出て、 見納めと思い青島の街を眺めました。 信号山・時計台・赤い屋根の町並み、 ひと際目立つカトリック教会など眺めていると、 私を育ててくれた青島とお別れかと、つい涙ぐみました。 ↑船から眺めた現在の青島の街(2007年撮影)。 双塔のカトリック教堂が今は小さく見える。 冬の黄海は寒風吹き荒び冷たく荒れました。 邦人は疲れと船酔いでグッタリと身を縮めて横たわり、 時々幼児の鳴き声を聞きながら夜明けを迎えました。 邦人の間でヒソヒソ声がし母親が赤ちゃんを乳を飲ませながら 疲れで寝入り、乳房で窒息死させたと話していました。 赤ちゃんは吹雪吹く玄界灘に水葬されたそうです。 船は始め九州佐世保港に着く予定でしたが 外地からの引き揚げ船で満杯の為更に南下して 鹿児島港に変更になり出港3泊4日目の朝到着しました。 早朝ゆっくりと船は錦江湾を進みました。 皆甲板に上がって新鮮な空気を吸い、久し振りの母国の景色を眺めました。 なんと桜島はじめ海岸の景色は雪で真っ白でした。 以前鹿児島に住んでいた人が鹿児島でこんなに雪が積もるとは珍しい。 鹿児島の港に近づくと市街は爆撃跡の残骸だけ 不思議にも高い煙突がポツンポツンと目立つ。 おや!東郷神社の鳥居が船から見えるとは市街は全滅だ。 と驚き呻いていました。 やがて上陸、 荷物は200メートル先に停車している貨物列車に積み込む作業でした。 甲板に積まれた布団包みは波飛沫を吸ってドッシリと重い。 父は病み上がりで無理は出来ず。 私は火事場の馬鹿力と言いますか、これが我が家の財産と思うと 嘘のように力が出て担ぎ上げて貨車まで運びましたね。 これが私の母国引き揚げの第一歩でした。 (終わり) ☆ ☆ ☆ ☆ お尋ねの青島医専は2007年発行の 「青島市交通旅遊図」の地図によれば、 45年当時学生寮は熱河路の坂道を上がった付近にあり、 学校は現在の六中辺りでなかったかなと記憶しています。 1年2年生は医学の基礎勉強して3年生になると 青島病院で実習見習いをしていたと記憶しています。 医学の修学年数は一般の専門学校より1年長く、 4年だと思い出しました。 4年になると内科外科など自分の進む方針を決めて 専ら当時青島病院で就業したと聞いています。 45年私が入学した時青中から15名程で、 アト20名程は日本各地からの合格者が入学すると聞いていましたが、 爆撃・魚雷などの襲撃で交通難の為遅れているうち敗戦で駄目になりました。 ↑青島医専があったと思われる第六中学の周辺地図。 ☆ ☆ ☆ ☆ 私は45年12月、 祖母が神戸から疎開している香川県善通寺郊外の家へ引き揚げました。 其処に陸軍に召集された次兄が帰っていました。 長兄は翌年の3月中国の安慶から引き揚げ一家無事揃いました。 当時食料難でしたので家族の意見も聞き、 都会の医専転入より旧制高知高校の理科乙2年に転入して 大学医学部へ行くことに決めました。 その後父の事業失敗、医学就業して一人前になるには長すぎるし、 学資も困難と考え医者になるのを諦めて早く独立生活を目指そうと考え、 高卒後大阪の製紙会社へ入社しました。 (完)
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2009年12月19日
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