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青島中学寄宿舎跡を探訪 ↑青島日本中学校寄宿舎。1921年(昭和3年)完成。 先月11月16日、来青中の細田静男氏の案内で、 青島日本中学校の寄宿舎跡を探訪しました。 例によってM田さんの車で現海洋大学の校庭に入りました。 この寄宿舎は、 1921年、青島中学の新校舎と同時に建てられたもので、 6月30日に校舎が移転し、7月25日に寄宿舎も移転しました。 寄宿舎の居室は19室で、収容可能人数は95人。 部屋の広さは約16畳で、一室の定員は5人でした。 居室のほかに舎監室、養気室、図書室、食堂、洗濯場、浴場があり、 全館スチーム暖房が設備されていました。 当時、中国各地は日本人が急増して中等学校が不足していました。 そのため青島中学は中国各地から入学者を受け入れました。 青島中学の寄宿舎は1928年「桜雲寮」と名づけられ、 毎年50人〜70人前後の入寮者が寮生活を楽しみました。 その様子を「青島日本中学校校史 」より2編抜粋しましたので ご覧ください。 ※年別入寮者数 1921年(大正10年) 60名 1925年(大正14年) 77名 1929年(昭和 4年) 70名余 以後1944年(昭和19年)まで 50名前後で推移。 (青島日本中学校校史 より) ↑寄宿舎跡入り口。現在は海洋大学の校舎として使われている。 ↑同プレート。現在は勝利楼と呼ばれている。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私の寄宿舎時代(大正末期) 第六回生 辻田栄治 私が寄宿舎に入舎したのは大正12年4月で、 中学3年になった時だったから5年卒業まで丁度3年間を過したのである。 部屋の数は二十室位だったらうか、 舎生総数八十名程の者が一部屋に三人乃至四人ずつ配置されていた。 私には一、二年の下級生の生活は余りピンと来ないが、 恐らく一、二年生時代は上級生は怖いのでその言いつけを ハイハイと真面目に聞いて暮していたのであろう。 私の入舎前には先輩の中に茶目気の強い人がいて、 マカナイ征伐と称し食堂からマカナイ部屋へ侵入して 飴湯等盗んで来たりしたなどの昔話を聞かされたが、 私の入舎後はそんな腕白もなく和気藹々で特記する程のものは無かった。 寄宿舎は校舎裏側のヤーメン山の山懐に横に長い二階建であった。 朝六時起床、七時朝食、夕食は午後五時、夕食後六時迄自由時間、 午後七時から午後九時迄自習時間、 午後九時から舎監の先生の各室毎に点呼があって、 午後九時三十分消灯就寝という毎日の繰り返しであった。 午後五時の夕食が終わると各人思い思いに自室もしくは他室に行って 当日の学校での出来事や友人の噂などで午後七時の自習時間まで 口角泡を飛ばせて雑談するのが楽しみでした。 ↑寄宿舎食堂入り口。 ↑寄宿舎食堂内部。現在は会議室として使われている。 私の一年先輩(五回卒)に黄瀛さんが、 四年の頃東京の正則中学から転校して来られ、 流暢な東京弁で話し合った事を思い出す。 また、李岐山さん(五回卒)も寄宿舎生活で、同氏は陸上競技が得意で、 毎日放課後ランニングやハードルレースの練習を 他の舎生と一緒にしておられたのを思い出す。 毎日の献立は各室順番で一週間分の調理表を作っていたが、 一週間に一度は山東牛のスキ焼を入れることにして 若い食べ盛りの舎生には好評であった。 一週間に三度、月、水、金だったが、午後三時に おやつの時間でジャムバンなどが一個宛配られた。 毎日朝六時に起床して七時の朝食時間まで自由な時間だったので、 英語のリーデングでもする格好で、 三々五々入れ替って寄宿舎の近くのアカシヤの林の中に待機している 中国人の饅頭売りの所へ行き、 三角饅頭やギョーザなどを買って食べたものである。 それも現金でなく付けで後払いなので、 その付けの買主の名前が乃本希典とか猿飛佐肋など でたらめの人名を記入していた。 ―略― ↑青島中学の中庭。ここで朝礼が行われた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ああ、桜雲寮(抜粋) 第二十三回 白石泰資 日中事変で一時避難していた在留邦人が ぼつぼつ青島に戻り始めた昭和十三年春、 私は山海関から母に連れられて心細い気持ちで、初めて青島の地を踏んだ。 行李を洋車に積んで新学期前の静まりかえった寄宿舎に、 末だ桜は咲いてなかった気がするが、 舎監の後藤小一郎先生に案内されて入寮した。 花の一年生時代。この時代を寄宿舎用語で「雑兵時代」といった。 二、三年生が古兵殿であり、四、五年生は神様で、 花の一年生のわれら雑兵どもは、 専ら先輩への奉仕と団体規律の訓練に明け暮れた。 よくも耐えてきたと、いまでも、われながら感心する。 先輩の蒲団のあげおろしから洗濯、靴みがき、食事の給仕に、舎監の見張り、 そのあい間には一堂に集められて 集団説教や応後歌の練習と殆ど息つく間もなかったが、 十二、三人いた一年生仲間は誰ひとり落伍することなく元気に育っていった。 午後十時の消燈でやっと解放され、蒲団にもぐりこむと、 霧笛がきこえてきて、ひとり頬を濡らしたものだ。 ↑寄宿舎の廊下。 入寮した頃の寄宿舎の費用は、たしか1ヵ月七円位で、 小遣いは五円程度ですんだ。 食事の献立もなかなか豪華で毎土曜日はすきやき、 月に一回は火鍋子が定例で しばしば大きな海老の煮つけを出されて、うんざりしたりしたものだ。 そのようなわけで寄宿舎出身者は、すきやきをつくるのが上手なはずだ。 先ず牛肉を入れて油がジュッと出たころ、糸こんにやく、焼豆腐をいれ、 砂糖、醤油をぶちこみ、葱はいちばんあとでいれて あまり煮すぎないようにしてたべる。 間違っても、タレをビシャビシヤにした、いわゆる「牛なべ」でなく、 正統派すきやきである。 毎土曜、作って食べていたのだから、寄宿舎生は絶対の自信かおる。 入舎した頃の賄いは宮崎さん。 あの頃は平和なよき時代で、 火鍋子すきやき、大海老の煮つけに飽き、 「もう少し、うまいものを喰わせろ」 という一種のストまがいの「賄攻撃」をしていじめたこともあったが、 本当にお世話になりました宮崎さん。 その宮崎さんにひとり娘がいた。 鬼神もこれを避く女人禁制の寄宿舎に紅一点だったから、 まさに女神のような存在で女学校に通っていた。 すこし色は黒かったが、当世風でいうグラマー美人で、 よく辺りの暗くなるのをまって、中庭から忍びこんで、 入浴中のヌードを拝みにいったものだ。 ↑青島中学の工作室跡。 一年生から、だんだん上級に進むと、寄宿舎生活にも余裕がでてきて、 先輩サービスは雑兵に任せて、 消燈後、舎を脱け出して深夜の紅燈を彷徨できる。 と言っても専ら喰い気専門で、中国服に変装して、 山東路の裏通り辺りの悦賓楼とか便宜坊などに餃子やワンタンを仕入れにゆく。 平康里にいった剛の者もいたらしいが、 チャン料理にせいぜい禁制の映画ぐらいだった。 映画といえば、よくいった映画館が洋画専門の「福禄寿」だった。 外人部隊や望郷を、ニキビ面に血を沸かして観た。 当時、邦画を封切りしていた電気館もあったが、 六時半頃から夜の部が始まり九時頃終映するのに較べて、 洋画専門館は、たいてい九時半頃から夜の部が始まり、 殆ど中国人や外人の観客ばかりで、私ら脱柵組には好都合だった。 寄宿舎卒は映画に強い。 植民地の洋画はすべてノーカット。 私は中学三年生位から、ジン・アーサーやデートリッヒ、 クローデット・コルベルのファンだったし、 彼女たちの濡れ場を毎度見てきた。 内地育ちの同輩諸君や、通学生の皆より年期が入っているので、 人生いろごと、機微にも長じてきたと自負している。 寄宿舎を深夜抜けでるとき、 先ず下級生を舎監室に斥候にだす。 先生の寝るのをまって、一階の便所の窓から、鉄柵を一本抜いて、 そこから跳びでるのだが、 森川先生は人が悪い。 狸寝をして安心させて送り出し、 意気揚々と腹いっぱい満足をして引揚げて来た生徒を 便所の陰に隠れて一網打尽にする。いわゆる一斉検挙である。 森川先生には、たいていの舎生がお灸を据えられた。 学校の授業では国漢を受持たれ、 あの独得のモリカワ節で 「子、のたまわく……、」という低音のきいたお声も、 引揚げられて間もなくご他界され、もう聞くことができず懐かしい。 中学の休みは、春と夏と冬に学期休みがあった。 しかし、どういうわけか、春や冬の休みはあまり記憶にない。 青島の初夏はすばらしい。 七月に入ると授業の方も午前中で切り上げられ、 二十日まで、毎日午後からパンツ一つになって 校長先生を先頭に学校から魚山路を下って忠の海の海辺に水泳にゆく。 どうやら試験も終わって、九月の二学期まで長い夏休みがあり、 この頃がいちばん、うきうきした楽しいシーズンであった。 那須先生から小遣を受け取り、 いそいそと帰省の土産を山東路に買出しに出かけた楽しさが いまでも胸をうつ。 ↑青島中学の武道場跡。 |
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2009年12月22日
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