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済南滞在記 内藤道久 <この記事は、青島日本中学同窓会誌「魚山」第12号 1996年1月号より転載させていただきました。> ↑北京、天津、済南、青島の近辺図。 終戦の年の8月末日から10月初めまでの約1ケ月、 私たち4人の青中25回生は、 済南市の東本願時の本堂で寝食を共にしながら不安と焦燥の日々を過ごした。 この年の春、 北京経専に進学した山口昭雄君、清田三郎君、佐藤善昭君と私の4人で、 八路軍の手で破壊された“膠済鉄道”の復旧を待つ 避難所での共同生活だった。 北京での学業は2ケ月で打ち切られ、 北京郊外の豊台にあった陸軍の“北支那野戦貨物廠北京支廠”に 泊まり込みの勤労動員となった。 終戦で動員は解除され、 8月22日朝、青島に帰省すべく北京駅を後にしたが、 天津まではなんとか汽車でたどり着いたもののそこから先の津浦線が不通、 やむなくイギリス租界に住む級友の家に 山口君と2人で泊めてもらい済南行きの列車を待つことにした。 2日目の朝天津北駅に行くと、 済南行きの軍の装甲列車が出るとのことで 幸いにも数十名の日本人旅客のみが便乗を許された。 雨の中を時速20キロ位のノロノロ運転が続き、 国府軍の北上を阻止するため 各所で八路軍による鉄道破壊が行われていると聞かされ、 いつレールに仕掛けられた爆薬が炸裂するかも知れないという たいへん不気味な鉄路の旅だった。 夕暮れが近づいた頃、 日本兵が警護するある駅で装甲列車は運行を中止、 これから先は危なくて行けないという。 ↑北京―天津―済南―青島の鉄道図。 その日はその町で宿泊したが、 翌日からは集団を組んで徒歩で済南に向かうことになった。 日本軍の支配地域は大きな町の周辺部だけで、 ここから先は八路軍支配地域だといって 日本兵の護衛が引き返したときはさすがに緊張したが、 生まれて初めて接触した八路軍兵士はあどけない少年兵、 腕につけた『河北省人民解放軍』のワッペンがたいへん印象的で 今も瞼に焼き付いている。 彼らが携えている銃はすべて三八式歩兵銃で、 それもピカピカに磨かれており軍規も非常に厳正だった。 八路軍支配地域では宿泊の場所と食事が与えられたが、 就寝前には必ず八路軍幹部による講話、いわゆる“洗脳教育”が行われ、 講師はすべて日本人幹部だった。 噂には聞いていたがかなりの日本兵が捕虜、投降、脱走など 様々な経緯を経て八路軍に身を投じているようだった。 鉄道の破壊は、八路軍兵士、農民を総動員して徹底的に行われており、 レール、枕木は遠くの部落まで運び去られ、 路床の盛り土も切り崩し、通信線の電柱までなぎ倒していた。 済南も間近になると、 鉄道は折り返し運転をしており済南駅には汽車で到着した。 駅には鉄道、軍、報道関係者が待ち構えており、 何事かと尋ねると津浦線不通後初めての 天津方面からの旅客到着とのことだった。 済南駅の日本人職員に真っ先に尋ねたことは “膠済線”の運行状況だったが、八路軍によって随所で破壊され、 当分復旧の見込みなしと告げられたときには、 その実態を目撃しているだけに目の前が真っ暗になる思いだった。 とりあえず駅に近い華北交通の武道場に収容されてここで一泊、 翌日済南領事館警察の係官の指示で三太馬路の東本願時に移動した。 本堂は30畳位の広さしかなく、 収容されたのは約20人で半数が学生だった。 青中1年後輩の中村昭市君、中村滋君、小笠原康雄君、 山本吉雄君なども一緒でいずれも北京経専、北京工専生だった。 青島学院から北京工専に進学していた竹内正充君(一小出身)も 加わってきたが、互いに助け合い最後まで仲良く過ごした。 寺の住職は現地召集されて不在、 若い住職夫人が何かと親切に世話をしてくれたが、 食事は庭に築いた竃(かまど)での自炊生活。 米、調味料、薪などは領事館警察の方から支給されたが、 副食物などをどのようにして作ったのか定かな記憶がない。 9月も中旬になると奥地から済南に向けて日本人避難民が集中し、 日本人小学校などが避難民収容所となり、 領事館警察の要請で我々学生は これら収容所の校庭の仮設便所設置作業などに従事した。 なにがしかの日当が支給されたが、 作業の帰りにこれでラーメン、餃子などをよく食べたものだ。 ある日の午後、 かつての青中軍事教官・杉浦大尉が部隊長をしている部隊が 近くにあることが分かり、訪ねて行こうということになった。 杉浦部隊本部の営門で来意を告げると、 衛兵司令が丁重に部隊長の居室まで案内してくれた。 杉浦大尉は当時、 山東省の治安警備を担当していた北支派遣第43軍に直属の 特別挺身隊の部隊長だった。 この別名杉浦特別挺身隊とはアメリカ軍の中国大陸上陸に備えて、 北支派遺軍の中から800名の精鋭なる兵士を厳選して結成された 特別斬込み部隊だった。 ↑昭和19年(1944年)当時の青島日本中学教職員。 突然の訪問にもかかわらず、 「よく訪ねて来てくれた」 と杉浦教官は快く迎えてくれ、早速当番兵に命じて酒食の準備をさせ、 一升瓶の日本酒などが運ばれてきた。 しばしの談笑後、教官は思い出したように、 「そうだ、懐かしい人に会わせてあげよう」 と、当番兵に某上等兵を呼ぶように命じた。 ほどなくして、入り口のドアをノックする音と同時に、 「宮崎上等兵。参りました! 入ります!」 と、威勢よく大柄な赤ら顔の上等兵が入ってきた。 なんと、青中体育教師・宮崎カバ先生である。 まったく予想外の再会劇だった。 「まあ、宮崎先生も一杯どうですか?」 杉浦教官のコップ酒の勧めに対し、 「ハッ、自分はただ今勤務中であります! 遠慮させて頂きます! 」 「まあまあ、宮崎さん。気楽に気楽に、無礼講でいきましょう」 あぐら姿でコップ酒の我々を横目に、カバ先生はコチコチの正座姿。 何とも対照的な恩師と教え子の姿だったが、 反面、軍隊における“部隊長”の絶大な権威を垣間見た思いだった。 聞けば、現地召集兵として近隣の部隊に入隊していた宮崎上等兵を、 杉浦教官が第43軍司令部と直接交渉して この特別挺身隊の剣道教官として招いたとのことだった。 宮崎先生は日本体操学校(現・日本体育大)のご出身だが、 学生時代は剣道部の主将として活躍され腕前は五段とお聞きした。 間もなくカバ先生は勤務があるとのことで退席されたが、しばらくすると、 「エーイ! ヤーア! 」 と、元気な掛け声が営庭の方から聞こえてきた。 窓から眺めると、 部隊本部の将校以下全将兵が壇上のカバ先生の指導のもと、 木刀を振っての剣術の訓練だった。 ↑青島日本中学の寒稽古風景(剣道)。 後日知ったことであるが、 杉浦特別挺身隊は 国民政府軍から済南周辺の治安の維持確保を正式に要請され、 翌年1月末まで武装解除されることなく併せて在留邦人の保護にも尽力し、 皇軍として有終の美を飾ったと伝えられている。 終戦後にもかかわらず、恩師宮崎先生が 熱心かつ誠実に将兵に剣術を指導されている姿を、 17〜8歳の未成年の教え子たちが、 かつての熱血・峻厳な軍事教官とコップ酒を飲み交わしながらの高みの見物、 終戦ならではの、なんとも奇妙でユーモラスな光景だった。
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2009年12月08日
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