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三八式歩兵銃 よもやま話 <今回の記事は、 青島中学第25期同窓会誌「魚山」第18号(1998年1月)より 転載させていただきました。 戦前、青島中学、青島学院と、 二度にわたって盗難、強奪された「三八式歩兵銃」とは 一体いかなるものだったのか。 その歴史的考察から始まります。> 三八式歩兵銃よもやま話(一) 内藤 道久 ■ ■ 初陣は青島攻略戦 大正3年(1914)8月、 日本は日英同盟を名目にドイツに対し宣戦を布告する。 9月、神尾光臣中将率いる久留米18師団を主力とした日本陸軍は 山東半島龍口に、天津駐屯イギリス軍との日英連合軍は労山湾仰口に上陸し、 11月7日、ドイツの租借地青島を占領する。 ↑青島攻撃軍司令官・神尾光臣中将。 この青島攻略戦で初陣(ういじん)を飾った二つの兵器がある。 一つは海軍航空隊の「モーリス・ファルマン式水上飛行機」であり、 他の一つは陸軍歩兵部隊の「三八式歩兵銃」である。 明治36年(1903)、ライト兄弟によって 59秒の初飛行に成功した飛行機の初陣は理解できるが、 「三八式歩兵銃」の初陣にはやや意外な感があろう。 ■ ■ わが国の歩兵銃の歴史 ここで少し、明治新政府による国軍の創設、 すなわち近代兵制確立後の歩兵銃の歴史をたどって見ると、 明治7年、新政府は歩兵銃として英国製スナイドル銃を正式に採用する。 しかし、この銃は故障が多くかつ射撃精度も悪く、 軍首脳部は歩兵銃の国産化を検討する。 明治8年、陸軍少佐・村田経芳は小銃国産化の特命を帯びて ヨーロッバ各国の視察を命ぜられ、 帰国後イギリスから日産能力100挺の製造設備を導入し、 試行錯誤を繰り返して明治13年になって「村田銃」を完成、 これが歩兵銃として正式に制定化される。 「一三式歩兵銃」の誕生である。 その後、この一三式歩兵銃には再三の改良が加えられ、 「一八式歩兵銃」、さらには「二二式村田連発銃」となる。 しかし、この二二式連発銃は故障も連発し、 日清戦役では一八式単発銃が主役となる。 明治25年、軍首脳部は仮想敵国とみなすロシア陸軍に対抗すべく、 新小銃の開発を東京砲兵工廠長・有坂成章大佐に命じる。 有坂は当時世界的に広く採用されていた ドイツのモーゼル型新機構を取り入れ、 無煙火薬を使用する6・5ミリ口径、 中央弾倉・連発式の「三〇年式歩兵銃」を完成する。 当時、イタリアを除く列強の軍用小銃は口径7〜8ミリが主流で (村田銃も8ミリ) この三〇年式の6・5ミリは軍用小銃としてはあまりにも小口径すぎ、 殺傷力が劣るのではと一部に反論もあったが 「残酷なる殺傷は人道にあらず。 銃傷はただ戦場に於いて敵兵の戦闘力を失わせれば即ち足る」、 との武士道的、倫理的与論が大勢を占め、 6・5ミリに決定したというエピソードか残っている。 さて、日本内地では優れた性能を発揮していたこの「三〇年式歩兵銃」も、 満州広野での日露戦争では意外な欠陥が露呈する。 “黄塵万丈”と言われる中国大陸の大砂塵によって 薬室や機関部に砂塵が詰まり、 また想像以上の寒気によって遊底内のスピンドル油が凍りつき、 作動不良を起こすなど事故が多発した。 この事故に衝撃を受けた陸軍技術本部では直ちに改良に着手、 防塵用の遊底覆いを設けるなど数箇所の改良を実施する。 この改良銃が正式に制定化されるのは日露講和後の明治39年末、 本来ならば「三九式」であるべきだが、 その音(おん)の良さから「三八式歩兵銃」と名づけられたと言う。 普通、兵器の形式が変わった場合、 これが全軍に行きわたるには約10年を要するといわれ、 青島攻略軍の主力、第18師団の歩兵部隊全員が この新型歩兵銃を手にするのは大正2年(1913年)10月末、 かくて「三八式歩兵銃」は青島攻略戦で初の実戦参加となるのである。 ↑「三八式歩兵銃」を担いで久留米第18混成師団の青島入城式。 ■ ■ 青島中学と「三八式歩兵銃」 大正5年、「三八式歩兵銃」がほぼ全軍に行きわたり、 大量の三〇年式歩兵銃の余剰に苦慮した陸軍当局は、 これを廃銃として一部を三井物産、大倉商事などを通じて 中国に輸出することを認めるが、 大半は全国の大学高専、中等学校、青年学校に 訓練銃として払い下げる方針を決定する。 国民皆兵の思想にもとづく青少年を対象とした軍事訓練の始まりである。 当時は「兵式訓練」と呼ばれており、 その実施はとくに義務化されたものではなかったが、 屯田兵の流れをくむ北海道を皮切りに 旧満州、朝鮮、台湾、樺太にあった中等学校などが比較的早く実施している。 青島中学では、大正8年4月7日青島守備軍司令官臨席のもと、 3学年以上を対象に「銃器貸与式」が行われているが、 青島守備軍軍令によって設立された中等学校として、一旦緩急ある場合には、 在郷軍人会とともに在留邦人警護の役割が期待されたのだろう。 当時、青中の3学年以上の生徒数は約200名、 寺島守備軍から「三〇年式歩兵銃」とともに 「三八式歩兵銃」も貸与されており、 わが青島中学は全国でもっとも早く 「三八式歩兵銃」を訓練銃として使用した中等学校と言えよう。 なお、中等学校以上の学校に軍事教練が義務づけられるのは、 大正14年の軍縮、いわゆる“宇垣軍縮”以降のこと。 この年、勅令による「学校配属将校令]が公布され、 中等学校以上の学校に現役将校を配属し、軍事教練の実施を制度化する。 折しも大正デモクラシーの爛熟期、 当然、これに反対する民衆の声も強かったが、 軍縮による現役将校の身の振り方を考えての苦肉の策であったようだ。 この“宇垣軍縮”によって、陸軍4個師団が削減・廃止されることになるが、 青島攻略戦の主役《久留米18師団》も廃止となり、 当時の青島在住福岡県人を嘆かせたと言う。 我々25期生入学時の配属将校は吉臭登大佐、 大佐の配属将校といえば、日本内地では旧帝大クラスである。 この大佐殿、馬上で抜刀した日本刀で、 乗っていた自分の馬の耳を斬りつけたという逸話の持ち主で、 「ミミ」と言うアダ名がついていたが、 一方、絶えず酒臭いと言うことで「呑ん平」とも呼ばれていた。 「呑ん平」大佐の後任は陸士特科出身の熱血・峻厳な杉浦義太郎大尉。 多くの青中生に尊敬、畏敬されていたが、 杉浦大尉の着任時の教訓、『真剣、元気、明朗、徹底』は 今の時代にも通じる言葉である。 杉浦大尉在任中に《配属将校》は《軍事教官》と改称される。 杉浦教官は19年6月に済南方面軍の参謀に就任とかで退任され、 後任は東京高等師範出身の長身の中尉殿。 しかし、この中尉殿に教練の授業を受けた記憶は全く残っていない。
(つづく) |
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2009年02月15日
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