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三八式歩兵銃 よもやま話(二) <今回の記事は、 青島中学第25期同窓会誌「魚山」第18号(1998年1月)より 転載させていただきました。 戦前(昭和16年)、 青島中学で軍事教練用の「三八式歩兵銃」2挺が盗難に遭い、 3年後の昭和19年、今度は青島学院で武装集団に襲われ、 すべての銃を強奪されました。 この一大不祥事件は日本憲兵隊を震撼させます。 武装集団を率い、流暢な日本語と中国語を操って指示する男は一体何者か。 なぞは深まるばかりです。 ※文中「青中」とあるのは「青島日本中学校」のこと。 また「八路軍」というのは「中国共産党軍」のことです。> ↑青島中学(現海洋大学)俯瞰全景。 三八式歩兵銃よもやま話(二) 内藤 道久 ■ ■ 青中「三八式歩兵銃」盗難事件 「三八式歩兵銃」の照尺と遊底覆いの間には菊の紋章が刻まれていた。 天皇の軍隊の象徴だったのだろう。 民間および学校に払い下げられる銃には、 刻印によってこの紋章が消されるのが原則となっていたが、 なぜか青島中学に貸与された銃には菊の紋章がそのまま残されていた。 この菊のご紋章の入った「三八式歩兵銃」二挺が 青中銃器庫から盗まれるという、 当時にしては一大不祥事件が発生するのは、昭和16年8月末のことだった。 夏休み中の人気(ひとけ)の少ない時期を選んだものと思われる。 スケート・リンクのあった中庭から、 銃器庫の窓の金網・ガラスを破り犯人は侵入している。 当時、青島憲兵隊本部の副隊長の多田憲兵少佐(陸士出身)は、 私の親父の旧制中学の2年後輩でかつ碁仇、 しばしば休日に来宅(憲兵隊とわが家は同じ湖南路)して 夕食を共にし碁を打っており、 犯人捜査の一端を窺い知ることができたが、 青中の中国人使用人、とくに校舎の地下室(ボイラー室隣)に寝起きしていた 4〜5人の雑役夫達は、連日連夜、かなり厳しい取り調べを受けたようだ。 この事件の4年前、北京郊外・盧溝橋で日支両軍が軍事衝突し、 青島在留邦人の一時総引揚げが実施されるが、 この際約6ケ月間、まったく管理者不在にもかかわらず、 約三百挺の「三八式歩兵銃」にはなんら異常がなかった事を思うと、 ナンともナメられた事件である。 青中生の中での、この盗難事件による被害者?は舎生(寮生)諸君だった。 銃器庫の応急的補強工事が実施されるが、 工事が完了するまで舎生が部屋単位で夜間の巡回警備を担当させられ、 睡眠不足で授業中に居眠りをする者も多くいたが、教師も黙認の状態だった。 この盗難事件に関し、我々通学生が一番悔しかったことは、 青島学院に進学している小学校時代の悪友からの嘲笑的罵言たった。 「中学はなんだ!・・・、 サンパチ二挺もパーロ(八路)にパクられた(取られた)らしいナー、 シッカリせいや・・・!」 と、言うものだった。 しかし、臥薪嘗胆、隠忍自重すること3年、これら悪ガキ学院生に対し、 ついに溜飲を下げる時が、それもある日、突然にやって来たのである。 ↑青島中学校平面図。赤い矢印の部屋が銃器庫。 ■ ■ 『学院よ、お前もか・・・』 昭和19年2月某日の深夜、 台西鎮にあった青島学院商業学校裏の貴州踏の海浜に一隻のジャンクが停泊、 これから下船し、 ピストルで武装した十数名の八路軍兵士と思われる便衣姿の一隊が 青島学院に侵入、宿直の日本人教師を脅迫して銃器庫の鍵を開けさせ、 約二百挺の「三八式歩兵銃](一部三〇年式)全量を奪い去ったのである。 報道管制の厳しい折、当然新聞には報道されなかったが、 数日にしてクチコミで日本人社会に伝えられ、 これを聞いた一部の青中生の間では“喚声”ならぬ“歓声”が沸き起こった。 「ザマー、見やがれ!…」 と言うものだった。 当時、「メンを切った」と言うヤクザもどきの因縁をつけ、 青中生に集団暴力を振るうチンピラ学院生が跡を絶たず、 彼らに対し“積年の大怨”を抱いていた青中生の怨念が、 かかる“歓声”と化したものだ。 実は私も歓声組の一人だった。 後日、学院生に聞くところによると、 この夜の宿直教師は某大学の文学部出身の英語教師で、 甲種幹部候補生上がりの陸軍予備少尉とのこと。 当然、憲兵隊の厳しい事情聴取を受けるが、 不可抗力と言うことで特にお咎めはなかったようだ。 大陸戦線の戦記を読むと、 この頃すでに北支派遣軍の各地の独立守備隊などが 激しい八路軍の集中攻撃を受けて全滅を重ね、 年間五千挺を越える「三八式歩兵銃」が鹵獲(ろかく)されていたと推定される。 二百挺ほどの損失は当時の軍部にとって それほどの重大事件ではなかったのだろう。 一方憲兵隊筋の情報によると、 宿直教師に指示・命令した乱入部隊のリーダーは、 流暢な日本語を喋るとともに部下には中国語で指示し、 また、常識的には証拠隠滅・犯行隠蔽のため 宿直教師の拉致あるいは射殺などが考えられるが、 暴行さえなかったことから、 このリーダーの元日本兵八路軍幹部説が有力だったようだ。 しかし、この事件も青中盗難事件同様、迷宮入りのまま終戦を迎えるのである。 ↑青島学院跡(1992年)。 (つづく) |
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2009年02月18日
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