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三八式歩兵銃よもやま話(四) <今回の記事は、 青島中学第25期同窓会誌「魚山」第19号(1998年5月)より 転載させていただきました。 青島中学25期生たちは数々のエピソードを残して卒業。 間もなく敗戦を迎えます。 そして、三八式歩兵銃のその後は・・・。> 三八式歩兵銃 よもやま話(四) 内藤道久 ■ ■ 集団脱柵で夜の“忠の海”へ ↑小魚山から見渡した忠の海(第一海水浴場)。2007年。 5年生1学期の期末試験も終わり、水泳訓練が始まった。 この頃になると4年修了進学者の帰省と母校来訪があり、 早稲田、明治大学の専門部に進学した日下 稔、藤井 耕両君、 また京都大学付属医専に進んだ雨森良幸君などが角帽姿で来校するが、 この3人がともに故人とは残念だ。 夏休みに入り、舎生が一斉に帰省し、 夜間の青中校内は宿直教師だけ。 これでは不安だと言うことなのだろう、 全校生が“宿泊訓練”の名目で寄宿舎に一日交替で泊まり込むことになった。 我々のクラスの宿泊日は8月上旬、 朝8時に登校して午前中は川添先生指導の「修練」、 鍬を振っての開墾作業とか温室の水やりなど。 昼食は「教練」の一環として、 ノダ将軍こと小川教官の指導で校庭での“飯盒炊さん”実習、 さすがに将軍殿も夏休み気分で、 軽い冗談も飛び出すというまるでハイキング並の雰囲気、 5年間を通じて最も和気藹々とした教練の時間だった。 午後はバレーボールなどで適当に時間を過ごしたように思う。 夕食後は自由時間だが、教科書持参という者はほとんどなく、 雑談に花を咲かせていた。 午後9時、舎監教師の点呼も済み、9時半の消灯も間近かに迫った頃たった。 突然、入口のドアを激しくノックして悪友のO君が入ってきた。 「内藤よ、今あちらの部屋で相談がまとまり、 滅多にない機会だから 脱柵して“忠の海”に遊びに行こうということになった。 お前も行かないか? この部屋から他にも参加希望者があれば、 消灯時間30分後に食堂入口付近に集合だ!・・・」 彼が一気に喋った話はこんな内容だった。 午後10時に指定場所に集まった者は11名。 予科練入隊などで当時の1クラスは37〜8名前後、 この中から舎生数名が抜けているので、 ナンとクラスのほぼ3分の1が参加する集団脱柵となった。 舎生諸君の脱柵談によれば、窓の鉄柵を1本抜いてとか、 2階の窓から柔道着の帯で吊り下ろされてとか言うことだったが、 この夜の説柵は極めて簡単、 舎監寝室の消灯を確認後、寄宿舎正面玄関から堂々と出るという、 言うなれば“夜間無断外出”だった。 しかし、寄宿舎南側の先輩戦没者の霊が眠る「英霊之碑」の裏の、 高さ約2メートルの木柵を乗り越えた時には、 さすがに脱柵の実感といささかの罪悪感が湧いてきた。 夜の“忠の海”は昼間の賑わいとは打って変わっての静けさ。 ただ聞こえて来るのは、寄せては返す波の音だけ。 夜間の治安悪化も手伝って人影はまばらで、 わずかに中国人のアベックが 砂浜の所々に座り込んで涼をとっている程度だった。 どうやらこの説柵行、行き先を間違えた感じだった。 1時間余りアベックをひやかしたり、タバコを吸ったりして、 再び「英霊之碑」の裏の木柵を乗り越え、午前O時前に全員無事帰還した。 後日知ったことだが、 「学院三八式銃強奪事件」で 陸軍側からその警備の責任を指摘された海軍当局は、 面子(メンツ)上、大学路部隊の陸戦隊に 特別巡邏隊を編成して市内の夜間パトロールを開始、 《青中銃器庫》は最重点警戒施設とされ、 1時間に1回は青中周辺を巡回していたようだ。 ある深夜、湖南路のわが家の前を通る巡邏隊の姿を見かけたが、 1班6名編成で全員三八式歩兵銃を担っていた。 もしも、忠の海から帰りのあの“柵越え”の現場を この巡邏隊に目撃されていたならば、 まずは不法侵人中の八路軍の一味と見なされ、 巡邏隊員の「三八式歩兵銃」の一斉射撃は必至、 死傷者の発生も充分に考えられた。 当然、集団脱柵の悪事は露見し生存者?全員の厳重懲戒処分は確実。 さぞや「英霊之碑」に眠る先輩を嘆かせたことだろう。 ↑湖南路。2007年。 ★★70歳以上の日本男性なら、かつて誰もが一度は手にしたことのある兵器、 それは世界に誇り得る「三八式歩兵銃」である。 しかし、その優秀性を意識した日本人は意外に少なかった。★★ ■ ■ 今なお健在「三八式歩兵銃」 三八式歩兵銃は明治39年より 東京・小石川の陸軍造兵廠で量産が開始されるが、 大正12年の関東大震災で工場が崩壊し、 それ以後は名古屋造兵廠等に移され、計100万挺が製造される。 昭和14年、口径7・7ミリの九九式小銃が制定され、 以後、三八式歩兵銃の製造は中止となる。 九九式は皇紀2599年に因んだもので、 終戦までの製造総数は不明確であるが、 その殆どがアメリカ軍と対決する太平洋戦線と本土防衛部隊に配備され、 三八式歩兵銃の大部分は在中国の部隊に装備されたまま終戦を迎える。 一方中国は、大正3年世界大戦の勃発で、 それまで兵器の供給を依存していたドイツからの輸入が途絶え、 以後、日本、英国に兵器の供給を要請するが、 当時日本には民間兵器産業はなく、すべて陸軍造兵廠製であったため、 軍の指導で兵器輸出組合が設立される。 今風に言えば“死の商人”の組合であるが、 「泰平商会」(中国名は泰平公司)と称し、 三井物産、大倉組商会、高田商会が代表者に名を連ねていた。 この泰平商会を通じて中国に輸出された小銃の総数は約27万挺、 村田銃・三十年式銃も含まれ約16万挺が三八式歩兵銃であった。 もちろん、これら中国向け輸出銃には菊の紋章は除かれていたが、 《三八式》の三文字はそのまま刻印されていた。 数年前、なに気なく中国語辞典を見ていると 《三八大蓋》(サンパーダーガイ)の四文字が目に止まったが、 そこにはなんと「三八式歩兵銃」とあった。 なお、当時の中国の政府軍、革命軍、地方軍閥などの兵士の総数は 約100万、 およそ4分の1が日本製小銃を所持していたことになる。 昭和12年7月、北京郊外・盧溝橋で日中両軍が軍事衝突、 当初は破竹の進撃を続けるが、昭和19年に入ると守勢に回り、 終戦までに相当数の三八式歩兵銃が中共軍に鹵獲(ろかく)される。 昭和20年8月終戦、 この時点で中国(満州を除く)駐屯日本陸軍兵力は約55万余名、 約30万挺の三八式歩兵銃が中国側によって武装解除され、 前述の輸出銃、被鹵獲銃と合わせて約50万挺、 実に総製造量の5割の三八式銃が、 戦後、中国国府軍および中共軍の手中にあったと推定されている。 ところで、この50万挺の内、とれ程の数が現存するのか? これは極めて興味深いところであるが、わが国の軍事専門家の見解では、 人民解放軍の下部組織である武装民兵(公称・700万)の主要兵器として、 今なお10〜20万挺が現存する、 と言うのがほぼ一致した意見となっている。 ↑日独青島戦争。日本軍は三八式歩兵銃を構えて突撃。 弾丸を撃ち尽くしたドイツ軍は直ちに降伏。肉弾戦はなかった。 ■ ■ 「三八式歩兵銃」の優秀性 国破れて50有余年、今なお敗戦国の小銃がこれ程多く、 戦勝国側に現役兵器として存在するとは 世界軍事史上にその類を見ない事例である。 この要因は、一に三八式歩兵銃の優れた性能にあるといって過言でなく、 その長所を要約すれば“比類のない低反動衝撃性”と “高い命中率”にあると言えよう。 三八式歩兵銃は、 まず6・5ミリという小口径に比し銃身が充分に長く(79・7cm)、 また銃の慣性質量も充分なので、 射手の肩にかかる反動衝撃は極めて軽少である。 同じ理由から発射時の銃口の振れも少なく、発射音も比較的低く、 小柄な射手にとって必要な条件がすべて揃っており、 構成員に若年・女性兵士を擁する中国民兵にとって、 代替のない貴重な小銃として活用されているという。 もし諸外国の7・5ミリ口径小銃のように、 肩の骨を蹴られるような強烈な反動を生ずる銃であれば、 射手の体はどうしてもその一瞬を予期して堅くなり、 引金に力をこめて引いてしまう。 これを「ガク引き」というが、 ガク引きは銃のブレを生むので決して高い命中率は期待できない。 重くて小口径の三八式歩兵銃なればこそ、反動はさほど気にならず、 射手はリラックスして引金を引き絞ることができる。 これが「三八式歩兵銃は命中率は高かった」、 と言われる一つの要因である。 国共内戦時、小銃同士の撃ち合いでは人民解放軍の「三八大蓋」は、 近代装備の国民政府軍の「モーゼル98ライフル/カービン銃」に、 いささかも撃ち負けなかったと伝説的に伝えられており、 これも中国の民兵組織で今なお現役銃として使用される、 根強い理由の一つだといわれる。 なお、終戦時、 中国以外のアジア諸国にも相当数の三八式歩兵銃が残されたが、 いずれも弾薬の消耗と共に廃銃の運命をたどっており、 その点中国では、当初から使用後の薬莢が計画的に回収され、 三八式用銃弾が再生産されているという。 (つづく)
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2009年02月23日
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