青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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三八式歩兵銃よもやま話(完)



<この記事は、

 青島中学第25期同窓会誌「魚山」第19号(1998年5月)より

 転載させていただきました。


 青島中学25期生たちは数々のエピソードを残して卒業、

 間もなく敗戦、引き揚げ。

 そこには幾多の苦難が彼らを待っていました。


 ご愛読いただきました「三八式歩兵銃よもやま話」、

 いよいよ大団円を迎えます。>



三八式歩兵銃 よもやま話(完)


             内藤道久




■ ■ 桜ケ丘にこだました一発の銃声
   

やや堅苦しい話が続いたので、

ここらで桜ケ丘学舎時代の「三八式歩兵銃」にまつわる

懐かしい一つのエビソードを紹介したい。


戦時色が益々深まり、

我々25期生から中止、または廃止となった学校主要行事・慣例が三つある。

「修学旅行」「実弾射撃訓練」「卒業アルバム」がそれである。

この内、弾薬資材の温存を目的とした実弾射撃演習の中止は

軍部の通達によるもので、全国の中等学校が対象になったようだ。

然しながら、我が青中25期生の中に、間違いなく在学中に、

それも桜ケ丘の校庭内で三八式歩兵銃の実弾をブッ放した快男児がいた。

その快男児をN君と呼ぼう。


5年生のいつ頃だったのか定かな記憶はない。

教練の時間に三八式歩兵銃を携え、

下のグランドのほぼ中央に階段に向かって整列し、

始業のベルを今や遅しと待っていたその時である。

突然、隊列の前方に一人歩み出たN君が、

東南の方角に向かっで“伏射”の姿勢をとり、

槓悍を操作するや照準を定め、“カチャ”と引金を引いたその瞬間、


「ダァーン! 」


という耳をつんざく銃声が桜ケ丘原頭にこだましたのである。

一体何事だ?・・・と級友全員が注視する中、

ゆっくりと起き上がったN君は何事もなかったかのごとく隊列に復した。

ほどなくして始業のベルが鳴り響き、

階段西側の坂道をノダ将軍こと小川教官がゆっくりとした歩調で下りてきた。


イメージ 1

  ↑青島中学(現海洋大学)の運動場へ下る坂道。(2006年)




「教官殿に敬礼、かしら−ッ中! 」


の礼に挙手の礼で応えた教官が静かに口を開いた。


「先ほど、銃声のような音が聞こえてきたが、あれは一体なんなノダ?」


緊迫した空気がみなぎった。

一瞬の間を置いてN君が大きな声で答えた。


「ハッ、自分が実弾を発射しました! 」

「前へ出ろ!」


と、Nを自分の前に呼び出した教官は、

即座にその三八銃の銃口を握るやグッと自分の鼻元に引き寄せ、

なんと臭いを嗅ぎ始めた。

どうやら銃身内に残る硝煙の臭いで、

実弾発射の事実を確認している様子であった。

さりげない仕草であったが、

「さすがプロの万年少尉だなァ」

と、後々までも皆の話題となる名場面?だ。

この情景があまりにも印象的であったためか、

私の記憶はここでプツリと途切れている。

その後N君がどのような訓告・処罰を受けたのかまったく記憶にない。

記憶が再び鮮明なのは、この教練の時間の終了直後からである。


「解散!」と言う級長の号令を聞くや否や、

7〜8名の者が

グランドの東南隅にある野球用バックネットに向かって駆け出した。

私もその中の一人だった。

N君の発射した弾痕の確認だった。

その弾(たま)は

バックネット下部の厚さ4センチほどのタール塗装の黒色の板を貫通し、

背後の岩壁で炸裂していた。


昭和56年7月16日、あの日から37年の歳月が経っていた。

私は応後歌の練習で思い出深いあの階段に、

泉篤、江川定、知久董の諸君とともに立っていた。

戦後最初の母校訪問時である。

その時、私の脳裏にあの“一発の銃声”が蘇ってきたのである。


「そうだ・・・あの弾痕を今一度見届けて、土産話にでも・・・」


という気でもあったのか、私は一人バックネットの方向に歩いていた。

然し当時の“山東海洋学院”にとって

《棒球》(野球)は覇権・帝国主義的美国”の国技・・・、

全く無縁のスポーツだったのだろう。

バックネットは跡形もなく取り壊されていたのである。


なお、快男児N君とは、現在、府中市に健在の新村清人君である。
 


■ ■ 北京と「三八式歩兵銃」


昭和20年4月、私は北京経専へ進学した。

「理科系志望の筈のお前がなぜ経専だ? 」

と、よく聞かれたものだが、

当時、本人は真面目に北京大学工学院(部)進学を志しており、

8月中旬の入試に備えて中国語の習得が主目的だった。


入学後、最初の教練の時間に「銃器貸与式」という儀式が行われた。

一人ひとり、老大佐の軍事教官(配属将校)の前に進み出て

大声で氏名を申告し、

差し出された「三八式歩兵銃」をうやうやしく両手で受領するものだった。

ある日、校外行軍訓練が行われ、西単にあった学校を出発、

西長安街・東長安街を経て東単北大街を北上、

朝陽門から城外に出た所にある「日本人墓地」を参詣し、

再び学校に戻るものだった。


長安街には、

1949年毛沢東が高らかに中華人民共和国の成立を宣言した

あの《天安門》が聳え立っており、

今もなお、毛沢東の肖像画が掲げられている天安門をテレビなどで見るたびに、

あの門前を三八式歩兵銃を担って行進した若さ日の己が姿がラップし、

懐かしく回想している。


イメージ 2

  ↑1999年10月、建国50周年の天安門。




6月上旬、ついに勤労動員令が下り、

北京郊外豊台にあった陸軍北支那野戦貨物廠北京支廠に

営内居住の動員となった。

仕事は軍属並の事務的な雑務が主であったが、

学校で貸与された三八式銃を担っての入隊で、内務班に起居し、

班長(下士官)による生活指導はまったく初年兵並だった。

7月上旬の未明3時頃、突如、営内に非常呼集ラッバが鳴り響いた。

「何事だ!」とばかり飛び起き、大急ぎで軍服に身を固め、

三八銃を片手に営庭に駆け参じた。

営庭には既に廠内外の警備を担当する警備中隊などが整列を終えており、

我々学徒報国隊の整列を待って週番将校の訓示が始まったが、

その日はなんと7月7日、日支事変勃発8周年記念日だった。

訓示後、事変発祥の地《盧溝橋》までの行軍が実施されたが、

往復で2時間ほど、文字通り“朝めし前”の行軍となった。


《盧溝橋》は13世紀のイタリアの旅行家マルコ・ポーロの

『東亜見聞録』にも紹介される歴史的な名所旧跡、

ぜひ一度訪ねたいと願っていた所だが、

夢もロマンもない甚だ不粋な訪問となった。
 


■ ■ アメリカにも「三八式歩兵銃」


「内藤さん。アメリカに行って『三八式歩兵銃』を撃ちませんか?・・・]


昨年の夏頃、旧知のMさんからこんな話があり一瞬返答に窮した。

Mさんは外車販売会社の二代目社長でライフル射撃の名手、

県代表として国体にも何度か出場しており、

自宅応接間には数々の優勝杯と表彰状など所狭しと飾られている。

私はすっかり忘れていたが、

かつてMさんのお宅に伺ったとき


「私達の旧制中学時代は、

弾薬の不足で三八式銃による射撃訓練は中止になりました」


と、残念?そうに語っていたらしい。

Mさんクラスの射撃選手ともなれば、

年に1〜2回はアメリカに射撃練習に出かけており、

昨年初めて訪ねたアリゾナ州の射撃練習場には世界各国の軍用小銃が置かれ、

料金さえ払えば誰でも自由に使用可能で、

その中に「三八式歩兵銃」もありましたよ、というのが話の趣旨だった。



■ ■ あとがき


今回、泉篤君達の尽力で

53年ぶりに立派な「卒業アルバム]が完成した。

また、10年前の昭和63年5月には《魚山会訪中団》の一員として、

級友諸兄・諸姉と共に北京、青島、済南、蘇州、上海などを訪ねたが、

これも卒業43年ぶりの「修学旅行]たったと認識している。

よく熟年世代から、

「○○を済ませて私の戦後は終わりました」

の言葉を耳にする。

今回、この様な、一見“三八式歩兵銃礼讃”と思える雑文を書き綴ったが、

これはあくまで青春の回想記・・・。

私は元々、反戦・平和主義者である。

間違っても「私の戦後は終わりました」の一言のため、

わざわざアメリカにまで出掛け

「実弾射撃訓練」を体験することはあるまい・・・と思っている。


イメージ 3

  ↑99年10月北京。建国50周年で賑わう王府井。


                (完)


※ご愛読ありがとうございました。

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