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昔、東文書院があった 縁とは不思議なものです。 Y君に洗面所の修理をしてくれる人を探してもらったところ、 50代の、人のよさそうなおじさんがやってきました。 簡単な修理を終わって代金を払うと、 帰り際にそのおじさんが 「実は、私の父は東文書院の卒業生で、日本語が堪能です。 一度遊びに来てくれませんか。父もきっと喜ぶと思います」 と私に話したのです。 今年の春に遡りますが、 旧姓増満様ご姉妹とそのご夫妻がアメリカから来青されました。 その折、増満様から 「父が東文書院で中国語を学んでいたらしいのですが 東文書院をご存知でしょうか」 と聞かれたのです。 東文書院の名前は「青島日本中学校校史」にも出てきますし、 私のブログの中の 「武藤直大の昭和ひとけた戦中史」にも出てきますが、 私には全くその知識はありません。 とんちんかんな答えしか出来ずに終わったのですが、 その後、東大研究員の山本様に調査の依頼をしましたところ、 その山本様から、 「史料が見つかった」という返事をいただいた矢先でした。 早速、M田さん、Y君、私の3人で、 張さんというそのおじさんの家に伺うことにしました。 場所は台西鎮の海に近いアパートです。 83歳になるお父さんは私と同じく足を悪くしていましたが、 私たちの車の到着を知ると、 待ちかねたようにわざわざ玄関の外まで出てきて迎えてくれました。 お父さんは東文書院で6年間、日本語や商業実務を学び、 昭和19年(1944年)卒業しました。 スポーツが得意で、そろばんはいつもトップの成績という 当時のエリートだったようです。 いかにもスポーツマンという体躯で、 久しぶりだと言う日本語も正確で、一点の乱れもありません。 勿論、Y君の通訳は必要でしたが、 私たちの質問に快く答えてくれました。 お父さんは卒業後、華北電電に就職。 青島の電電で会計を担当していましたが6ヶ月で退職。 その後は伯父さんが経営する医薬品会社で会計事務を任されました。 中国解放後は資産階級としてさまざまな苦難が続きましたが、 お父さんはそんな辛い思い出話も、 何のこだわりもなく笑いながら話してくれました。 東文書院の卒業生はほとんど実業の世界へと進んだようですが、 話の中で何人かの日本人の名前が出てきました。 その中に東文書院の名誉校長・増満繁雄の名前があり、 もしや、と思いましたが、 アメリカ在住の増満さん一家とは無関係のようでした。 ただ、山本様の史料の中に 「東文書院は邦人のための華語科があり(目下9名)・・・」 というくだりがありますから、 この華語科に増満様のお父様が在学していた可能性があります。 ↑青島学院の陸上選手。写真は原山さん提供。 青島中等学校対抗運動会には東文書院も毎年参加した。 短い時間でしたが、 気にかかっていた東文書院のことが、卒業生から 直接話を聞くことができたとは何という幸運でしょうか。 青島の日中交流史の一端を垣間見る思いがし、 さわやかな気持ちで張さん宅を辞しました。 ※東文書院創立者李仲剛は日本敗戦後北京において 銃殺刑に処されました。(青島日本中学校校史) □ □ □ □ □ △山本様に調べていただいた東文書院に関する史料 (その一) 青島日本人会の記念大会ではお世話になりました。 その節にお話しにあった「東文書院」ですが、 手持ちの史料の中にこの学校に関するものを見つけました。 興亜院華北連絡部『昭和十六年七月 北支に於ける文教の現状』という史料の中で、 昭和15年11月調として華北の各現地人学校に配属された日本人教員数が記載されています。 それによりますと、青島特別市の中学は以下のようにあります(p.95)。 学校名 教員数 青島市立中学校 4 同女子中学校 2 同第一女子補習学校 1 私立崇徳中学校 2 同東文書院中学校 8 同礼賢中学校 1 同聖功女子中学校 1 この私立東文書院中学校というのが、東方飯店近くにあったという東文書院ではないでしょうか。 そして日本人教員が8名と最も多く、おそらく日本語教育にかなり力を入れていたと思われます。 この学校の詳細については今後の課題とします。 以上、簡単ですが調査報告を申し上げました。 △東方書院に関する史料 (その二) 東文書院について別の史料に記載があったので、報告します。 東文書院 場所 青島膠州路一号 教師 李仲剛外日支人教師四名講師九名 生徒数 昼間部 145名(一年生)(二年、三年ナシ) 夜間部 114名(日語科)11名(研究科) 教授時間 午後八時十五分ヨリ九時四十五分 教科書 自修日語読本(東文書院発行)現在日語読本、文法、 小学国語読本、初等日語読本 備考 本校昼間部ハ三カ年制ニシテ課目ハ日語ノ外経済、法制大意、 会計簿記等ヲ併セテ課ス 又夜間部ハ二年制ニシ更ニ一年制の研究科アリ日語ノミヲ教授ス 右ノ外邦人ノ支那語研究ノ為華語科ヲ附設シアリ(目下邦人学生九名) 外務省文化事業部『機密 昭和十三年十一月 支那ニ於ケル日本語教育状況』(50頁) 場所は膠州路となっています。観象山のそばのようですね。 また教師の「李仲剛」という人物は、『青島日本中学校校史』によると昭和8年1月から昭和14年3月まで中国語の教師として教鞭を執っていたそうです。 1938年時点で昼間部が145人、夜間部が114人と結構生徒数があったようですね。設立がいつなのか、経費はどうなっていたのかは不明ですが、東文書院の状況が少し見えました。 それでは、失礼いたします。 山本一生
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2010年12月04日
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