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昭和20年(1945年)12月 一、引き揚げ列車 敗戦になっても北京は平静だった。蒋介石が北京に入城を果たしたのは1週間あとだったし、日本軍が武装解除されたのはそれからさらに1週間ぐらい経ってからだった。 私は華北電電電気通信学院の寮にいた。学校は全寮制だったが、中国各地から応募してきた現地生たちは自宅や親戚の家に引き取られて次々と寮を出て行った。残っているのは内地で募集した生徒と、自宅の状況がわからない者、鉄道が破壊されて帰宅できない私のような青島出身者だけになった。 暑い盛りの一日、私たち生徒は華北電電の倉庫に連れて行かれ、毛布とオーバー、冬物下着などが支給された。倉庫には衣料品や事務用品、医薬品などが山のように積まれていた。会社としては、倉庫が中国側に接収される前に、衣料品等を社員に配給しておこうという思惑があったと思われる。いずれにしても、私は大いに助かった。4月に入学したばかりで冬物は持っていなかったし、内地引き揚げの命令が出たのは真冬の12月だったから、天の恵みのようなものだった。 9月に入ると状況は一変した。市内に居住する独身男子は市内から退去するよう指示が出たのだ。電気通信学院の寮は北京市内二区小乗巷胡同というところにあった。私たちはバスで30分ほど西の郊外に移った。そこには日本人専用の大きな団地があり、華北電電、華北交通、郵政などの社宅が集まっていた。華北電電の社宅はひと際大きく、鉄筋3階建ての白い建物に私たちは収容された。寮生の急増でトイレが足りなくなり、中庭に深い溝を掘り、板を渡して青空トイレを急造した。 団地の周囲は見渡す限りの平原が開け、北と西の遥か彼方に峻厳な山々が望見できた。北に向かって真っ直ぐ進めば万寿山、さらにその先に万里の長城がある、と聞かされた。夜になるとその山岳地帯から、八路軍と蒋介石軍が撃ち合う激しい機関銃の音が聞こえた。 ↑北京駅。99年撮影。 1945年当時の北京駅は、前門にあった。 駅前が路面電車のロータリーになっていた。 一度出された引き揚げ命令が延期になり、その数日後、突然12月14日出発が決まった。前日のことだ。 「準備は出来たかあ」 と、若い教官が見回りに来て、私の荷物の前に止まると、足で荷物を小突きながら、 「何だこれは。こんな緩くては駄目だぞ。やり直せ」 と言って出て行った。 布団袋に布団一組を入れただけの小さな荷物だったが、まだ13歳の私には荷造りの仕方もわからず、これ以上きつく縛ることは不可能だった。誰も手伝ってくれる者はいない。そのままにして出発の朝を迎えた。 社宅の奥さんたちに見送られて生徒たちは門を出た。何も遮るもののない草原の向こうに小さく駅が見えた。駅といっても貨物の引込み線の、積み荷用の屋根のないホームがあるだけだった。 体の小さい私はみんなに遅れて布団袋を担ぎ、よたよたと歩き始めたが、50メートルも行かないうちに荷物を落として立ち止まった。布団一組を担ぐなど子供の私にはもともと無理だったのだ。担いでは落とし、落としては担ぎしていると、白い割烹着を着て見送っていた奥さんが一人、見かねて飛び出してきた。私と2人で布団袋の片方づつを持ち上げると、奥さんはずんずん歩き出した。学校で軍事教練を担当していた羽田教官の奥さんだった。見送りの人たちから感嘆の声が上がった。 「おー、さすが羽田さんの奥さん、力持ちだ」 こうしてどうにか駅に辿り着いた私は、布団袋をあきらめ、リュックサック一つにまとめることにした。駅の周りには中国人の子供たちが屯していた。引き揚げの日本人たちが置いていく不要品をいただこうと、おとなしく座って待っているのだ。私は近くにいた少年を呼んで、布団袋を持って行くよう手まねで告げた。少年はうれしそうに頷くとマントウを三つ四つ紙に包んで私にくれた。物々交換のささやかな代金だった。 9時出発予定の引き揚げ列車は1時間以上遅れて到着した。それは人間の乗る車両ではなく、長い長い無蓋貨車の列だった。生徒たちに割り当てられた車両に乗り込み、わずかな隙間に腰を下ろした。生徒のほかに単身赴任の先生が数人、付き添いという名目で車両の片隅に陣取っていた。 11時ごろ、列車は何の前触れもなく走り出した。が、やがてのろのろ運転に変わり、人家も何もない農村の真ん中に停まった。北京駅すらまだ通過していない。行き先は天津郊外の塘沽港で、そんなに遠くはないが、この分ではいつ到着するのか予想もつかない。 ぱらぱらと車両から飛び降り、小用をたす者が出てきた。男性は車両の近くで出来るからよいが、女性は少し離れたところでしゃがまなければならない。列車はいつ発車するかわからない。 「先生、便所に行ってもいいですか」 私もたまらず大声を出した。返事はなかった。私は“大”のほうを我慢していた。もう一度先生に許可を求めたが返事はなかった。先生といえども「行って来い」とは言えない。途中で発車しても列車を止めることは出来ない。黙って聞こえない振りをするだけだ。 私は意を決して車両から飛び降りた。急に発車しても戻れるぐらいの距離を目で測り、線路と線路の間のくぼみでしゃがんだ。幸い、列車が走り出す気配はなかった。 列車は北京駅に近づくと息を吹き返したように快調に走り出した。駅には別の引き揚げ列車が停車していた。お互いに手を振り合い、一斉に大合唱が起こった。 「♪さらば北京よ、また来るまでは、しばし別れの涙がにじむ」 誰も、再び戻って来られるとは思わなかった。無蓋貨車に詰め込まれた自分たちの無残な姿は、日本が再び立ち上がれないほど叩きのめされたことを思い知るには充分だった。 列車は勝ち誇ったように、高らかなリズムを響かせながら走っていた。 つづく
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2010年12月25日
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