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昔、青年学校があった 青年学校といってもご存知のない方が多いでしょうが、 昭和15年(1940年)には新たに青年学校令が発せられ、 この年から5年制の義務教育が始まりました。 これにより日本の義務教育は小学校尋常科の6年間と、 高等科の2年間、さらに青年学校の5年間(男子のみの定時制)、 合計13年間という長さになったのです。 国民皆兵の時代ですから二十歳になると徴兵検査があり、 健康な者は皆軍隊に入って新兵の訓練を受けなければなりません。 学歴のまちまちな者が一斉に訓練を受けるわけですから、 当時の軍部は新兵教育にはずいぶん頭を悩ましたようです。 そこで古くからあった青年学校と、 軍事教練を目的とした青年訓練所を合併して、 新たな青年学校を発足させ義務化が始まったわけです。 青島の青年学校は第一日本尋常高等小学校に併設され、 校長には中村義之校長が兼任しました。 ↑第一小学校の玄関で記念撮影。 “日本青年学校”の看板が大きく目立つ。 左側中村校長。写真;アカシア会提供。 昭和17年(1942年)に青島中央国民学校が新設され、 小学校の高等科と青年学校が独立して新設校に移転しました。 青島中学を落第した不肖私もこの学校で1年間学びましたが、 2階の教室に青年学校の教室があり、 ときどき授業をやっていました。 あまり顔を合わせたことがありませんでしたから、 授業と言っても数えるほどの時間数ではなかったかと思います。 時代が変わって、日本は敗戦、日本人はみんな内地に引き揚げました。 私は高崎逓信講習所を経て高崎郵便局電信課に勤務しました。 昭和22年(1947年)、時はまさに学制改革の真っ最中。 最後の青年学校がまだ細々と存続していました。 1ヶ月に1、2回、課長に呼ばれ、 「今日の午後、青年学校があるから行って来い」 と言われて仲間数人と出かけました。 義務教育といっても官庁勤めのひまな新米社員が集まるだけで、 民間の会社に勤める若者はそんな暇はありません。 授業は小学校の空き教室を利用して、 年配の先生から一般教養のようなものを聞かされ、 天気のよい日は周りを散歩して終わるという簡単なものでした。 昭和23年(1948年)8月、 私は勉学の大望止みがたく、いよいよ東京へ出る決心をし、 大手町の東京中央電信局に転勤しました。 寮があった東京大森はまだ焼け跡が生々しい一面の焼け野原でした。 当時、秋葉原から歩いて10分ぐらいの便利なところにS学園があり、 9月の新学期が始まると早速入学手続きに行きました。 この高校も小学校の教室を間借りした夜学専門の学校で、 受付にいた若い男が願書を渡してくれました。 正直に言うと、私にはまともな学歴はありません。 小学校高等科1年を終了すると 北京の電気通信学院に4月から8月の終戦まで在学し、 内地に引き揚げてから高崎逓信講習所を1年。 これだけの半端な学歴ではなんとなく恥ずかしくなったので、 青年学校に1年間在学したことを学歴に加えました。 ところが私の入学願書に一通り目を通した受付の若者は、 「あなたは高校の2年に編入することが出来ますよ」 と言うではありませんか。 定時制高校は4年制ですから2年に編入できれば 3年間で卒業できます。 してやったり! とばかりにずうずうしくも2年に編入することにして、 その場で面接を受けました。 当時は学制改革の混乱期で、しかも夜学ですから、 面接だけでいとも簡単に入れる時代。 しかもありがたいことに、 1年に数回しか通わなかった青年学校の学歴が堂々とものをいう時代でした。 都内のどの夜間高校も中卒者が高卒の資格を取るために、 卒業間際の4年生に編入希望者が殺到し、 定員などなんのその、生徒数は異常に膨れ上がり、 学校経営は空前の好景気でした。 私が通ったS学園も世の中が落ち着くと板橋の新校舎に移転し、 現在はいっぱしの私立高校として繁栄しています。 ちなみに、あのとき受付に座っていた若者は当時の校長の息子で、 今ではS学園創立者の二代目として君臨しているようです。
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