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天津の絵葉書集(一) □天津の私□ 私が天津に来たのは93年の5月だった。 その日は初夏のような陽気だった。 私には縁もゆかりもないと思っていた天津だったが、 ひょんなことから天津の大学で日本語を教えることになった。 北京空港までS埼さんが迎えに来てくれた。 日本語教師の仕事を紹介してくれたのがS埼さんだった。 運転手は中年のおばさんだった。 車は天津S大学の留学生寮に着き、 私はその日からその寮に泊まることになった。 S埼さんは天津でプラスチックの工場を経営していた。 S埼さんはほかに、そのS大学で、 日本の中小企業で働きたい若者を募集して日本語を教え、 日本に送り込む仕事もしていた。 S大学にはJ教授という女性の日本語の先生がいて、 国際交流所という外国人留学生の受け入れ業務と、 宿舎の運営管理を行う部署の所長をしていた。 大学の中では唯一外貨が稼げる部署だったから、 J教授は女ボスのような存在だった。 S大学の国際交流所はJ教授を中心に 一大ファミリーが形成されていた。 S埼さんは上海の同文書院の出身で中国語も達者だった。 同文書院出身といっても日本の敗戦で繰り上げ卒業だったが。 天津には同文書院の先輩で戦時中捕虜になり、 そのまま中国に帰化した小林さんという人がいた。 S埼さんは小林さんのツテで天津にプラスチック工場を造り、 S大学にも顔が利くようになった。 同文書院のS埼さんの仲間たちも時折天津にやってきて、 ボランティアで日本語を教えたりしていた。 私が教える大学はS大学ではなく、 天津対外貿易学院という国際経済を教える国立の単科大学だった。 授業のある日は大学から車で迎えが来た。 当時、国際貿易を教える大学は数が少なく、従って人気が高く、 優秀な学生が中国各地から集まっていた。 学部は貿易日本語科と言ったが、 天津には日本語を教える先生はまだ少なくレベルも低かった。 天津の生活は不便だった。 トイレットペーパーや洗剤まで 日本から持って来なければならなかった。 日本人の先生も途中で逃げ出す人が多く定着しなかったらしい。 私のように中国生まれの中国育ちは ただ中国にいるというだけで満足だった。 対外貿易学院は小さな大学だったから家族的で、 日本語以外の先生方ともすぐ仲良くなった。 こうして2004年12月までの11年間、 波乱の天津生活が始まった。 (つづく) |
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2011年01月18日
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