青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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天津の私(終)

天津の私(終)



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↑南開大学の茶室でお点前のお稽古。2001年。




S大学K学院の1期生が4年生になったとき、
K学院とS大学外国語学院が合併した。
日本語学科の学生は1クラス50人の大所帯になった。
K学院はなくなったが、これはJ教授の布石だったようだ。
そのあとJ教授は外国語学院の学部長に就任して周囲をあっと言わせた。
2年前、国際交流所の実権を奪われて元気がなかったJ教授は、
代わりに外国語学院の実権を握って見事に復活したわけだ。
その後、外国語学院の卒業生たちが大学院を卒業したり、
日本留学から帰国してS大学の日本語教師になったりして、
J教授の新しいファミリーが着々と広がっている。

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↑茨城キ大学校門にて。留学した天津S大学卒業生たち。2003年。




2004年、J教授は定年となり、私の命運も尽きた。
その年の暮れ、国際交流所は私のビザの延長を打ち切った。
私も70歳半ばである。よくここまで雇ってくれたものだ。
9月に入学したばかりの1年生がうわさを聞いたのか、
「先生、来学期はもう来ないのですか」と聞いた。
「いや、残りますよ。来学期も一緒に勉強しようね」
と。私は嘘をついた。
「ああよかった。先生残るんだって」
私の嘘を聞いてみんな喜んでくれた。

年末、日本へ帰る前に一度青島に行ってみることにした。
青島には対外貿易学院時代の教え子が3人いる。
3人とも独立して会社を経営している青年実業家だ。
李G君は、日本人が投資した生簀の会社の経営を任されていた。
李G君の「先生、青島に来なさいよ」という一言で私の心は決まった。
李G君の会社の「顧問」ということにしてビザの手続きをすることになった
私のビザの期限は翌年の1月20日だ。もう天津に戻っている暇はない。
パスポートを李G君に預けて、延長手続きが終わるまで青島で待つことにした。
S大学のK先生に電話して必要書類をホテル宛に送ってもらった。
幸い、この年から日本人教師が他の都市へ移動する場合、
教育委員会の証明書は不要になり、
外国人居留証も廃止になって手続きは簡単になった。
ビザの期限ぎりぎりになって手続きが終わり天津に戻った。

荷物の整理が始まった。整理しても整理しても整理しきれない。
長年住み慣れた部屋にはガラクタがいっぱいだ。
ガラクタさえも愛着があってなかなか捨てきれない。
日本人のSさんが手伝いに来てくれてやっとガラクタがなくなった。
私の蔵書は対外貿易学院時代の教え子周さんが引き取ってくれた。
周さんは大きな貿易会社の日本部長だ。
会社の本棚に日本の本を並べて後輩に読ませるのだと言っていた。
私の引越し荷物は、周さんの会社の荷物として青島まで送ってくれた。
安かった。

S大学は冬休みに入っていた。
顔なじみの寮のおじさんおばさんはもういない。
寮の従業員は新しい所長のファミリーで占められていた。
私が青島から帰ってきても冷たい視線を浴びただけだった。
寂しいお別れだったが、もう思い残すことはない。

さようなら天津。
新しい天地、ふるさと青島へ出発だ。

(完)

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↑天津S大学の学生と南昌を旅行。2002年。

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