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今回は久しぶりに武藤さんから原稿をいただきました。 「武藤直大の旅日記」を2回に分けてお送りします。 中国の新幹線の旅をお楽しみください。 □中国の新幹線に乗って、、、杭州―温州旅日記 武藤直大 ■華僑のふるさと 5月のゴールデンウイーク直前に行って帰ろうと計画したのだが、昨年よりも航空運賃は高かった。HISで杭州往復8万50円(全てを含む)。東日本大震災の影響だろうか。 もう一つ、その影響を感じたのが、私の住む東京・目白に近い池袋西口の中国人商店街。200軒ぐらいあったのが半減していると、テレビがレポートしていた。それでも帰国しないで頑張っている商店の経営者にレポーターが理由を聞くと、 「日本は努力すれば報われる国だよ。帰国した中国人も必ず帰ってくる。もっとよくなるよ。今がチャンス」 と元気である。アメリカン・ドリームではなくてジャパン・ドリーム、日本は彼らにとって希望に満ちたチャンスの国なのである。仕事が無いと称して、不満顔でぶらぶらうろうろしている日本の若者に聞かせてやりたい。 彼がその地の出身かどうかは知らないが、私が行こうとしている温州はこういう華僑を一番多く出している街である。住民は昔から“中国のユダヤ人”と呼ばれ、中国全土と世界中に約200万人の商人が進出している。 杭州駅に行った。高台にある駅の周囲の道路に荷物を持った乗客が大勢しゃがみ込んでいる。列車に乗るのだったら、中に入って改札口に並んだ方がいいのに、、、と思ったのだが。 「田舎者だよ。早くから来て2、3時間待っている」 同行の友人はそれ以上の説明はしない。昨年の上海駅でも同じ風景だった。駅周辺の人込みと構内の喧騒。両駅とも広いというより圧倒されるような広大さだ。まるで混雑時の成田空港である。空港にゲート(搭乗口)があって待合室があるように、行き先毎に幾つも広い待合室がある。通路やその待合室を荷物を両手に乗降客が足早に行き交う。日本の人口1億2千万と13億の差を感じさせる。 要所要所に電光掲示板がついているが、列車番号や行き先など漢字、数字、英語も入り混じって、簡単には分からない。私もここに来たら田舎者で、一人で目的の列車の改札口に到達するのは容易ではないだろう。 友人を見失わないようにしっかり後ろについて新幹線に乗り込む。新幹線と言ったが、正式名称は高速鉄道である。車体の形は日本の新幹線と同じだが、線路は在来線を今までの倍以上のスピードで走るのである。と聞くと何となく怖くなる。 ■新幹線車内で 友人と並んで座った。次の駅に着くと、乗り込んで来た客の1人が友人と何か話している。友人が切符を見せて、少し離れた席を指差した。そこには誰かが座っていたが、客が行くと素直に立ち上がってどこかに消えて行った。 「並びの席が買えなかったから、私がここに座った。その理由を言って代わってもらった。私の席に座っていたのは指定席の切符の無い人」 「それにしても皆さん優しいね。俺はここに座りたいと、恐い人に言われたらどうする?」 「その時は代わるけど、皆、分かってくれるよ」 私の乗った車両の半分は食堂車で、中の様子がよく見える。乗車してからずっとテーブルについている客が何人もいた。どうも指定席券の無い客らしい。そういえば日本でも、新幹線が出来た頃、現役時代の私も出張で同じことをしていたことを思い出した。 車内の前方の電光掲示板には、日本と同じようにその時点でのスピードが表示される。最高は248キロだった。しかしカーブや何らかの理由で減速される区間があって、遅い時は100キロ以下になった。やたらに速く走られるよりは安心だ。 車内放送は中国語と英語である。ふと、中国語の中に英語が混じることに気がついた。「次の停車駅は温州(ウェンジョウ)ステーション」と言う。ステーションはコカコーラと同じように、もう中国語化したようだ。約500キロを4時間で到着。 ↑写真は昨年、上海と重慶を旅したときのものです。 ■人口30万が800万都市に発展 もう20年以上前、私の現役時代に買った『コンサイス外国地名辞典』によると、温州市は「人口10〜30万人(1971)。1984年に沿海港湾都市の一つに指定された」とある。それで人口は今や800万人。40年間で27倍、正に驚異的発展である。 やはり空港のような大駅ビル。高い2階の窓から郊外の山が見えた。600メートルぐらいで高山ではないが、なだらかで広い山だ。ところが緑の景色の中でその山の裾野から中腹以上までが何故か白く見える。 「あれはお墓だよ。親が亡くなると子供たちは家のように立派な墓を造る。石の部屋の中にはベッドやテーブル、冷蔵庫があるし、新しい薄型テレビもある。亡くなった人の住み心地がいいように、競って親孝行をするからね。あまり山を侵食してはいけないので、当局は取り締まっているのだが、どんどん増えてしまった」 駅ビルの地下駐車場も何百台入るのか分からないほど広大だ。そこから市内へ。農地や荒野だった駅周辺の道筋でビル建設が進んでいる。再開発で土地が売れ(国有なので70年間の使用権)、政府に莫大なお金が入ることだろう。だから市内までの距離は遠いほどいいかもしれない。中心地までは50分ぐらいかかった。駅よりも早い時期に出来た本当の空港には20分で行けるそうだ。 車が中心街に入ると、並木越しにきれいなショーウインドーが見える。バーバリーやルイビトンなどのブランドショップに混じって、クリニックの看板も目に付いた。間口は狭いが清潔でしゃれた感じの店が多い。北京や上海などの大都市ともかなり違っている。 昨年、重慶の大通りでもよく見かけた年代もののシャオチー(小食堂)はなかった。市民の個人的な豊かさなのだろうか。クリニックという小医院の存在は、これまでの中国旅行でほとんど見かけることはなかった。 泊るのは奮発して超高層の温州国貿大酒店にした。市では五指に入る豪華ホテルだ。まず観光見物と思って地図やパンフレットを探したが、チラシ程度のものが2枚しかなかった。 「地図は無いの?」 とフロントで尋ねたら、カウンターの下から折れ目が切れてボロボロになった地図を取り出した。それで行き先を説明すると元に戻した。普通の観光都市なら地図ぐらい客にタダでくれる。豪華ホテルのわりにはケチな対応だった。 ↑写真は昨年、上海と重慶を旅したときのもの。 ■お坊さんが散歩する道 温州では最大の観光名所になっている甌江の中洲、江心島に行った。緑の中にお寺があり六重の塔がそびえている。寺の塀には、歴史を語る絵が描かれていて延々と続く。それにはあまり興味が無くて、川沿いの道を歩いた。 並木が驚くほど立派である。二抱えもあるような太い幹から太い枝が横に張り出している。道の全面を覆い、反対側は川を覆う。葉は小さいが厚くて緑が濃い。地上に出た頑丈な板根が巨大な上部を支えている。重なりあった葉は、どんな熱い夏の太陽光線もさえぎってくれるだろう。市の樹と指定されていて通称ガジュマル。「榕樹」という桑科の植物だが、沖縄で見たものよりかなり大きい。その散歩道が1キロ以上も続く。 この道を歩くだけで来たかいがあったと思うほどで、一本一本の樹が偉大ささえ感じさせる。その道を一般の客に混じって、だいだい色の服をまとった坊主頭の若い僧たちが歩いている。日本で言えば「雲水」の身分だろう。3人とか4人固まって談笑しながら、法衣の胸をはだけた感じで気楽そうだ。そういう姿を何組も見た。明らかに散歩で、修行中の姿ではない。 「この土地は豊かだから寄付も多い。坊さんも働かなくてやっていけるんだろう。堕落しているよ」 友人は不満そうである。確かに、日本ではこういう坊さんの姿はあまり見かけない。が、「播磨屋橋で ボンさん かんざし買うを見た」という歌の文句を思い出した。人口800万都市に、土佐の高知ほどノンビリした場所があるのだ。 夜遅く市内見物に出た。10時半を過ぎた頃だったが、表通りの店はほとんど閉まっていた。最大の繁華街とされている五馬商業街もシャッター通りになっている。遅くまで稼ぐ気はないらしい。タクシーで来たが、帰りは人力車に乗ることにした。自転車で後ろに2人が座れる座席がついている。ベトナムでは「シクロ」と呼ばれていた。 我われ大人2人が乗ったら漕ぎ手はきついんじゃないかな、と心配したが、車は軽々と動き出した。凄い力!と感心したら、やがて両足を上に挙げてペダルは漕いでいない。何の音もしない。はっと気がついた。電池自動車なのだ。人力と電気のハイブリッドカーである。さすがに温州市は人力車夫まで豊かだった。 翌朝、もう一度、五馬街に行く。通りの入り口に巨大な五頭立ての馬車の銅像があった。車を引く馬は2列で偶数になるのが普通だが、この像は先頭が1頭で逞しい。昔、この地を治めていた将軍が乗り回していたということだった。 ブランドショップや中国の革製品など高級品ばかりで値段もかなり高い。東京で言えば原宿という感覚だろうか。その中で魚の干物を売っている店が安かった。油で揚げたものもある。そのまま食べられるお菓子のような干物である。 近寄ると店員に「食べてみなさい」と勧められた。小アジのような魚とドジョウが脂がのっていて、日本にはない味で美味しかった。20元(260円)買ったら帰りの新幹線で2人で食べきれないほどあった。 これまでに訪れた中国の街とは違った味のする街だった。昨年の重慶では空港に着いた直後から観光ツアーのガイドに付きまとわれたが、温州では一度もなかった。ホテルも旅行業者もノンビリしてその気が見られない。坊さんが散歩していられるような豊かな街の印象だった。 (つづく)
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2011年05月11日
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