青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

想い出の青島

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昔、青島にも小偸児(ショートル)市場があった。
いうところの泥棒市場である。

何でも売っていて、何か盗まれるとその市場へ行けば見つかる、というわけだ。
活気があったところらしいが、治安も衛生状態も悪いから、
絶対に子供だけで行ってはいけない、と言われていた。
私も子供だったから、そんな怪しげな場所に足を踏み入れたことはない。

Mさんの場合は、お父さんが社会見学のために連れて行ってくれたそうだ。

≪Mさんからのメール≫

「台西鎮だったと思うのですが、昔の小偸児市場はどうなっていますか。父と時々見学に行きました。
今の日本のフリーマーケットのように列をなしていて、地べたに並んだ物を眺めるのはなかなか面白かったです。
日本も貧しかったですが中国も貧しかったのですね。何でも役に立つので、売れたのでしょうね。
みかんの皮の陳皮などは売っていても不思議ではありませんが、長靴の片方などはどう利用されたのでしょうかね。」

台西鎮は青島駅の東側から南側にかけての一帯だ。
早速行ってみた。と言っても、去年の10月ごろのことだ。

台西鎮にはドイツの砲台もあったところだが、砲台跡も泥棒市場も、その痕跡は全くない。
すべて住宅街である。
びっしりと、六、七階建てのアパート群が建ち並んでいる。

その後、Mさんからまたメールが来た。

「台西鎮にソウルのKさんが住んでいたそうで、貴方のブログのことをお知らせしたら、返事の中で土地の様子が書いてあり、別の処ではないでしょうかということです。
思い出しましたのは「団島」ではなかったかと改めて思い出しております。」

Kさんからのメールも転送していただいた。

「昔、僕の家は台西鎮に有り、そこから 青島第二小学校に通いました。僕の家から青島の鉄道駅の横(裏の方)を過ぎたらすぐ海浜通りで、桟橋の前を出て左に回れば第二小だったと記憶しています。僕の家の横側に南西に向かって、とても広い道があって、その道の緩慢な坂を登って、まっすぐその坂を下りていくと海岸の方へ出ました。その海岸で釣りをした記憶があります。
台西鎮には、ドイツ式の二階建ての赤い瓦の屋根、その屋根に窓がある奇麗な家が並んでいて、僕はその屋根裏で遊んだりしました。 勿論その時は子どもだったので、背が低く屋根裏でも結構寝転んでいる事ができたと思います。
小盗児市場へは、僕も一度行った事が有りますが、その位置の記憶がまったくありません。 台西鎮ではなかったのではと思いますが、万一台西鎮の場合には、何処かまったく隅の方であったことでしょう。
台西鎮は台東鎮と同じく、相当広い地域でした。
健康にお過ごしください。 再見 ソウル K」

台西鎮の桟橋寄りの地域には、今もドイツ時代の建物が残っている。
Kさんの住んでいたところは、そちらのほうだったのだろう。

泥棒市場の痕跡を探しに、今度は団島へ行ってみた。

団島は膠州湾の中に突き出た岬の一帯で、台西鎮に隣接する地域である。
そこは今、新しい高層ビルが建ち始めている。
                    (つづく)

※写真(上)は台西鎮のアパート
 写真(下)は台西鎮に残っていた古い建物

昔、青島神社があった

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今の貯水山公園(遼寧路)に、昔、青島神社があった。
貯水山を当時の日本人は「若鶴山」と呼んだ。
神社の隣に日本高等女学校があり、第一小学校も近くにあった。
私の家もすぐ近くだった。

「青島日本中学校史主要年表」によると、
「1915年3月、青島未開発丘陵地及び若鶴地区に日本人新市街地の造成を開始し、商工業誘致を計画する。」とある。
その計画に基づいて、日本人居住地区が建設されていったのだろう。

高等女学校の校舎竣工が1918年(開校は1916年)。
第一小学校校舎の竣工が1917年(日本人小学校開校は1915年)。
青島神社の竣工が1919年。

そして、日本人はこの周辺に大勢住みつくことになった。

写真(上)が青島神社の元・参道で、入り口に大きな鳥居があった。
鳥居をくぐると桜並木が続き、写真(下)の階段に通じる。
百十段の階段を上ると、もう一つ鳥居があり、その奥に社殿があった。
この鳥居の土台が今も残っている。

社殿の前を右方向に入って行くと、小さな動物園があり、猿舎があった。
日中戦争が始まる前は熊舎があり、檻の中の熊は子供たちに人気があった。
その熊は1937年8月の在留邦人総引き揚げの際、射殺されたと聞く。

Mさんは、青島神社の思い出を次のように書いている。

「確か昭和15年、(紀元2600年)という事でしょうか、青島神社の境内で日本から相撲がやってきました。双葉山とか照国といった力士が来たと思います。土俵は高くつみあげられてなく、小学生も取り組みに参加しておりました。驚いたのは竹の長い鞭のようなもので、力士の背中の汗を掻きとること、その背中の大きさの凄いことでした。
青島は九州出身者が多かったせいか、琵琶を習う人が多かったようで、青島神社の祭りには境内に舞台が作られ、ひな壇に子供も大勢並び、琵琶の演奏がありました。傍に菊の花があったので多分秋のことだと思います。」

神社は、お祭りのとき以外は静かで、人気のない境内を私はよく徘徊した

現在、児童公園になっているところに、ブランコや鉄棒があった。

中学入試に失敗して、悄然と歩いているとき、
ブランコで遊んでいた同級生から、
「おい、お前が落ちるとは思わなかったよ」
と、なぐさめられた思い出がある。

猿舎の金網の前で、猿一家の動き回る様子を飽きずに眺めていたこともあった。

日本敗戦の後、青島神社はどのような運命をたどったのだろうか。

私の日本語教室に来ているT君が、子供の頃よく児童公園に遊びに行ったというので、
彼のお父さんに聞いてもらった。
それによると、

1949年、解放軍勝利の後、間もなく鳥居は取り壊された。
1956年、貯水山頂上にテレビ塔が建設された際、社殿の大部分が取り壊された。
社殿の残りの部分は倉庫や工場として使用されたが、70年代末までには整理された。
参道の桜並木の撤去は80年代に入ってからである。

ということがわかった。
神社の痕跡は、かなり後まで生き延びていたことになる。

今、階段下の広場に老人クラブがあり、お年寄りたちがトランプに興じている。
児童公園では、子供たちがトランポリンで飛び跳ねていた。
                (2006年2月19日)

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(写真は9月ごろの第一海水浴場)
青島第一海水浴場を当時の日本人は「忠の海」と呼んでいた。
青島の海水浴場についてはまた別の機会に書きたい。
今回は、海水浴場の近くに「コカコーラ」の看板があったというMさんのメールを紹介しよう。

≪Mさんからのメール≫
「忠の海の海水浴場ですが海の家が並んでいましたね。
電電(華北電信電話株式会社)もひと夏用意してくれ、利用しました。
泳ぐと体が冷えますが、飴湯をふうふう言いながら飲みますと、また元気が出て一泳ぎします。
飴湯は関西の物のようですね。

泳ぎに行くときは一号バスに乗ります。マーチョで何回か行きましたけど。
一号バスは鉄山路と第一公園を結ぶ路線です。便利でした。

忠の海の海水浴場にバスが近づくと
大きな可口可楽の看板が三叉路の所に掲げられており、
その瓶は戦後進駐軍が来たときも全く変わってなく同じでした。

可口可楽の看板は戦時中のことです。
なぜ良く覚えているかと言いますと、私は飲みたくて親にねだったのですが、
その度に「あの中には毒になるものが入っているから」と飲まして貰えなかったからです。」

残念ながら私はコーラの看板は覚えていない。
コーラの存在を知ったのは戦後十数年以上経ってからだ。
日本でコーラの製造が始まったのは1957年(昭和32年)のことだから無理もない。

初期のコーラにはコカインが入っていたそうだ。
「毒が入っている」という、Mさんのご両親のおっしゃることもあながちウソではなかった。

時代が下がって90年代の初め、青島の場末の店にコーラの瓶が並んでいた。
おや、と思った。
青島でのコーラの普及は案外早かったようだ。

ほかに適当な飲み物がなかったせいもあるだろうが、
青島人がコカコーラを受け入れる土壌はすでにあったに違いない。

≪Mさんのメールは続く≫
「青島の路上では露天商が煙草やチョコレートなど売っておりましたね。
家の近所では煙草はラッキーストライクやチェスターフィールド、キャメル、
チョコレートは勿論ハーシー。

中国の煙草では前門とか天壇、第一など。
その他南京豆などを売る店もあり、新聞紙を三角に折って秤った品物を入れてくれます。
この三角の折りかたは私は今も良くやります。便利な使い方です。

お菓子はハーシーのチョコだけでなくミントのガム、
ヌガーやクッキーなどもアメリカ製品が並んでいました。
戦後日本に入ってきたものを見て同じものが多く驚き、
また戦争に負けたのも当たり前だと思ったことです。

敵対貿易も盛んに行われていた事を思えば、
青島に米国製品が並んでいることなど当たり前なことでしょうね。
青島は国際都市として海外からの窓口でしたから尚更だったと思いますね。

父は戦時中青島で映画「風と共に去りぬ」を見たそうで、大変感動したと話しておりました。」

日本の内地では、甘いお菓子などは贅沢品としてすでに姿を消していた。

英語の使用は禁止された。

青島でも子供たちが野球をするとき、
ストライクは、「よし!」
ボールは、「だめ!」
と、コールしていた。

アメリカ映画など、見るすべもなかった時代である。
                   (2006年1月)

物売り風景、今と昔

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青島に台東という街がある。
東京に銀座と浅草があったように、
青島では高級な街が香港中路、庶民的な街が台東鎮である。         

その昔、ドイツは青島建設に当たり、
外国人専用地区として、桟橋から東へ伸びる海岸沿いに住宅街を造った。
台東鎮は中国人専用地区として指定した。
青島の道路は複雑に入り組んでいるが、
ここ台東鎮だけは碁盤の目のように整然としている。
管理しやすいようにしたためだ。

時代が変わって、今の台東の街は、東京の新宿のようににぎやかだ。

夕方になると、裏通りに立ちんぼの物売りが並ぶ。
籠の中に果物をいっぱい入れてしゃがんでいる者。
路上に四角い布を敷いて、小物を並べている者。
いつ取締りのお巡りさんが来ても、さっと逃げられる態勢だ。

取締りが来た、という情報が入ると、
一斉に、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。
その様が、また見事でおもしろい。

逃げ遅れて捕まれば、容赦なく商品を取り上げられる。

のんびりしているのは、占いのおじさんおばさんだ。
路上に何食わぬ顔をして、小さい椅子に座っているだけだ。
そこへ、悩みごと相談の人がやってくる。

取締りのお巡りさんも、あまり強く追い払ったりしない。
車の中から手を振って、「やめなさい」と言う程度だ。

占い師(?)は、ただ、占いの文句を書いた紙を折りたためばいい。
それを懐に入れて空を仰げば、ただのおじさんおばさんだ。

昔の話に戻る。

ドイツ統治から日本統治時代になると、
日本人も中国人も混在して、住宅街が広がって行く。
商人たちも集まってくる。

中国人商人たちは、生活の糧を求めて市内の住宅街に物売りに入って行く。

どんな物売りがいたのか、いつものように、Mさんのメールから紹介しよう。

「秋から冬になると焼き栗やが来ましたね。
手籠に綿布団で包んだ熱い焼き栗を売り歩く声を思い出します。
「栗ー子」と声を長く引きやって来ます。
外に出て声をかけると、玄関で棹はかりで計って売ってくれます。
夜静かな街に響く声は、冬の風物で寒さを一層感じさせました。

ドイツパンを売るワゴン、
ワゴンでない人は天秤棒の両側にガラスの箱をぶら下げて売りに来ました。
美味しかったですね。

洋服の生地を反物で重ねて担いで歩く生地屋。
白系露人もいましたが、みな男性で長衣を着ていました。
         
小学校の夏のピケの帽子は、汚れると帽子の洗濯やに頼み洗濯して貰います。
歩道の上に引き車を停め、洗濯道具を一式備え、頭の形の木型に帽子を被せ、
直ぐに洗い始めます。ブラシで擦り本当にアット言う間に仕上がります。
男性のソフトも皆洗っています。見ているだけでも楽しかったです。

しんこ細工のことを覚えていますか。
道端で台をおろした小父さんが、
鐘馗や、またいろいろな武将などを棒を芯にして上手に作り、
出来上がると、台の前に立て並べて売っています。
白い「しんこ」にいろいろな色を混ぜ捏ねて、手のひらで上手に延ばし、
たちまち作ってしまいます。
あれは確か冬に出る商売だったような気がします。
天津では見かけましたか。
中国語の先生に、私のお土産はそれにして欲しいと頼んでありますが、
今は見かけないのでしょうか。未だに実現されません。」

最後のしんこ細工は、天津で見たことがある。
今のは単純な形でつまらない。
昔はもっと複雑な人形にして売っていた。

包子やシャオビンも売りに来た。
昔の包子は、中身がいっぱい入っていてうまかった。

道路の角にはお湯を売る店があった。
ブリキの筒が外に突き出ていて、蒸気が噴き出し、笛が鳴った。
お茶を飲みたいときは、やかんを持って買いに行けばいいのだ。

私の家でお産があったとき、大急ぎでお湯を買ってきて産湯にしたことがあった。
                               (2005年12月)

昔、泣き女がいた

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Mさんからのメールに青島で見た葬列のことが書いてあった。

「最近いろいろ思い出しております。葬列のことも思い出しております。
楽隊が日本の愛国行進曲を演奏しながら付いて行くのが不思議でした。

泣き女がマーチョに乗って、洟も涙も一緒に流し、
大声で「あいよー・あいよー」と行く様は、
子供ながら、なんと上手なものよと感じましたね。

喪主がおでこに何か付けて葬列の前を先に駆けて行き、
先頭に向い頭を地に付け叩頭の姿で待ち、
列が近くなるとまた駆け出して前に行き、地に伏しお辞儀をして待ちます。
おでこのものは、土におでこが付かないようにするためのものだと親に教えられました。

今は無くなっている風習でしょうね。

葬儀の輿は大きく大勢で担いでいました。
楽隊を使うのは有銭人で、一般の人はもっと粗末でしたと思います。」

葬列の楽隊が、日本の愛国行進曲を演奏していたというのが何ともおかしい。
おかしいというのはちょっと不謹慎かもしれないが、
「軍国主義よ、あの世へ行け!」
という意味なら、痛烈な皮肉だ。

中国の葬式といえば「泣き女」が有名だった。
うそ泣きの見本みたいなものだ。

昔はよく町なかを葬列が通った。
白い衣をまとった長い列だった。

今年青島に来てからまだ葬列に出会ったことはない。
天津にいるとき、何度か葬列に出会ったことがある。
泣き女も楽隊も今はいない。

―再びMさんからのメール―

「ある時、湛山寺に家族でピクニックに行きました。
土饅頭の墓地に、あの世に持たせる印刷した大きなお札が沢山石で押さえて供えられておりました。あれは中国語でなんと言いますか。
今はああいう風習は無くなっているのでしょうか。」

このような風習はたぶん残っているだろう。
暖かくなったら湛山寺に行ってみよう。

最近の中国、特に南の地方では仏教信仰が高まっているようにみえる。

数年前、武漢に行った。
名前は忘れたが、有名だというお寺にお参りした。

きんきらきんの五百羅漢が人気で、参詣客が大勢いた。

そのあと江西省の南昌というところに行った。
江西省出身の教え子三人と廬山に登り、
南昌郊外の呉君の家まで行った。
ひどい田舎だった。

住まいは新しいマンションだったが、
おばあさんの部屋に、観音像が大事に飾ってあった。
        (2005年12月)

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