青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

想い出の青島

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駆逐水雷という遊び

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青島第一日本尋常高等小学校(一小)は、日本で一番大きい小学校だったに違いない。

大運動場にはサッカーができるグランドが三面あった。
昼休みの遊びといえばサッカーが主だったが、そのほかに「駆逐水雷」という遊びがあった。
女子は「おしくら饅頭」だったそうだ。

―Mさんからのメール―
「冬になると必ずやった遊びがあります。校庭に大きな輪を描き、その中に皆が背中を合わせ腕を組み入ります。『おしくら饅頭押されて泣くな』と言いながら押し合います。
はじけだされた人が抜けると、代わりに誰かが入ってまた腕を組み、『おしくら饅頭押されて泣くな』と繰り返し遊びます。
寒い日は寒さを忘れるほど大声を張り上げ押し合います。」

男子の「駆逐水雷」という遊びは、赤白二組に分かれ、大将が一人、駆逐艦、水雷艇をそれぞれ決めて、駆逐艦が相手方の大将を攻撃するゲームである。

大将は赤白帽のつばを前にしてかぶる。
駆逐艦は横にかぶり、水雷艇は後ろ向きにかぶって見分けられるようにする。

大将に勝てるのは駆逐艦であり、その駆逐艦に勝てるのは水雷艇である。
そして水雷艇に勝てるのは大将というわけである。

水雷艇は大将の周りを囲んで、駆逐艦の攻撃から守る。
守りを固めるには水雷艇を多くする。
攻撃主体のチームにするには駆逐艦を増やして戦術を組む。

水雷艇にタッチされた駆逐艦は捕虜になる。
捕虜は手をつないで味方の助けを待つ。
捕虜が増えれば列が長くなるから、捕虜を維持管理するのは難しくなる。

このゲームのスターは、当然足の速い者だ。
だが、その分、相手方からマークされ易い。

私のように足の遅い者はマークされない。
だから相手方の隙を狙って思わぬ戦果をあげることもできる。

大将は広い運動場を移動しながら味方の兵を指図する。

運動場が広いからほかのクラスの邪魔にはならないし、邪魔されることもない。

駆逐艦が相手方の大将にタッチすれば勝負が決まる。

『青島日本中学校校史』に、
「その頃の子供の遊びといえば、学校の昼休みに海軍遊戯、帰宅すればアカシアの木刀でチャンバラに熱中した毎日だった」

と書いてある。この海軍遊戯というのが「駆逐水雷」のことだろう。

そのほかの遊びとして、階段状の観客席を利用して、鬼が下から軟式テニスのボールをぶつける遊びがあった(遊びの名前は忘れた)。
鬼以外の者は観客席を逃げ回り、ボールを当てられた者は鬼になる。
鬼が次第に増えて、全員が鬼になるまでボールをぶつけるのである。

五年生、六年生は男女三クラスずつ、合計六組あった。
それぞれ餓鬼大将がいて、このような集団ゲームをよく統率した。

集団ゲームだからクラス全員が参加する。
仲間はずれはない。

いじめなどのない、豪快な小学生生活であった。
                  (2005年12月)

※女子のマニュキュア遊び(Mさんからのメールより)
「男の子は知りませんが青島神社(現・貯水山公園)の桜並木に脂が出てきます。それを少し指に取り、親指と人差し指で良く練り、糸を引くようになったら指の爪に親指と人差し指で脂を引っ張り何回も繰り返し重ねて塗って行きます。
大人の真似をしてのマニュキュアです。女の子の遊びの一つでした。脂は琥珀色のが最高です。日本ではやっておりませんでした。
マニュキュアというのが青島のキーワードでしょうね。
国際性豊かな都市でこそのことだと思います。」

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戦前、青島には日本人小学校が五つあった。
青島第一、第二、第三、四方、滄口の五校である。
中学校(旧制)は男子校として青島中学、青島学院(商業、実業学校)、青島工業。
女子校は青島日本高等女学校と紘宇女学校(青島学院内)があった。

私が通っていた小学校は、第一日本小学校(以下一小と呼ぶ)である。
(正式名は青島第一日本尋常高等小学校。世界大戦が始まると、青島第一日本国民学校と改称された。)

青島の小学校時代のことは今でも懐かしい。
内地の小学校とは一味違った小学生生活であった。

Mさんからいただいたメールの中から、当時の青島の小学生の生活を紹介しよう。
(今まで書いたものとダブっているものもあるがご了解を)

1.毎月一回、回虫駆除のために海人草の煎じたものを飲みました。校庭にあった大きな机の上に並べられた茶碗に熱い海人草の液体が入っています。飲むのに独特の匂いがあり、皆鼻を抓みながら飲みました。
2.四年生の頃、校内放送が始まり、避難訓練のために使われたりしましたが、お昼の弁当を食べながら聞く生徒の朗読や、八大さんのピアノなど、今の学校にも無いような先進的なものでした。
3.教室には靴のまま入っていましたが、教室の床の掃除は棒ずり(モップ)で拭きました。廊下やその他教室以外はボーイ達がやっておりました。

4.冬にはスチームの上にお弁当を載せ、温かくして食べました。(日本では温めて食べたことはありませんでした)

5.中庭で朝礼がありましたが、校庭に全体を覆うように並んだ木立が強い日差しを遮り夏でも涼しく行われました。
これは中村校長が夏の朝礼で子供たちが貧血を起こすのを防ぐため、木を植えたと戦後先生から聞きました。

6.紀元2600年の記念でしょうか、校庭に運動遊具が設けられました。
秩父宮だったかが?青島に見えた折一小に来られ、日本にもこれだけの学校は無いと話されたと、朝礼のとき校長から伝えられました。

7.学校では昼の弁当を持って来ない生徒のために、毎日昼にパンが売られ、私は買ったことが無く、食べてみたくて親を恨んだりしたのが、後々恥ずかしく思い出されます。
8.運動靴が月一回学校で売られました。

9.おしくら饅頭という、大きな輪を描いた中に皆で背中合わせに腕を組み、お互い押し合い、押し出す遊びは冬の定番でした。男子は駆逐水雷という遊びが流行っておりました。

10.お手玉や鞠を中国人と同じように足を横に折り、上に上げるときに足首を内側に倒し、その足首で蹴りました。
これは(現在通っている)中国語の時間に実演し、先生がとても喜びました。対!対!とか言って。彼は私より10歳くらい若く、古い遊びなど中国で流行らなくなっているものを私が知っていることで、よく話しが合います。

11.校舎の南よりの中庭には観察池があり、そこには睡蓮が咲きます。よく写生をし、またいろいろな植物などを観察しました。素晴らしいですね。私が帰国した後、そこはスケート場になったと聞きましたが?

以上、宮様もびっくりの大きな小学校であった。
尚、授業のことを付け加えると、六年生になると中国語の授業があった。
(女子のクラスは四年生から始まっていたそうだ)

一小の正門は武定路にあり、大運動場は徳平路に面している。
正門を入ったところにコの字型の校舎があった(1917年完成)。
校舎は今も残っているが、建物は現在軍の施設として使われている。
その元校舎の周りの空き地にやたら建物が建てられ、昔の重厚な面影はない。

コの字型の校舎の中庭から階段を十数段下りると、低学年用の運動場があり、鉄棒や砂場、滑り台、ジャングルジムなどの遊具があった。

その運動場の一角に、一年生用の校舎と雨天体操場兼講堂があった。
講堂は後から建てられたもので、コの字型の校舎から渡り廊下で繋がっていた。

この小運動場からさらに階段を数十段下ると、大運動場になる。

その広さは、800メートルのコースもできるという広大なものであった。

今は青島第二体育場になっているが、やはり運動場の中に建物がいっぱい建てられ、元の広さの半分ぐらいになってしまった。

この大運動場で遊べるのは、五年生と六年生だけであった。

始業のラッパ(注1)が鳴ると、生徒たちは一斉に大運動場から数十段の階段を駆け上がり、さらに十数段の階段を上り、さらにコの字型の校舎の三階(注2)まで上って、教室へ駆け込むのである。
(注1:始業の合図はもとはサイレンだったが、戦争が激しくなるとサイレンは警報に使われ、始業の合図は生徒の中から選ばれたラッパ卒がラッパを吹いた。)
(注2:コの字型の校舎は、正面から見ると2階だが、運動場側から見ると3階建になる。)

この広大な大運動場で遊ぶ遊びもまた豪快であった。

Mさんのメールにあるように、冬になると、女子は「おしくら饅頭」、男子は「駆逐水雷」という遊びがお気に入りであった。

そのほかの遊びを含めて、次回に書きたい。
                  (2005年12月)


※写真説明。
写真は旧一小大運動場の現在の姿。現在は青島第二体育場。周りに建物がたくさん建って、せせこましい運動場になってしまった。

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第一海水浴場の地下道を潜ると地下街がある。
レストランや映画館がある。
地下街を抜けて地上に上がると、そこは匯泉広場である。
広い。
広いはずだ、昔、競馬場だったところだ。

旧ドイツ帝国は膠州湾を手に入れると、多大の投資をして港湾を建設。
青島をドイツ東洋艦隊の母港にした。
東洋艦隊の兵士とその家族を慰労するために、競馬場を建設した。
春と秋に競馬が開催され、シーズン以外はサッカーやポロなどのスポーツが行われた。
サッカーは、イギリス軍兵士との親善試合が毎週行われ、兵士たちは熱中した。

日本統治下になっても競馬は開催されていたそうである。

―Mさんからのメール―
「あの公園(現・中山公園)で昆虫採集が済むと、競馬場のスタンドの横の芝生に座り、よくレースを眺めながら休み、それから一号バスで帰宅しました。競馬の無い日はバスが競馬場を突っ切り、競馬のある日は迂回して第一公園(現・中山公園)に行きます。とても思い出の多い地区です。」

Mさんのように行動範囲が広くなかった私は、競馬が行われていたことは知らない。
海水浴場と競馬場の間に細長い雑木林があり、海水浴に行っても、雑木林で蝉取りをしても、競馬場まで入り込むことはなかった。

中学生になると、この競馬場でグライダー訓練が始まった。

『青島日本中学校校史』によると、1942年の春、滑空班が誕生してグライダー訓練が始まり、その年の秋には、部員全員が三級滑空士の資格をとった、とある。

私は青島中学ではなかったが、やはりグライダー訓練があった。

グライダーの一番前に操縦席があり、主翼が機体の上についている。
プライマリーという初級用の練習機である。

主翼が傾かないように、一人が手で持って支える。
機体の先端にゴムのロープを掛け、生徒が十人ぐらいずつ二手に分かれてロープを持つ。
機体の後ろの地面に杭が出ていて、生徒の一人が機体後部に付いているロープを、その杭にからませて機体が飛び出すのを防ぐ。

教官が「引けー」と号令を掛けると、二手に分かれた生徒が、
「いち、に、いち、に」
と声を揃えて、ロープをV字型に引っ張って行くのである。

頃を見計らって、教官が、
「離せー」
と号令を掛ける。
後ろでロープを持った生徒が、杭から素早く外す。

グライダーは地上を、ず、ずーっと滑走して止まる。

まだ初心者だから地上を滑走するだけである。
飛び上がってはいけない。

何度目かの訓練のときである。

先輩が操縦席に座り、体の大きい生徒が選ばれて、
「いち、に、いち、に」
と、ロープを引いた。

教官が「離せー」と号令を掛けた。

その途端、グライダーはふわりと空中に舞い上がった。

教官が泡を食って飛び出した。

「やめろー、やめろー。降ろせー、降ろせー」

何やら訳のわからないことを絶叫しながら、必死にグライダーを追った。

だが心配するほどのこともなく、グライダーはすぐ失速して頭から墜落した。

禁を犯して空中に飛び上がった先輩は、悪びれる風もなく、かえって「してやったり」という顔をして、操縦席から降りてきた。
教官も、生徒の無事な姿を見て怒ることもできず、ただ唖然とするばかりであった。

グライダー訓練はそのまま中止となり、以後、競馬場に行くことはなかった。

あれから60年が経った。

日本からやってきた先輩のKさん(青島中学出身)と昔話をしていると、Kさんも同じような体験をしたことがわかった。

Kさんが操縦席に向かおうとすると、悪い先輩が近づいて、
「ちょっとだけ操縦桿を引くんだぞ、いいな」
と、耳打ちした。

Kさんがその通りにすると、グライダーは思いっきり飛び上がったそうである。

中学生の冒険好きは、いつの世も同じだ。
                   (2005年11月)

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魯迅の小説「藤本先生」の中で、藤本先生がしきりに纏足の足指がどんな風になっているのか、知りたがっているくだりがある。

私は纏足の生足を見たことがある。

Mさんのお母さんも見たことがあるそうで、Mさんのメールにはこう書いてある。

「我が家のアマは、夏は夜になると、その纏足になった足が水虫になっているので洗っていました。
私は見たことはありませんが、母によるとその指はつぶされ、蟹の足の先端のようにぺちゃんこになっていると話しておりました。
という事で私は渡り蟹を食べるとき、必ずその話を思い出します。」

アマというのは、中国人のお手伝いさんのことで、日本人はそう呼んでいた。

私が見たのも、アマの生足である。

当時女学生だった姉が、アマにせがんで見せてもらったのである。
私もそばでこわごわ見ていると、アマは足に巻いた布をぐるぐるとほどいていった。

最後に出てきたのは小さな足であった。
親指のほうにほかの指が無理やり寄せられ、そのまま成長が止まっていた。

Mさんのお母さんの、「蟹の足の先端のよう」という表現は見事である。
これに勝る表現はない。

なにしろ、三歳のころから綿の布を包帯のようにぐるぐる巻いて、足指の成長を止めるのだから残酷な奇習というほかない。

Mさんのメールは続く。
「私の記憶では、あの纏足を縛る綿の細帯を、高い棹に横木を渡してそれに何十本も掛けて売りに来たのを思い出します。
あんな事で食べていく事が出来たというのは、やはり貧しかったのでしょうね。

纏足を縛る布を(中国人の)先生に聞きました。日本の字ではない、衣をナベブタと下の字に分け間に果をいれた字に脚布と言うのだそうです。

包脚布とか纏(簡体字はチョッと違いますね)脚布とも言うそうですが、普通一番使うのは、さきの難しい字が使われるそうです。」

私が纏足の生足を見たのは十代のときだから、1940年代だ。
そのころはもう纏足は廃れていたが、まだ40歳以上の女性のほとんどは纏足だった。
まれに二十代の女性が纏足で歩いているのを見かけたことがあるが、例外だった。

明、清の時代は纏足が結婚の条件だった。
嫁いだ女性が男から逃げられないようにするため、というのが一般的な説だ。

当時の漢族の男性は、小さな足に性的な魅力を感じていたという。
それ故、女性のほうは人前で生足を晒すことを恥じた。

纏足の女性が歩くとき、かかとだけで歩くから、腰をくねくね動かして歩く。
それがまた魅力的だったのかもしれない。

清の皇帝は何度か「纏足禁止」のおふれを出したが、纏足が結婚の条件となれば、なかなかやめるわけにはいかない。
満族皇帝が出したおふれは、漢族の民衆によっていつも無視された。

纏足が結婚の条件とはいえ、このような残酷な奇習がなぜかくも長く続いたのか。

Mさんからのメールに、思わぬ説が書かれていた。

「昨日、柏の高島屋で偶然、翻訳をやっている昔の中国語仲間と会い、立ち話をしました。
纏足が想像以上になぜ長く続いていたかという話になり、あれは単に男性から逃げないようにという為ではなく、もっと性的な魅力があってのこと。

それは纏足を縛る紐を解いた時の匂いが大きい。

と言う事で、最近本当に薄い本ですがその事が書いてある本を見つけたので、皆が読みたがっているという事でした。」

足の「匂い」のために、纏足の奇習が長く続いたとは、面白い説だ。

匂いに対する感じ方にも歴史があるのかも知れない。

ウサギ狩りの思い出

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小学生のとき、ウサギ狩りというのがあった。
冬の年中行事で、一年生から六年生まで全員参加の本格的なものである。

山に着くと、低学年の生徒が、裾野を挟んだ両側の峰に、頂上に向かって縦に並ぶ。
頂上に網を張り、六年生がその両側を固める。
五年生が麓に横一線に並んで合図を待つ。

ここまでの行動は粛々と、音をたててはいけない。

ラッパ隊の合図とともに、全校生徒がいっせいに喊声をあげる。
五年生は大声を張り上げ、ラッパ隊はラッパを吹き鳴らし、枯れ草を払いながら山頂へと進む。

驚いたウサギが巣穴から飛び出し、必死に頂上へ向かって飛び跳ねる。
一匹、そして二匹。
兎どもは、頂上で待ち受ける網の中に飛び込んで御用となる。

中には方向を間違えて(?)、六年生が居並ぶ方へ向かってくるやつがいる。

「おっ、来たぞ、来たぞ」

六年生が懸命に棒を振り回したところで間に合わない。
足元をすり抜け、あっという間に隣の峰へ姿を消す。

成果はたいてい一匹か二匹。
頂上へ向かって飛翔するウサギの姿の美しさは、今でも忘れられない。

だが、ウサギ狩りの場所はどこだったのか、覚えていない。
一度突き止めてみたかった。

95年の夏。青島に就職が決まった天津の学生を連れて遊びに来た。
テレビ塔に登った。
頂上からは、360度、市街が一望できた。
ふと、海側の景色を見て、見覚えがあるような気がした。

山を下るとき、どの道を選ぶか迷った。

テレビ塔の前から自動車道が一本、弧を描くように麓へ伸びていた。
もう一方に急坂の登山道が見えた。
その間を、裾野が扇のように広がっていた。

「先生、ここから下りましょうか」

裾野を見下ろすと、下りられないこともなさそうだ。
潅木がまばらに生えていた。よく手入れされて雑草もない。

一気に駆け下りた。

上のほうは急だったが、途中からはなだらかな斜面になった。
下りたところが公園になっていた。

ふり返って頂上を仰ぐ。

ウサギ狩りの場所はここだったのかも知れない。

六年生のとき、頂上で、ウサギが豪快に網の中に飛び込んで行くのを見た。
ウサギ狩りが終わって整列したとき、海側の景色が林の間からチラッと見えた。
見覚えのある、あの海側の景色だ。

懐かしさがこみ上げてきた。

ホテルに帰って地図を広げてみた。

地図には、テレビ塔の北側の峰がコの字型になっていた。

「ここだ」
私は確信した。

小学校からこの山までそんなに遠くない。低学年でも歩いて来られる距離だ。
あの斜面も、五年生なら登れる。
当時、このあたりに人家はなく、山は荒れていたに違いない。

Mさんからメールが来た。

「兎狩りは楽しかったですね。『兎追ひしかの山』という、あの歌は兎狩りのことだそうです。青島だけかと思っていましたが、昔は日本でもやっていたのですね」

そうか、ウサギ狩りの歌だったのか。

―兎追ひしかの山―

私にとって「かの山」は、あのテレビ塔が立っている太平山だったのだ。

今年になって、もう一度テレビ塔に登ってみた。

裾野は鬱蒼と樹が生い茂り、麓の公園は立派に整備されていた。
山裾に、ビルが間近に迫っていた。
見渡すと、新しい市街地がどこまでも広がっていた。

青島はすっかり生まれ変わった。

だが、青島はまだ私の思い出の中にある。

※ Mさんからのメール、続き
雪の降った後の風景もなかなか良かった記憶があります。潅木に積もった雪が体に降りかかり、皆で大声を上げながら進んだ記憶は鮮明に覚えております。お弁当が雪の中では食べられませんから、学校のスチームの上にルックサックを載せて出かけ、帰校後チョコレートが解けてしまい、がっかりしました。
楽しく、懐かしい思い出です。
陸戦隊に毛皮を寄付すると聞いておりましたので、学校の傍の陸戦隊の所を通るときには必ず何処に干してあるのかなーと眺めたものです。考えてみればそんな僅かなものが役に立つはずありませんものね。

※ 青島のウサギ狩り
青島のウサギ狩りは、太平山のほかに、信号山、匯泉岬でも行われたそうだ。
中学生になると、それぞれグループに分かれ、好きな狩場を選んでウサギを追った。
匯泉岬では、岬の先端のほうに網を仕掛け、陸側から追い込んで行った、と聞いた。

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