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霧の中から(第一話の2) <この記事は「魚山」(青島中学第25期生同窓会誌) 第16号(1997年6月)から転載させていただきました。 「霧の中から」(第一話・馬の尻尾の毛)のつづきです。 どうぞご覧下さい。> 霧の中から(第一話の2) 井上睦三 馬の尻尾の毛(2) 隣の小山田さんの次の隣に大きな屋敷があり、 鄭さんと言う人が住んでいた。 鄭さんは日本に帰化した人で、 先祖は歴史上に著名な、明朝の復興のため清と戦っだ鄭成功”とお聞きした。 歌舞伎の「国姓爺合戦」の脚本にあるように、 明朝の臣・鄭芝龍が貿易のため来日し、 田川氏の娘との間にできた一子福松が、 のちに大陸に渡って鄭成功を名乗り、明朝復興に努力してならず、 台湾を平定して長く清朝に対抗した史実を脚色したもので、 鄭成功をモデルにしだ和藤内”の活躍で人気を博したと言われている。 小山田さんと鄭さんは親戚でもあり、 鄭さんの息子さんは青中19期生で、私の兄の1年上級たった。 そのような関係だったので私達一家も 小山田・鄭両家と親しく付き合うようになった。 ↑金口一路19号の家。筆者・井上氏の旧宅は金口一路23号ですから、 その隣の隣は19号になります。鄭さんの家はこれかもしれません。 鄭さん宅の庭も広かった。 池が三つもあり金魚が沢山泳いでいた。 他の周りには幾つも花壇があり四季折々の花が咲き誇っていた。 桜やアカシヤの木々も植えられてこんもりと茂り、 4月、5月の花時も素晴らしかった。 家の建物の近くには温室があり、珍しい花が寒い冬でも咲いていた。 温室の側に砂場かおり、私や小山田さんの子供達の遊び場でもあった。 鄭さん夫婦も仕事の関係で絶えず旅行勝ちで留守が多く、 白髪の柔和なお婆さんが孫と一緒に留守を守っていた。 時々窓を開けて私達子供の遊ぶ情景を笑顔で見つめ話しかけたりした。 時にはお菓子をあげるからと部屋に呼んで入れてくれた。 お婆ちゃんは話がとても上手で面白く、珍しかったので好んで聞いていた。 お婆ちゃんは大正時代から青島に住んでいたこと、 その頃の海浜公園には鹿をよく見かけたこと等々・・・、 私は飽きずに聞いていた。 お婆ちゃんの話で色々勉強になったのだが、 ある時 「徳川幕府の井伊直弼は偉い人でしたよ。 世間様が言うような悪い大老ではありません。 よく世の中を見通す立派な人でしたよ」 と、語った。 当時の歴史の時間では、 幕末、尊皇か佐幕か、攘夷か開国かと国論が沸騰した際、 橋本左内、吉田松陰をはじめ数々の反対論者を捕らえて処刑した、 いわゆる安政の大獄の張本人の井伊直弼と学び 国賊のように言われていたものを、戦時言論統制の厳しき折、 大胆にもそれを打ち消すような発言には驚いてしまった。 事実、戦後間もなく井伊大老の開国論は再評価されたのだが、 あの時のお婆さんの態度は実に立派だったと思う。 ↑金口一路(番地号数不明)の家。 ■ ■ 鄭さんの屋敷の一隅には、 日本語の上手な中国人の可さん夫婦が使用人として住んでいた。 仕事の暇な時には私達子供の相手になってくれた。 私達も「可さん、可さん]と言って懐いていた。 私達は池の水草に止まっているトンボや、 アカシヤの幹にいる蝉やヒラヒラと舞う蝶々を見つけては 網を振り回して追いかけていた。 上手に捕まえないと羽や脚が千切れてしまうことがあった。 それを見ていた可さんが 「馬の尻尾の毛があったら、うまく捕れるよ・・・」 と言ったので私は目を丸くしてしまった。 どのようにして捕まえるのか興味深々であった。 そこで何とかして馬の尻尾の毛を手に入れなくてはと思ったものの、 難しいのに弱ってしまった。 ある日、路上に停まっていた馬車の馬から取ろうとしたら 馬が暴れそうになり、 御者からカンカンに怒られてしまった。 丁度その頃、小学校の校庭に陸軍の部隊が駐屯していた。 その部隊は内地から輸送船で青島に着いた輜重兵の一隊で、 多くの荷車と馬が校庭の一角を占めていた。 兵隊さんが並んで点呼を受けたり、 上官が訓示したり、馬の手入れをしたりで校庭は賑やかだった。 休み時間になると、児童達は遠くから珍しそうにそれらの光景を眺めていた。 私は“馬の尻尾の毛”のことを思い出し、 ある日の昼休み、軍馬のいる側に寄って行った。 軍馬はアカシヤの木陰で気持ち良さそうに目を細め、 尻尾を振り振り餌を食(は)んでいた。 しかし、私がお尻の方へ近付くと敏感に耳穴を後ろの方に向け、 時々首を振り向けて警戒しているのが分かり、 不用意に尻尾に触れようものなら、蹴られることは確実で 私は怖じけてしまった。 ジーッと馬を見つめていたら、一人の兵隊さんが近づいて話かけてきた。 四十位の年配の兵隊さんで、 笑顔で「歳はいくつか?」「何年生?」「郷里は何県?」 と親しく尋ねられたので私もそれに答えた。 そして正直に蝉を捕るのに馬の尻尾の毛が欲しい事を話した。 兵隊さんは笑い声をあげ不思議そうに、尻尾の毛は取って上げるが、 蝉が捕れたらその方法を教えてくれ、 内地の子供にも知らせると言いながら 馬の尻を手のひらでポンポンと叩いて サッと尻尾の毛を2、3本抜いてくれた。 馬は尻の皮膚をピリリと震わせ少し勣いたがすぐ静かになった。 ↑馬の尻尾。 ■ ■ 早速、私は喜び勇んで尻尾の毛を持って得意そうに可さんの手元に届けた。 可さんは一本の尻尾の毛で器用に金魚掬いのような大きさの輪を作り、 その一端を引っ張ると“半七捕物帳”の投げ縄のように スルスルと輪が締まるようにした。 そして、その端を長い竿の先にくくり付けた可さんは 「ハイ、出来上がり」と言った。 丁度その時、近くの桜の木からジィーと蝉の声がしたので、 可さんはその竿をかついで木の下に静かに近づいた。 蝉は3m程の高さの幹の所で羽を震わせて鳴いていた。 可さんは竿の先をソォーと蝉に近づけ輪を蝉の頭に触れるようにした。 蝉は二本の前脚を交互に勣かしながら、 馬の尻尾の毛をいじり始め何かを探るようだった。 可さんは尻尾の毛の輪を、蝉の頭をくぐらすように持っていった。 蝉は頭をかしげるようにしていたが、 くすぐったいのか頭を掻くように前脚をモゾモゾさせ 輪をくぐるように引っかけてしまった。 その時可さんがチョット竿を手前に手繰ると、蝉は驚いて飛び上がった。 すると尻尾の輪はキュッと蝉の身体を締め付けて 「御用!」とばかり捕らえたのである。 後は竿を手元に寄せて輪をゆるめ蝉を籠に入れればよい。 蝉のどこをも痛めず、 鳥もちのように汚れることもなく奇麗に捕れたのである。 このようにして、 油蝉、くま蝉、ミンミン蝉がいとも簡単に捕獲できたのである。 ■ ■ 翌日私は登校すると、早速あの兵隊さんに蝉の捕り方を知らせなくてはと、 校庭に出て見ると兵隊さんも馬もその姿がなく、 ガランとしてもぬけの殼たった。 前夜の内に移動命令が出たらしく部隊は忽然とどこかへ消えてしまったのだ。 もうあの親切な兵隊さん・・・ 父親のような兵隊さんとは会えないような予感がして、 私は淋しく悲しくなって佇んでしまった。 あれから年月が経って五十年余・・・。 今、日本で蝉の声を聴き、 そうだ漸く物事が分かりかけた孫にアノ方法で蝉を捕ってやろうと思いついた。 だが、たちまち困ってしまった。馬を探しても近所にいない。 屋島山麓の段々田圃に稲が青々と育っているのに農家には馬も牛もいない。 終戦後の田圃には鍬で耕すのに牛馬が一生懸命引っ張っていた。 中でも軍の払い下げのサラブレットが、 前脚を高く上げて髪を颯爽と翻している姿は ゴッホの「種散き]のように一服の絵になっていた。 今ではそんな光景は全然見渡せない。 どこもかしこも一人で耕運機を動かし、 エンジンを高々と鳴り響かせて短時間で済ませてしまう変わりようで、 馬も牛もどこかに消えてしまった。 馬の姿を見ようと思えば競馬しかない。 けれど高松には競馬場もない。 よしんば競馬の馬から尻尾の毛を失敬しても、見つかれば、 もしもそれが伺十億円もする本命の競走馬だったら “器物損壊"の罰金として尻尾の毛一本、ウン十万円!も請求されかねない。 到底年金生活の私には、恐ろしくて馬に近づくこともできない。 おかしな世の中になったものだと、思わず溜め息が出てくるのである。 (第二話「青春の雄叫び」につづく)
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想い出の青島
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霧の中から(2)
井上 睦三
◆ 第一話 「馬の尻尾の毛」 7月の始めの梅雨の晴れ間、 雲の切れ目からサーッと太陽が差し込むと 木々の葉合いから一斉に蝉の合唱が始まり、夏本番の到来を告げる。 夏がくると思い出すのは少年の頃。 濃霧、霧笛、青い海、ヨット、水平線、入道雲、 加藤島、灯台、桟橋、アカシヤ、赤い屋根、 カトリック教会、時計台、信号山・・・等々、 青島の光景が連想的に瞼に浮かぶ。
↑小魚山より桟橋方面を望む(2005年)。
父の仕事の関係で、私達一家が満州の新京から青島へ移住したのは昭和13年5月、 私が小学5年生の時たった。 住居は金口一路で 海浜公園の赤門の近くの丘に建てられた洋館造りの家たった。 青島第二日本尋常小学校に転入した。 12年7月、支那事変が始まって日本海軍が青島を占領し、 半年も経っていない頃だったので学童の数も少なく、 30余名ほどの男女共学の1クラスだけだった。 ↑金口一路。右側(海側)が奇数号の家(2008年1月)。 筆者の家は23号だそうだから右側の先のほうになる。 ■ ■ 転校して間もない頃は、まだ同級生と馴染めなかったし 家と同じ方向の者も少なく、しばらくは友達もなく淋しい思いだった。 しかし、海が私を慰めてくれた。 今まで満州の大陸のど真ん中で育った私には、海が珍しく、 しかも家の近くに海岸がありいつでも行けるのが嬉しかった。 学校から帰るとランドセルを置くや否や海浜公園へ遊びに行ったものだ。
↑海浜公園(現魯迅公演)にある水族館(2005年)。
水族館の下の磯辺には、潮が退くと岩の窪みの溜まりがあちこちに現れてくる。 そこには色鮮やかな海藻がさざ波にゆらゆらと漂っている。 小魚の群れが、キラキラと白い腹を輝かせながら 藻の茂みから茂みへと泳いでいる。 イソギンチャクが触手を招くように伸び縮みしている。 ヤドカリが忙しく勤いては仲間と鉢合わせし、 眼をギョロつかせて睨み合っている。 そばで蟹が行司のように手足を上げ下げしながら口から泡を吹いている。 少し離れた岩肌に海星(ヒトデ)やウニや巻き貝がへばりついて ヤドカリの格闘技を見物しているようだ。 私は岩から岩へ飛び渡りながら窪みを覗き、 なにか珍奇な獲物がいないかと探し、 疲れると高い岩の天辺に座り辺りの景色を見渡す。 ジヤンクが茶色の暖簾のような帆を、ゆったりと風に当てて波にゆれて行く。 二本マストの客船が煙突から濛々と煙を吐きながら波を蹴立てて素早く通過し、 どんどん遠ざかり、やがて船影がぼやけて水平線に霞み、 煙だけが名残惜しく微かに漂ってついには消えてしまうのを、 時の経つのも忘れて眺めていた。
↑海浜公園(現魯迅公園)の岩場(2005年)
■ ■私が住んでいた家の隣は、 小山田さんと言ってご主人は確か天津の税関に勤めていて 奇麗な奥さんが留守宅を守っていた。 子供が3人で上の女の子は七つ、中は男の子で四つ、下が二つの女の子だった。 女性の中国人使用人が3人の子供の面倒を見ていた。 3人とも可愛い子供で、私もよく話相手になっていた。 やはり男の子の晃ちゃんが私を見つけては 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と一番懐いていたように思う。 声が素晴らしく可愛くて澄んでいたので、いつまでも印象に残っていた。 昭和20年敗戦、引揚げることになり、 小山田さん一家とも音信不通になってしまった。 それから20年、日本が戦後復興を終え高度成長期に入った頃、 繁華街はもちろん各家庭のラジオやテレビから、 流行歌がじゃんじゃん流れるようになった。 和田弘とマヒナスターズのグループが、 ハワイアンの甘いメロディーを奏でながら 「愛しちゃったのよ」とか「法善寺横町のコイさん」 を歌っていたのもその頃だった。 そのメンバーの一人で、独特の裏声で歌う“三原さとし”が 青島育ちの“小山田晃”だと知った時にはさすがに驚いた。 テレビに写る画面を見つめると確かに彼だった。 四角ばった顔と柔和な目元は 確かに幼い頃の面影を残していたので懐かしく感じた。 私の兄が彼と再会して分かったのだが、 その頃から 「人気を維持するのは大変です。 毎年、レコードを万の単位で売らなくては世間から忘れられてしまいます」 と苦労話を語っていたそうだ。 (第一話つづく)
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霧の中から(序曲) <この記事は「魚山」(青島中学第25期生同窓会誌) 第16号(1997年6月)から転載させていただきました。 「青島の思い出話」序曲です。どうぞご覧下さい。> 「霧の中から」 井上 睦三 (序曲) 女性ホルモンを抱け 七十を過ぎたこの頃、体力の衰えを感ずる。 少し重たい物を押したり、引っ張ったりしても息切れがするようになった。 無理をしてヨッコラショと担いだりすると、 ギックリ腰になって悲鳴を上げる始末である。 こんなことは、年をとれば仕方がないことかも知れない。 然し頭脳の減退には、いささかがっかりしてしまう。 コンピュータとかインターネットとかカタカナの新語の解釈に行き詰まり、 さっぱり分からなくなって投げ出してしまう。 こんなことは若い者に任しとく方が良いのかも知れないが・・・。 然し日常茶飯事のことで度忘れし、 アレはどこに仕舞ったのか、アレは何と言うのだったかと迷ったり、 スーパーの買い物を頼まれて 品物を物色している内に一つや二つ忘れてしもうて、 オクサンの失笑を買い我ながらおかしくなり苦笑してしまう。 また健忘性かな、いや痴呆症の兆しかなと不安に駆られるのである。 ↑第二海水浴場から見た日の出(2005年)。 ※写真は記事の内容と関係ありません。 これからの日本の人口は、何故だか出生率が低下し年々年寄りが増えるそうだ。 西暦2000年になり出すと、老人は4人に一人から3人に一人になるとか。 近頃新聞やテレビを見るとアチコチに老人の健康について報じられている。 この前、みの・もんた司会の、昼の「思いっきりテレビ」を見ていると、 頭脳の若返りには女性ホルモンを増やせば良いと言っていた。 その女性ホルモンを増やすには、 何時も若い時の楽しかったことを思い出せば良い、 とゲスト出演の医学博士が解説していた。 なんと男性にも、ちょびっと女性ホルモンがあるんですぞ! それ以来、女性が男より長生きしている事実はコレだなと合点し、 信じ易い私は若い時のことをしきりに思い出すことに勤め、 女性ホルモンを取り込み、増殖し、脳の活性化に励むことにした。 若い頃を思い起こし、年代を遡って ページをめくるように10年、20年と繰り上げても、 あまり楽しい愉快なことは浮かんで来ない。 むしろ会社の資金繰りに苦心して、 明日の手形をどうして落とそうとか、 どうやって注文を取ろうとか、 なんとかして納期に間に合わせんといかんと焦ったり、 厄介な人事問題に悩んだこと等々・・・で、嫌になってしまう。 とうとう二十歳代の青春時代まで遡行しても、 敗戦、引き揚げ、空腹、闇米、物々交換、闇市、貧困、 進学断念、就職、尼崎、煤煙、ジェーン台風、倒産、失業、 挙げ句の果てには失恋を味わった思い出など、 私には暗くて冷たい、まるで霧の中を彷徨う青春時代であったように思う。 ↑第一海水浴場(忠の海)の夕日(2005年)。 然し、それから先の十代の少年時代では、 パッと晴れた明るい光景が脳裏一杯に拡がっていく。 それは霧の中から“青島”が浮かんできたのだ。 懐かしの青島、青い海、忠の海の白浜、アカシヤの緑、 赤い屋根、トンガリ帽子のカトリック教会、迎賓館、 ガッガッとそびえる信号山等々・・・に女性ホルモンが発散し、 優しく微笑み、私に静かに手を差し伸べ、舞踏への勧誘を促し、 私を、そっと抱きしめて紺碧の大空に輪を描きながら 天女のように舞い上がって行く。 ↑青島迎賓館(2005年)。 この頃夜中によくトイレに通うようになった。 用を足した後中々寝付かれない時がある。 そんな時は、床の中でうつらうつらと青島時代を思い出したら、 何となくルンルンの気持ちになって、何時しか夢路を辿る今日この頃である。 「Boys、be Ambitious !」は諦めて、 「老年よ。女性ホルモンを抱け!」である。 (つづく)
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20年前、市場周辺は再開発中だった ↑再開発中の市場周辺。白い建物は新しい市民病院(1988年)。 上海路角の包子屋から「中の町」(聊城路)まではすぐです。 「中の町」は昔、日本人商店街として親しまれ賑わっていたところです。 その「中の町」から市場方面一帯は再開発中でした。 建物はすべて取り壊され、まるで野原です。 のっぺらぼうの野原の中をどう歩いたか覚えていませんが、 写真だけは何枚か撮っていたようです。 ↑再開発中の市場1路、2路辺り。(1988年) ↑同上。 途中トイレに行きたくなって工事の人に訊ねると、 取り壊しを免れた建物の中のトイレを案内してくれました。 今思い出すとその建物は、 現在も保存されている、横浜正金銀行の裏の住宅部分だったようです。 さらに歩くと、昔よく行った市場が残っていました。 一階は肉や野菜売り場で、子供にはあまり馴染みがありませんでしたが、 二階には文房具屋がありました。 市場の中に入って、 二階に上がる階段の手すりを見た瞬間、 懐かしさが込み上げてくると同時に、大きな衝撃が体内を走り抜けました。 ↑懐かしい市場。(1988年) 戦後も“人民市場”として、引き続き市民に親しまれてきた。 石造りの手すりの汚れ具合が、 43年前と全く変っていないように見えたのです。 日本の戦後の43年は、破壊と変化の時代でした。 旧いものはすべて破壊し尽くされ、新しいものに生まれ変わりました。 それ比べて、ここ青島では、43年間、時間が止まったままだったのです。 そしてそれは、 少年時代にタイムスリップしたような安堵感さえ感じさせたのです。 「私の居場所はやはりここだったのだ」 万感胸に迫る思いを吹き消そうとしても消すことができません。 ↑再開発中の市場3路。「電気館」も見える。(1988年) 父にねだって「風の又三郎」を見た「電気館」も残っていました。 ↑1988年の「電気館」。 その「電気館」の通りを中山路のほうに歩いて行くと、 「水餃! 水餃!」 と呼び込みをやっている餃子屋がありました。 ほかにも食べ物屋や屋台が何軒か並んでいました。 ようやく活気溢れる中国らしい生活風景に触れることができたのです。 「青島に来てよかった!」 この日を境に、私の第二の人生の目標が決まりました。 「将来、絶対青島で暮らそう。 そして青島のみなさんに恩返しをしよう!」 そう心に決めたのです。 一日中歩いてもなお疲れを知らない私と姉は、 中山路(旧山東路)の坂道を上がって、ようやく帰路に着きました。 ↑1988年の中山路(旧山東路)。 ↑中山路の映画館前(1988年)。(昔、「ハワイ・マレー沖海戦」などを見た) |
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20年前の第一小学校運動場 私と姉が第一小学校へ向かう周村路は、昔と全く変わっていませんでした。 私が小学校へ通う通学路でしたからよく覚えています。 途中、道端で遊んでいた女の子の写真を撮ったりしながら、 小学校の裏門に出ました。 様子は昔とちょっと違っていましたが、 あの大運動場は目の前にありました。 周りのスタンドもそのまま残っていました。 ↑この写真は2005年に撮ったもの。 (20年前に撮った写真は見つかりませんでした) ↑同上。 姉と二人、運動場を半周してスタンドに座りました。 運動場は工事中で中程に砂山が築かれ、 人影はありませんでした。 昔、このスタンドで、ボールを使った鬼ごっこをやりました。 グランドでは「駆逐・水雷艇」という遊びをやりました。 サッカーもしました。 誰にも邪魔されず、思いっきり駆け回りました。 内地の小学生には想像もつかない広い運動場では、 誰も仲間はずれはいませんでした。 ↑私たちが通っていた頃の第一小学校運動場。 始業ラッパ(当時は軍隊式のラッパ)が鳴ると、 グランドから一気に階段を駆け上り、 3階の教室まで息を切らせて辿り着いたものです。 今は、運動場と校舎の間に無計画に建物が建てられ、 あの重厚な校舎はスタンドからは見えません。 この広い運動場を走り回った思い出が、 次から次へと浮かんできて、 私たちはいつまでも、いつまでも、立ち去ることが出来ませんでした。 再び裏門から出て、坂道を登って武定路を左折すると、 小学校の正門前に出ます。 校舎は軍の施設になっていますから素通りします。 もうお昼をちょっと回っていました。 この頃、つまり20年前の青島の街は、食べ物屋があまりありませんでした。 食べ物屋を捜しながら、 私たちの足は、元日本人商店街の「中の町」へと向かっていました。 武定路と上海路の交差点まで来ると、包子(肉饅頭)の店がありました。 ↑ここに包子の店が、ぽつんと一軒あった。 (写真は2004年撮影のもの) 私たちが入って行くと、若者が二、三人たむろしていましたが、 すぐテーブルの上を片付けて、席を空けてくれました。 彼らは、姉がつけていた「日中友好交流団」の札を見て、 私たちが日本人だということはすぐわかったようです。 この店の息子だという若者が、私たちの隣に座って話しかけてきます。 彼は大学で法律を勉強しているインテリのタマゴでした。 突然の日本人の闖入は、この若者の興味を大いに刺激したらしく、 日本人の生活や、姉の家族について色々聞いてきます。 私たちは筆談を交えて何とかおしゃべりができました。 ↑店の息子とおしゃべり。 包子を食べ終わって空腹を満たした私たちは、 さらに「中の町」(聊城路)へと歩きます。
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