青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

想い出の青島

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青島日本中学校は、今は中国海洋大学(魚山路)になっている。(写真1)

「1921年6月、新築校舎が落成し、同月末に移転を完了した。
(略)煉瓦造二階建で室内にはスチーム暖房、水流式の下水道が完備した
『日本内地にも稀に見るが如き宏壮なるもの』であった。
7月には寄宿舎も新築し移転した」(青島日本中学校校史より)

この青島中学で、敗戦直前の学校生活を送った思い出を、I氏に書いていただいた。
昭和史の貴重なひとコマとして、みなさんにお贈りします。

「青島日本中学校の思い出」2006年7月
     
青島で生まれ青島を故郷として育った小生が
青島日本中学校に入学したのは戦争も末期の昭和19年の春である。

生まれたのは市場二路だが、その後住んでいたのは
青島神社(現貯水山公園)の前の奉天路(現在の遼寧路)と
これと平行に走る益都路で松山路と交わる辺りである。

従って中学校への通学路は青島神社の前から
青島日本高等女学校の前を熱河路(又はその裏道)を行くわけだが
戦時中で男女席を同じくせずという時代だから、
これが問題でわざわざ女学校の正門の前を避けて遠回りして通学していた。

時たま近道をして女学校の正門の前を通る事になるが
当時女学校の4年生だった従姉と女学校の校門の前で会い挨拶したら
それを見ていた上級生に、

女性と口を利いたと言って殴られたこともあった。

まったく馬鹿げたことだ。

又、現在北九州市に住む図体の大きいS君などは
ただそのことだけで上級生に武道館の裏で殴られたとか、
ともかくひどい時代だった。

もっと不合理だったのは、
同じ第三国民学校を総代で卒業したT君が、肢体上の僅かな欠陥のため
青島中学の入試に落ちたことは最大のショックであった。

彼がその後まったく支障なく、
浪人もせず東大に合格して弁護士になったのを見ても
当時の入試の基準はなんだったのか、

全員が鉄砲を担いで歩く能力だけで評価したのか?

適材適所を無視した無茶な判断だ。

入学時の1年生は4クラスで
何組に配属になったのか、誰と一緒だったのか記憶も薄れてきたが
4,5年前55年ぶりに青島を訪問した際、青島中学校を訪問し、

当時の教室、教練の匍匐前進などで絞られた運動場や
柔道や剣道で虐められた武道館などがそのまま残って居り、

つらい思い出ばかりだが懐かしくて涙が出た。

当時教師には殆どあだなが付けられ
日常仲間同士で苗字を使うことはなかったので
職員室に入室の際
用件と相手教師の名前を大声で告げることが義務付けられていたが、
苗字が思い出せずもじもじしていると、

通りがかりの教師に当該教師のあだ名に対する苗字を教わり

以後本名を言うようにと一発殴られたことも一度ならずあった。

教師のあだ名は誰が付けたのか順送りで先輩から教わり誠に傑作なものが多く、
例えば

梅干(顔に皺が多い)、
白菜(髪の毛の形が白菜に似ている)、
まんずー(ずーずー弁で己の名前万蔵がまんずーとなる)、
アンペラ(あーん、と語尾に付けたあと舌を出す)

などすこぶる特徴をうまく捉えているものが多かった。

結局、青島中学の在籍期間はたった1年4が月だったが

70数年の人生の10分の1に当たるような大きなウエイトを占めている。
(つづく)

※写真1は、元青島日本中学校(現中国海洋大学)。
 写真2、3は、再開発工事中の益都路、博興路一帯。
 写真4は、遼寧路
 写真5は、熱河路

修学旅行は北京

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I氏から、小学6年生のときに書いた修学旅行記が送られてきた。
かなり詳しい、観察力に溢れた作文なので、全文を紹介する。
文中のカッコの中はI氏による注釈である。
文章は旧仮名遣いで書かれているのでそのままにした。
例;言ふ、向ふ、など。

前にも書いたが、青島には日本人小学校が5校あった。
第一、第二、第三、四方、滄口の小学校である。
I氏は第三小学校の出身である。

今の人には「北京は森の都だ」といっても実感は湧かないだろうが、
当時の北京はまだ高層建築物がなく、
小高い丘から市内を一望すると、建造物は大木に覆い隠され、
まさに「森の都」だったのだ。
我々は、
「森の都・北京」を実際に見ることができた、数少ない日本人だと思う。

<旅行記>。(括弧内は、I氏による注釈)
五月十九日(昭和18年、1943年)起、六時半 寝、十一時
今日いよいよ修学旅行です。
授業は2時間しか3時間目は青島神社参拝があった。
神社から帰って用意をしました。
2、3日前から用意してあったのであまり忙しくなかった。
昼間はうれしくて胸が鳥のやう(よう)だった。

いよいよ8時になった。8時半までに青島神社に集合するのだ。8時に家を出た。
近所の人に「行ってまいります」と言って弟といっしょに青島神社へ向かった。
弟は青島神社までむかえに(「送りに」の間違え?)きてくれるのだ。
母は9時ごろ家を出てすぐ青島駅へ行くそうだ。
僕等は8時半に出発して青島駅に向かった。
青島駅にまだ汽車の出発するまで1時間30分ぐらい時間があった。
しばらくして母さんが高橋(健)君の母さんといっしょに来ました。

汽車に乗って動き出したときは母さんと手を振り合って別れました。
大港駅も四方もそう口も過ぎ、しばらくして南郷先生が
「もう10時だから休みなさい」とおっしゃいました。
汽車が出発してから1時間半たっている。
生まれて始めての修学旅行なので
皆がとても僕までとてもうれしくてなかなか寝れませんでした(眠れませんでした)。

五月二十日 起、五時 寝、九時
今日は済南に9時5分についた。汽車の中なので歯はみがくことができなかった。
栄江屋旅館であった。旅館に着くとすぐスタンプを押した。
ご飯がすんで午後1時に見学に行った。
先ず済南が水の都と言われるポートチャン(意味不明)に行った。
水はどんどん出ていた。
それから大明湖にも行った。はすがたくさんあった。
それから百年余たった大きなこひ(鯉のこと)とその他多くのこひがたくさんいた。
夕方は外出があった。夜は旅館でぐっすり寝た。

五月二十一日 起、六時半 寝、十時
朝8時に旅館を出た。汽車に乗って支店のおじちゃんからお菓子をいただいた。
汽車は広い大平原をまっしぐらに走る。午後4時に天津についた。
天津は5月の始めに山下君が天津に行った。(転居の意味か?)
山下君のお母さんがいらっしゃった。
山下君はまだ学校から帰っていないのでこないそうだ。

天津を出てから三時間して北京についた。
北京では大野家旅館に泊まることになった。
明日は天檀や万寿山にいくそうだ。

五月二十二日 起、七時 寝、十時
今日から北京を見学するのだ。
僕等は北京駅へ行ってそこから観光バスに乗って紫禁城に向かった。
バスはすぐ紫禁城に着いた。
高さが10米もある様な高い門をくぐって出た所にまた門が見えた。
その門もくぐって又出た所は広い広い庭のような所であった。
その庭をもくぐって出たときやっと見える物は大きな城か家のような建物であった。

その中に入ると高い所にりっぱないすがあって、
その横のはしから縦のはしまでもめずらしい物がたくさんあった。
中でも八つの種類のある着物などがあって、
白色や赤色、茶色のものなどがたくさんあった。
三つぐらいのいろいろな物をいれた箱、
その中にはしかのつの(鹿の角)で作ったいすや金の時計とか言ふめずらしい物ばかりで、
そのほか広い庭や、昔王様の使われたと言ふ今の鉄ぼうの二倍のあらうかと思ふのが十もあった。
僕はいかに大国であったかをしみじみ感じた。

バスは再び北海公園に向かった。
僕等が北海公園で下車した所の前に広い大きな池があって、その向ふに山があった。
その山は北京で一番大きな山だそうです。
僕等は池のはしからはしまでかかっている(意味不明)。
山の上に登ってみると白い塔があった。
その上に上がると一面本が市にはんしいた(意味不明、多分市内に木が多いとの意味らしい)。
先生が北京は森の都といわれているとおっしゃった。

すぐ向ふ紫禁城があって前に(以前に?)紫禁城で高いと思ったよりはやや高かった。
その外、中海公園、南海公園、中央公園があるが行かなかった。
北海公園では中国人がボートに乗って遊んでいた。

三十分ぐらいバスに乗って着いた所は万寿山であった。
まがりくねった道を通ってひょっこり出た所はりっぱな??池とりっぱな大きい山があり、
まことに景色がよい所であった。
広い大きな池を見ながら昼ご飯をたべた。

それから池のまわりを通って石の船のある所にいった。
又今度は数百段もあるやうな長い石段を上って
万寿山の上からながめた美しさは口では言ふことができない程であった。
万寿山のふもとにある一つの小さな店で
皆が父さんのおみやげと思って杖を買っていたが僕は買わなかった。

万寿山はもと西たい后と言ふぜいたくな(皇后が)金を費やしてつくった山と池だそうだ。
その金のねだんは戦艦四隻もできるそうだ。
まことに人造池と人造山である。

人造池と人造山を見た僕等は再び観光バスに乗って天檀に向かった。
途中村本君と土橋君がい眠りをしだした二人は頭を合わせて眠っていた。
村本君があまりへんなかっこうで眠っていたので皆が笑った。
皆が笑ったので村本君は起きて上を見た。すると先生が村本君を見ていた。
村本君は今度先生を見たので、二人が見合ったのでなほみんながわらった。

下車して僕等は天檀の向ふに円くへいがある向ふから岡見君の兄さんが小さな声を出すと
それが聞こえた。僕は不思議でたまらなかった。

それからすぐ真っすぐな通りを二百米ぐらい行って天檀に行った。
天檀は昔の中国の人が天を拝む所だそうだ。僕はそこにも行った。
それから天から落ちてきたと言はれる北斗七星の形をしている岩の所にも行って、
そこから走ってバスのある所まで行った。
そこから父の杖を一円で買った。それから松坂屋にも行っておみやげをかった。
母にはかんずけきり(?)の小さいのをかった。

五月二十三日 起、七時二十分 寝、一時
今日は午前中外出があった。六人いっしょに松坂屋まで行った。
十二時半頃大野家旅館を出て北京駅より汽車に乗りました。

それから三時間ぐらいして天津についた時は
山下君がお母さんといっしょに駅まで来ていました。
村本君は山下君に杖をあげていた。
ほかの人もそれぞれキャラメルなどをあげていた。
あすはいよいよ青島につくのだ。

五月二十四日 起、三時半 寝、六時半(?)
―― 五月二十四日は大港駅につくまで ――
きのふ(昨日)はなかなか眠れなくて朝は大変早く起きた。
汽車はいつしかそう口、四方を過ぎ大港へついた。
汽車からおりると先ず校長先生がめにはいった。
その少し後ろに母さんがにこにこして迎えにきてくれた。またあすから学校だ。

※写真は、廃駅になった大港駅と増設中の線路

中山路の今と昔

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中山路は昔、山東路といった。

市場通りの角からゆるやかな長い坂道を上り、上り詰めて平坦になった先に桟橋がある。

長い坂道の中間あたりに映画館があった。今もある。

小学生のとき、学校で時々映画を見せに連れていってくれた。

当時のことだから、「ハワイ・マレー沖海戦」とか「海軍」といった、戦意高揚の映画である。

一方、巷の女性たちは、「愛染かつら」や「暖流」などのメロドラマに熱狂していた。

中山路は、新市街ができるまで、青島随一の目抜き通りであり、

世界大戦が始まるまでは、国際色豊かな商店街であった。

「青島日本中学校史」から、当時の中山路の様子を拾ってみよう。

「山東路には、日、中、欧の人びとがそれぞれ店舗を構え、両側の裏通りには中国人の店・・・」
(第十八回生・松本昌洪)

「山東路の高橋写真館でセピア色の写真を、博文堂で与謝野晶子の「黒髪」を買った話など、

・・・(略)・・・。カフェ・フロッセルのおいしいコーヒーは知らなかった。

私事をいわせてもらえば、海岸通りに近い山東路の一角にロシア嬢のいる喫茶店があり、

私は日曜外出の折、中華料理でおなかをふくらましたあと、

最後にこの喫茶店で、サモワールで沸かしたコーヒーを飲みながら、青春のひと時を楽しんだものだ」
(第四回生・斉藤昌司)

「消燈後、寄宿舎を抜け出して深夜の紅燈を彷徨する。

といっても、もっぱら食い気専門で、中国服に変装して、

山東路の裏通りあたりを、悦賓楼とか便宜楼などに餃子やワンタンを仕入れに行く。

平康里に行った剛の者もいたらしいが、中国料理にせいぜい禁制の映画ぐらいだった。

よく行った映画館が洋画専門の「福禄寿」だったり、

『外人部隊』や、『望郷』を、ニキビ面に血を沸かして見た。

洋画専門館は、たいてい9時半頃から夜の部が始まり、

殆ど中国人や外人の観客ばかりで、私ら脱棚組には好都合であった。

洋画はすべてノーカット。

私は中学三年ぐらいから、ジン・アーサーやデートリッヒ、クローデット・コルベルのファンだったし、

彼女たちの濡れ場を毎度見てきた。

内地育ちの同輩諸君や、通学生の皆より年期が入っているので、

人生いろごと、機微にも長じてきたと自負している」
(第二十三回生・白石泰資)

といった具合で、いかにも当時の青島の自由な雰囲気がうかがえる。

当時内地では見られなかった映画と言えば、

Mさんからのメールにも、次のようなくだりがある。

「父は戦時中、青島で映画『風と共に去りぬ』を見たそうで、大変感動したと話しておりました。」

幸いなるかな、古き「青島人」たち。

※古い写真は、88年に撮影したもの。

青島駅、今と昔

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小学校6年のときの修学旅行は、北京だった。

当時、青島から北京まで、列車の旅は二十四時間かかった。

青島駅は小さな田舎の駅だった。

青島に住んでいても、駅がどこにあるのかよく知らなかった。

修学旅行で初めて列車に乗り、途中、済南に寄って大明湖を見学した。

北京は、天檀公園と、頤和園を回った。

買い物は東安市場である。

東安市場は、一度入ったら出口がわからなくなると言われるほど広い市場だった。

「迷子にならないように」
「スリに会わないように」

という注意を何度も聞かされて、こわごわ市場に入ったものだ。
今は、その東安市場も大きなビルになっている。

頤和園(万寿山)は、長い廊下(長廊)と、石の船だけが思い出に残っている。

1989年、44年ぶりに北京を訪れたとき、真っ先に行ったのが頤和園であった。

慌ただしい修学旅行だったが、

1943年という終戦間近のあの当時、よくも北京まで連れて行ってくれたものだ。

6年生は全部で6クラス。3クラスずつ2班に分かれて出発した。

何事もなく旅行は終わったが、引率の先生方の苦労が、今思いやられる。

それからわずか2年後、

私が再び北京へ向かうことになろうとは、思いも寄らないことであった。

1945年4月、私は北京の電気通信学院に入学することになった。

青島発の夜行列車には、予科練入隊の青島中学の生徒も乗っていた。

彼らは、朝鮮半島を周って内地へ向かうのだった。

アメリカの潜水艦の出没で、青島港から船で内地へ向かうことはもはやできなかった。

家族に見送られて列車に乗り込んだ私が、

再び青島の土を踏んだのは、43年後の1988年のことである。

それからは毎年、青島を訪れた。

1992年、青島駅はドイツ時代の面影を少し残して改築された。

ごみごみした駅周辺の売店が取り払われ、駅前広場ができたとき、

駅から桟橋のある海岸までがこんなに近かったのかと、そのとき初めて知った。
(2006年6月6日)

※古い青島駅の写真は1990年に撮影したもの。

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小学校の遠足と言えば第一公園、つまり今の中山公園と決まっていた。

朝、大運動場に集合し、ラッパ卒が先頭に立つ。

時はまさに軍国主義華やかな時代である。

5年生になるとラッパ卒が選ばれる。
健康で、成績が優秀でないと選ばれない。いわばエリートだ。

そのラッパ卒の吹き鳴らす行進ラッパで歩調を取り、
軍国少年の一隊が意気揚々と校門を出て行くのである。

いつもは大運動場の門は閉ざされているのだが、この日だけは別だ。

思えば、私の小学生時代は戦争の時代であった。

小学校入学の前年1937年7月7日、日本は中国と全面戦争に突入。
同年8月14日、カトリック教会天主堂付近で日本海軍兵士狙撃されて死亡。
同年8月19日、青島在留邦人婦女子に対して引揚げ勧告。
時の青島市長沈鴻烈は、邦人の財産を保障することを約束。
翌日より総引揚げ開始。

この総引揚げによって内地に一時帰国した青島生まれの子供たちは、
生まれて初めて日本の地を踏んだことになる。

翌1938年1月10日、日本海軍陸戦隊、青島を無血占領。
同年3月、引揚げ中の邦人復帰開始。小中学校も再開。
(青島日本中学校校史より)

山口県の萩市で仮の暮らしをしていた私の一家も博興路の家に復帰。
4月、第一日本小学校に入学。

1941年12月8日、第二次世界大戦勃発。
このとき小学4年生。
小学校は国民学校と改称される。

小学生といえども、教育はすべて軍隊式であった。

勇ましく校門を出発した5年生の一隊は第一公園に到着し、
木陰の下でひと時を過ごす。

お昼の弁当を食べ終わった生徒たちが、公園の広場に整列していた。

そこへ、のこのこと私が遅れて戻ってきた。

すかさず怒号が飛ぶ。

「どこへ行っていたんだ!」

「弁当を取りに行ってました」

私の弁当はラッパ卒のD君のリュックサックの中だった。
出発前にじゃんけんをして、負けたほうが相手の弁当を持って行くことにしたのだ。
ところが、ラッパ卒は別行動をとって、公園内の忠魂碑のほうへ行ってしまった。

「誰に断わって行ったんだ! 黙って行くやつがあるかっ!」

私のことは、クラスのS君が先生に注進してくれているはずだった。
だが、S君の名前を言うわけにはいかない。

顔面に、容赦なくびんたが飛んだ。

振り上げた腕に全体重を乗せて振り下ろす、軍隊式のびんたである。

右に左に、私の小さな体はよろけた。

よろける度に、不動の姿勢に戻って耐えた。
私もまた軍国少年であった。泣き叫ぶわけにはいかない。

しかし、
5年生は男子組3、女子組3、合わせて6クラス。
全員居並ぶ前での屈辱のびんたであった。

屈辱にしゃくりあげながら帰途に着いた。
隊列は、声を発するものはいなかった。

誰かがうしろのほうで、

「○○、お前、立派だったぞ」

と声をかけてくれた。

友達の名前を言わなかったからなのか、

殴られても姿勢を崩さなかったからなのか、

それはわからない。

軍国主義時代の、苦い思い出は、もう要らない。
(2006年4月27日)


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