青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

想い出の青島

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中山公園は旧ドイツの植物試験場跡である。

「世界各国から集められた170余種の花卉樹木、23万余株を植え、
その中に大和桜2万本を含んでいる」(青島日本中学校校史より)

当時、桜のトンネルもあった。
この桜は戦後、一旦、伐採されたそうだ。

幸い、何本か苗木が残っていて、それを育てて今の桜並木を造ったという。
(K先輩からのメールによる)

だから、中山公園の桜はまだ若く、背も低い。

あと何年かすれば、この桜並木も立派な『桜のトンネル』になるだろう。

中山公園の面積は1600ヘクタール。
匯泉広場(旧競馬場)の北側から太平山の麓に広がる広大な総合公園である。

日本人はこの公園を「旭公園」、のちに「第一公園」と呼んだ。

日本統治時代の青島在留日本人にとって、
この公園にはどんな思い出があるのだろう。

例によって、Mさんのメールを紹介しよう。

<Mさんからのメール、その一>

「中山公園は昔私たちが「第一公園」と言っていたはずです。
公園の奥には忠魂碑があり、小高くなっておりました。
そこは旭山と言っていたと思います。

私は春から晩夏にかけて日曜日は何時も第一公園で昆虫採集をし、
秋には標本を作って学校の理科室に展示されました。

それはとても良い勉強になり、またその後大変役に立ちました。

第一公園の正門から入ってゆくと先ず丸い花壇が見えます。

採集に行く季節はそこには大体百日草が植えられていました。

そこを左方向に奥に進んでゆくと菱の生えている池があり、
夏はミズスマシが泳ぎ、トンボも飛んでいます。

また睡蓮も咲いておりました。
池の中からもいろいろなものを掬い、標本に作りました。

池の北側の潅木では珍しい虫類を見つけることができます。

私は蝶を採集するので、バスから降りると百日草に突進します。

そこには揚羽蝶やタテハ蝶が遊んでいます。

勝負どころです。わくわくしました。

採集に行く前の夜は、採集に持って行くものを何度も点検します。
注射器に入れるアルコールも忘れないよう入れておきます。

お弁当にはよく万頭に自家製のジャムをつけて持って行きました。

なぜそんな事を覚えているかといいますと、
私は今で言うクラブのようなものに入っていて、
春から秋まで毎週日曜日には一日中第一公園に行き、
昆虫採集や植物採集に励んでいたからです。

採集した蝶や蜂や、またコガネムシなどを標本に作る事も楽しいことで、
あのときのままいろいろ興味を持ち続け勉強をしたら、良かったのに。
日本に帰って来て怠けを覚え、努力を忘れ今に至っています。」

<Mさんからのメール、その二>

「冬は一面氷ってスケートが出来るようになり、
父に連れられ手を取られスケートをします。
外人もたくさん滑りに来ておりました。

戦後その時履いた靴はエッジを外し皮靴が買えず普通の靴として履きました。

楽しい想い出と悲しい現実です。

池には菱が生えております。
菱のとげとげの枝が氷の中からちょっとのぞいたりもしておりました。」
(つづく)

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話は大正14年(1925年)までさかのぼる。

「青島日本中学校校史」に、
当時の中学生の労山登山の様子が載っているので拾ってみよう。
※労山の「労」は山編に労と書く。市の東部に連なる山系で、主峰は海抜1100メートル。

「(中学)五年生の秋、中国保安隊員2,3名付き添いで労山へ、
重装備で野外一泊行軍が実施された」(六回生・鎌田吉蔵)

「当日朝、第一小学校の校庭に集合した。
生徒は皆制服制帽で、例の海軍式ゲートルをつけ、ズックの鞄を右から左に掛け、
教練用の背のうには食料や衣料を収納し、携帯天幕を捲いて取り付けて背負い、
弾薬盒と銃剣を外した帯革を締めたりりしい姿であった。

小銃で武装した二名の巡警が護衛として参加し、元気いっぱいで出発した。

行軍のコースは、大港駅から四方駅まで汽車、それからは徒歩で李村、九水を経て労山に向かった」
(六回生・北里又郎)

1925年といえば、中国は軍閥割拠の時代である。
前年に張作霖が軍閥戦争に勝利し、北京政府を握っていた。
そして、山東半島を勢力下に収めていたのが張作霖派の張宗昌であった。

張作霖は親日派だといわれていたから、
この年、青島在留日本人は比較的安泰に暮らしていたに違いない。

しかし、青島日本中学校の労山登山はこの年だけで、それ以降記録にない。

1926年、蒋介石を総司令官とする北伐軍が進撃開始。
翌27年、あっという間に武漢、南京を占領。

日本軍山東出兵。

「このとき青島へ上陸した日本陸軍の一部は中学校にも宿営し、
正門には厳めしい銃剣を持った衛兵が立っていた」(八回生・宇田川芳郎)

そして日本は、泥沼の日中戦争へと突き進んでいく。

護衛付きといえども、
軍事教練張りの労山登山などできる情勢ではない。

話はまた1942年頃まで下る。

Mさんが護衛付きで浮山に登ったちょうど同じころ、
青島中学二十四回生のKさんも、友人三人で浮山に登っている。

<Kさんのメール>
「浮山登山は青中の学生服、制服制帽という恰好です。

別に護衛もなしだったと思います。

私達が登った道はもう覚えていませんが、当時の写真は岩に三人つかまり、
バックは空です。案外軽装です。山の中程でしょう。
なぜ登山したかは覚えていません」

血気盛んな中学生だ。

個人的な登山なら、労山は無理でも、浮山ならできたのだろう。
                     (2006年4月1日)

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浮山は青島東南約12キロメートル、五つの奇峰が連なり、
海抜三百メートル。

山頂からの展望は即墨、膠州の平野を一望におさめられる。
(青島日本中学校校史より)

浮山は青島大学の背後に聳え立っている。
正しく言えば、浮山の麓に青島大学が建てられたわけだ。

海洋大学の新校舎もその隣にある。

ずーっとその先も、海岸に沿って住宅や別荘が隙間なく続いている。

浮山の後ろ側には、浮山后という東洋一と言われる大団地が造られた。

その団地側と海側に通じるトンネルが、今、掘り進められている。

浮山の周りは、つい10年ほど前までは、のどかな農村地帯だった。
労山に行く途中のバスから、峻厳な浮山の全容が遠望できた。

今や浮山の麓は、ぐるりと市街化が進んでいる。

Mさんからのメールには、小学生のとき、浮山に登った思い出が綴られている。

「クラブと違いますが、強歩会というのにも参加しました。
毎月一回彼方此方に出かけ歩きます。
四方の方に行ったりしましたが、

浮山に登ったときは、参加者の脇を陸戦隊の兵隊が銃を担いで
列をガードしてくれての歩きでした。

浮山の頂上では雲の流れが体を包みその印象は忘れられません。

よくぞ参加させたものだと両親の勇気にいまさらながら感心し、
また感謝しております。

青島での生活はとても短かったのに、
生まれた町の白浜での生活より
人格形成に大きく影響を与えていることは確かですね。」

浮山の登山には、兵士の護衛が必要だった時代だったのだ。
そんな時代に、わが子に登山体験させようというご両親に感服する。

私など、青島の郊外に一歩も踏み出したことはなかった。
それどころか、浮山の存在すら知らなかった。
(つづく)

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ショートル市場がどこにあったのか、
早速、T君がお父さんに聞いてきてくれた。

地図を広げてT君が指差したところは、青島駅の東側方面だった。
やはり台西鎮だ。小港にも近い。

因みに、今の青島人は台西鎮のことを「西鎮」と呼び、
台東鎮のことを「台東」呼んでいる。

「食肉処理場があった辺りだね」
「そうです。そうです」
「よし、わかった。ありがとう」

食肉処理場が今も残っているかどうかわからない。
食肉処理場というのは、一般的には「屠殺場」とも呼ばれていたようだ。

写真集「青島の今と昔」(青島日本中学校鳳雛会発行)によると、
「青島宰畜公司、1923年改築。屠獣場1906年竣工(ドイツ)」
とある。

旧ドイツは、青島に食肉処理場を建設して産業の開発につとめた。
当時の衛生状態から、衛生的な食肉処理場の建設が必要だったのだろう。

写真を見ると、建物の前が広い空き地になっているのが見える。
場所は観城路だ。

青島駅の東側に行ってみることにした。
春節の休みの間、日本に一時帰国して戻ってくると、青島は暖かい日が続いていた。

観城路はすぐ見つかった。

古いアパート群の間を海岸に向かって歩いていると、
写真で見た「食肉処理場」の建物が残っていた。(写真)
勿論、建物の前に空き地などない。

Mさんのメールには、「ショートル市場から海が見えた」と書いてあった。

観城路の先に、四川路という広い道路があった。
海が見えた。
四川路は、小港方面から団島岬の先端のほうへ向かっている。

その道を行くと、黄島行きのフェリーが発着する埠頭がある。
さらにその先を行くと、海岸に向かう道が開けていた。

岸壁に出た。
眼前をフェリーが行き来していた。(写真)

小港が見え、貨物船が接岸できる岸壁が続いていた。

ソウルのKさんが釣りをした海も、
Mさんがショートル市場から見た海も、この海に違いない。

「あそこに見えるのが小港だよ」

見知らぬおじさんが気さくに話しかけてきた。
「ふむ、ふむ」
わかったような振りをしていたが、
だんだん説明が難しくなってきたから、
「日本人なんだ」
と、あっさり兜を脱いだ。

「ハジメマシテ」

おじさんは、一つ覚えの日本語を何度も繰り返して笑った。

「ハジメマシテ」

このおじさんの一つ覚えのように、
これからも「思い出の痕跡」を捜し続けよう。

中途半端ながら、
ショートル市場の痕跡探しは、ひとまずこれで打ち切ることにする。

このブログを見た方から、何か情報が寄せられれば、また続きを書くことにしたい。
                       (2006年3月5日)

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団島の街をぶらぶら歩いていると、新しい汚水処理場があった。
石碑が建っていて、ドイツマルクの借款で、96年完成と書いてある。
市の中心、市南区一帯の汚水を処理しているそうだ。

ちょっと話はそれるが、
高知大学瀬戸武彦教授の論文「ドイツの青島経営」によると、

「ドイツ時代の青島の汚水は、ポンプで台西鎮の中央汚水集合溜まりに集められた。
そこから更に、強力なポンプで高台に汲み揚げられ、
自然の流れで団島岬先端の排泄口へ送り、海中へ放流された。
放流された汚水は膠州湾内の潮流を利用して外海へ運ばれた。」

とある。

汚水処理場の周りには昔のままの粗末な建物が残っている。
その古い家並みの間を入って行こうとしたが、道路がぬかっていて歩きにくい。
足を取られて転倒するのが怖いから、これ以上奥に入って行くのを断念した。
しかし、いかにも昔泥棒市場があったような雰囲気がある。

「泥棒市場があったのはこの辺かもしれない」

と勝手に想像して引き上げることにした。

その後、Mさんの許には、Hさんからもメールが届いた。
 
「ショートル市場は泥棒市場のことですね。兄が自転車を盗まれた時、近所のおじさんが『ショートル市場に行けばあるよ』と教えてくれました。
どこにあったのか私は知りませんが、自分の自転車をお金を払って買って来たとブツブツ言う兄に、おじさんは『こんなことで文句を言ってたら中国に住めないよ』と笑っていました。

ショートル市場の品揃えは百貨店並みかそれ以上で、日用品は勿論、禁制品の麻薬や拳銃まであったそうです。現在なら家電品、携帯電話などが並んでいるのでしょう。『倒産品の激安』などは、ほぼ盗品でしょう。

私は直接その市場に行ったことがありませんので、細かいことはよく判りません。
『ショートル』はどんな文字を書くのですか?『賊仔市』も泥棒市のことでしょうね。
ではまた、再見!」

さらに、Iさんからもメールが来た。

「ショートル市場という懐かしい言葉を思い出しましたが、青島のどこにあったのか思い出せません。
青島のは本当のどろぼう市場でしょうが、ヨーロッパの泥棒市場はマイナスイメージがない青空市場のようです。お役に立てなくて申し訳ありません。」

というわけで、ショートル市場がどこにあったのか、特定することができない。
小港の近くにあった、という人も現われて、いよいよ混沌としてきた。

こうなったら、中国人に聞いてみるほかない。
生徒のT君に頼んで、お父さんに聞いてもらうことにした。
                        (つづく)
※写真(上)は汚水処理場
 写真(下)は団島の新しいマンション
                         (2006年2月28日)


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