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「旧日本居留民団跡」 ※この記事は、ライブドアブログ「青島満帆2」に載せたものを再構成し、 こちらに転載したものです。ご了承ください。 中山路と湖北路の角に、 「旧日本居留民団」の建物が残っている。 1902年に、旧ドイツが「水兵クラブ」として建築したものである。 青島は、日独戦争を経て、 1914年から22年まで、日本軍の統治下に置かれた。 1923年、青島の行政権は中国に返還され、 1月、日本駐屯軍は撤退した。 それに伴い、同年、邦人自治組織として、 「青島日本居留民団」が設立され、 ドイツの水兵クラブ跡が居留民団になった。 居留民団は、一応、自治組織とはなっているが、 学校経営を任され、 邦人に対する賦課税の査定から徴収まで行い、 さらに邦人への貸し付けもやっていたというから、 絶大な権限と財力をもった組織だったと言える。 青島第一、第二小学校も、 この年から居留民団立となり、 青島第一日本尋常高等小学校、 青島第二日本尋常小学校とそれぞれ改められた。 Mさんからいただいたコメントによると、 「小学生のときの図画のコンクールに入選し、 居留民団のホールに展示された」そうだ。 居留民団は、 もとはドイツの水兵が憩う場所だったから当然ダンスホールもある。 そのダンスホールが、 展示会などの多目的ホールとして使われたと思われる。 Mさんからのメールによると、 太平洋戦争の末期、 第一小学校の中村校長が退任後、 居留民団の仕事をしていて、 「防空訓練に中国人を巻き込むこと」に疑問を述べたところ、 「即刻帰国を命じられた」 ということが書かれている。 戦局が厳しくなると、 居留民団による邦人の監視と統制が、 一段と強まっていったようだ。 |
青島の街研究
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「青島の芸者さん」 ↑色っぽい芸者さん。伊藤さん提供 戦前の青島在住日本人の人口をみてみると、 青島の人口。1940年(昭和15年)4月現在。 市内(四方、滄口を含む) 中国人 50万人 外国人 3万人 ○うち日本人 2万8千6百人 白系ロシア人 8百36人 となっている。 中国人50万人に対して日本人2万8千人というのは、 率にすれば、現在よりかなり高いことがわかる。 1916年(大正4年)末の在留邦人は約300人であった。 それが、1918年には一挙に2万人を超えることになる。 「日本軍政下にあって、市内の諸施設の完備や 鉄道の改善などが進展するにともなって、 官吏職員の増加と、 大正7、8年の経済好況により 諸企業の急速な進出によるものである。」 (「青島日本中学校校史」より) その後の在留邦人の人口の推移は、 1921年(大正9年) 2万4千500人 1924年(同12年) 1万2〜3千人 (※1923年「中国返還」により減少) 1932年(昭和7年)より再び増加傾向に入る。 これは、 「世界恐慌による経済不況となり 海外移住者が増加」したものであった。 (「青島日本中学校校史」より 1937年(昭和12年) 1万6千人 (※この年、日中戦争が始まり、一時邦人の人口は減少する) 1939年( 同14年) 2万6千人 1940年( 同15年) 2万8千6百人 1941年( 同16年) 3万3千人 1944年( 同19年) 約4万人 1945年( 同20年)8月 3万6千人 ※この間、中国人は45万人から57万人に増加している。 一方、在留邦人の職業別の統計をみてみると、 1939年(昭和14年)9月現在(四方、滄口を含む)。 日本人 2万6千7百人 職業別内訳 一位、会社、銀行員 3千403人 ○二位、芸酌婦、仲居 911人 三位 電気その他工業 701人 四位 鉄道従業者 462人 となっている。 (旧JTB発行「青島」より) 芸者、酌婦が多いのが目立つ。 以前にも紹介したが、 青島には「新町」という歓楽街が存在した。 ↑現在もカタカナの看板が残っている。(カフェ・ネコ) <中野町(聊城路)は日本人商店街の中心地で、 隣に新町という遊郭街があって夜遅くまで賑やかであった。 スターというダンスホールや映画の電気館もあった。(中略) 新町への出入り口も人出が多いので、 軍艦の入港ともなれば水兵さんで一段と賑やかとなった。 時には外国艦船の入港が重なると酒の上での争いもしばしばあり、 多くの話題を残した。> (青島日本中学第13回生・松崎強) ↑聊城路(旧中野町)付近図。橋本氏作成、提供 私の同級生の西島君の家も、 芸者の置屋で、広い座敷があった。 今回、これらの芸者さんの写真を提供してくださった 伊藤さんの祖母さんは髪結いさんで、 芸者の置屋まで出張して芸者さんの髪を結ってあげたそうである。 戦前の成金さんや軍人さんのお遊びといえば、 「芸者遊び」だったのだろう。 時代が移り、現在の青島では、 日本人相手のクラブが林立している。 |
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「日本人がいた街、黄台路(四) 3回にわたって、 黄台路に建ち並ぶ洋風の建物をご紹介してきたが、 全部の写真を載せきれないので、 あといくつかの写真を並べて、 黄台路の項を終わりにしたいと思う。 下の家は黄台路の坂の一番上にある。 外観は例によって新しく塗り替えられているが、 残念ながら内部は相当傷んでいるようだ。 下の建物も外観と玄関内部との落差はこの通り。 この建物はアパートか社宅として建てられたものだろう。 最後にお見せする建物は、 私の記憶の中にある「賀来龍三郎」さん(元キャノン会長)の家。 小2のときにお世話になったお宅は、 間違いなくこのような一軒家だった。 黄台路の坂の真ん中辺りにあり、 庭はもう少し広かったと思う。 道路の拡幅のため庭が狭くなったのではないだろうか。 庭の隅に、 鯉幟や国旗が掲げられるような太い竿が、 コンクリートの台に立っていた。 龍三郎さんは木登りが上手で、 私たち姉弟が遊びに行ったとき、 ちょっとよそ見をしている間にさっと視界から消え、 旗竿のてっぺんから声がかかってきたことがある。 そんな記憶が蘇ってくる。 その後、何らかの事情で、 坂の上のほうに移られたのではないかと勝手に推測している。 下の写真は、 賀来龍三郎さんが小6のときか、青島中学1年生のときのもので、 隣にいるのはご母堂様である。 以上で、「日本人がいた街・黄台路」をひとまず終わる。 また新しい情報が入り次第紹介したい。
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「日本人がいた街、黄台路(三)」 旧ドイツの青島における「建築取締仮規則」には、 「建築ハ何レモ街、交通、堅牢及ビ耐火ノ要求ニ適スルモノ タラザルベカラズ。 建築物ノ外観ハ之ヲ建設スベキ当該市区ノ体裁ニ適応セシムベシ」 (「青島日本中学校校史」より) と書いてある。 つまり、木造建築は禁じられ、 周囲の景観を損なうような建築は許可されなかった。 日本が統治するようになってからも、 この法令が踏襲され、 一定水準以上の街並みが維持されたのである。 そのため、日本人の設計による建物も、 外観はドイツ様式が取り入れられ、 内部の部屋には畳を敷いて暮らすというのが一般的だった。 今回は、今に残る黄台路一帯の洋風建築の写真を ずらりと並べて、 みなさんにごご覧いただこうと思う。 この家は、門を入って階段を上がると立派な庭がある。 それぞれ、内部はいささかくたびれているが、 玄関には、いずれも沓脱ぎがあり、 板張りの廊下、階段が見える。 次回も引き続き、黄台路の洋風建築をご紹介しようと思う。 |
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「日本人がいた街、黄台路(二)」 実は、黄台路が再開発の対象になり、 近いうちに古い建物は取り壊されるらしい、 という情報があった。 しかし、それは杞憂だったようだ。 遼寧路(旧奉天路)から黄台路に入る道の右側が、 すでに壊されているが、 黄台路全体の建物を壊すわけではないそうだ。 今回は、 我が同窓会「羊会」のメンバーが住んでいた旧宅をご紹介する。 黄台路57号は、 菊池(旧姓横山)氏宅。 大きな建物で多世帯が入居しているらしい。 黄台路側から見ると2階だが、 隣の大連路から見ると3階になっている。 黄台路の通りからちょっと中に入っているためか、 外壁の塗り替えは行われていない。 残念ながら住人は留守で、中を見ることはできない。 黄台路48号は、 徳光氏の旧宅。 この家も留守で中に入ることはできなかった。 入り口ドアから階段が見えた。 仕方がないから家の周りを一周する。 黄台路44号、 西村氏の旧宅。 前回の記事で紹介した、 日本間をきれいに保存していた家の隣である。 2階に上がっていくと、 2世帯が住んでいて、 保存状態はあまりよくない。 1階の入り口もこんな状態だから、 内部の荒れた様子は見るまでもない。 黄台路42号、 善導寺というお寺で、本原氏の旧宅。 今は軍の幼稚園になっていて、 善導寺は跡形もない。 日曜日だからお休みで、中に入るすべもない。 このほかに、 黄台路67号に、 土橋氏旧宅と、 元キャノン会長・賀来龍三郎氏宅があったそうだが、 別の建物になっていて今は面影もない。 代わりに、 同行した李さんの祖父母さんが住んでいたという、 黄台路33号を訪ねた。 この建物の一階だそうだ。 小学生の男の子が一人で留守番をしていた。 入り口には例によって沓脱ぎがある。 李さんが子供の頃は段差が高すぎて上がるのに苦労したそうだ。 そのためか、コンクリートで階段状にしてある。 一つの入り口の中に3世帯が住んでいて、 廊下の一番奥の部屋が祖父母さんの部屋だったらしい。 どの家も、家の中まで入って写真を撮るのは難しい。 しかし、どの家も玄関に沓脱ぎがあり、 廊下や階段は木製である。 ドイツ建築を真似た建物の中に、 和式を取り入れ、 日本人好みの生活を楽しんでいた跡がこれを見てよくわかる。 (つづく) 次回も黄台路の建築物群を余すところなくご紹介したい。
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