青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

青島人物伝

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馬賊・伊達順之助

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日本人馬賊としてその名を馳せた伊達順之助は、晩年を青島で過ごした。


<Mさんからのメール>

「『夕日と拳銃』という映画は、

ご存知の壇一雄の小説を映画化し、小林旭が主演しています。

そのモデルと言われる日本馬賊『張宗援こと伊達順之助』は

私が日本に帰ってきた後、信号山の中腹にある数軒の一軒に住まわれたそうです。」

※写真は信号山


1912年、清王朝が滅亡し、中国東北三省の情勢は混沌としていた。

そこには、

実力者張作霖、

清王朝復辟を狙う宗社党、

蒙古独立を目指すパプチャップがいた。


宗社党とパプチャップの背後には、

大陸浪人といわれる川島浪速などの日本の民間人や、

外務政務次官柴四郎がいた。

資金は財閥の大倉喜八郎から出ていた。


1916年、帝位を狙った袁世凱が死ぬと、

東北三省の実権は名実ともに張作霖が握ることになる。

日本の軍部の中には、

この際、張作霖を担ぎ出したほうが得策だという意見が強まってきた。

そうなると、日本の軍部にとって大陸浪人などは目障りな存在である。


危機感を抱いた、日本の大陸浪人たちは、

1916年5月、張作霖暗殺を企てて失敗。

続いて同年6月、パプチャップを決起させた。


馬賊出身の常勝将軍パプチャップは瞬く間に奉天に迫り、

張作霖軍を追いつめていった。


このパプチャップ軍の中に、若き伊達順之助がいた。

伊達順之助は、

旧宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)の孫にあたり、名門の出であった。

性格は粗暴で、中学校を転々と換え、

一箇所に留まることのできない青年であった。

24歳のとき日本を飛び出し、いつの間にかパプジャップ軍に身を投じていた。


射撃が滅法うまく、天才的であった。

戦いになると拳銃を振りかざし、先頭に立って暴れ回っていた。


パプジャップ軍に攻められて窮地に陥った張作霖は、

日本人顧問菊池武夫を介して日本関東軍を動かし、

関東軍はパプチャップに撤退を命じた。

パプチャップは奉天を目前にしながら涙を呑んで引き返し、

蒙古を目指して転戦中、流れ弾に当たって戦死する。

その後もパプチャップ軍は奮戦し、ハイラルで独立宣言をするが、

中国、ロシア軍の攻撃によって崩壊した。


総大将を失った伊達順之助は、

わずかな手勢を引き連れて満蒙各地を転々としながら機を窺っていた。


1937年、北支那方面軍司令官に陸軍大将寺内寿一が就任すると、

チャンスが訪れた。

寺内は中国人部隊を使って、山東省一帯の中国人懐柔工作を画策、

「山東自治連軍」を編成して、伊達順之助を総大将に据えた。


1938年、勇躍、長城を超えて南下をはじめた伊達順之助は、

自ら陸軍大将を名乗り、兵を募りながら山東省の武定に入った。

伊達の参謀格根本豪も、中国人精鋭800名を引き連れて馳せ参じていた。


武定には、元満州建国第二軍司令官・程国瑞がいた。

彼の協力もあって、山東自治連軍の数は一万にも達しようとしていた。

程国瑞は山東省を故郷とし、部下や縁故が多く、人望も厚かった。

一方、伊達順之助の蛮勇はつとに知られ、恐怖を以って民衆に迎えられた。

程国瑞の人気を恐れた伊達順之助は、ひそかに程国瑞を殺害する。



伊達順之助は絶頂期にあったが、それとはうらはらに、

山東自治連軍は現地日本軍に疎んじられ、冷遇されるのみであった。


板垣征四郎大将らのとりなしもあったが、

1940年、山東自治連軍はなんらの任務も与えられることなく、

解散を命じられる。


伊達順之助と行をともにしてきた中国人武将とその部隊も解散し、

ふるさとへ帰農していった。

日本人幕僚たちも、それぞれつてを頼って散っていった。


傷心の伊達順之助は、

従兄弟の青島海軍司令官桑折英三郎子爵を頼って青島へ向かう。

そこで「青島海軍司令部顧問」の肩書きをもらった伊達順之助は、

妻子も呼び寄せて、青島を最後の住みかとすることになる。


1945年8月15日、日本軍降伏。

伊達順之助はただちに捕らえられ、戦犯軍事法廷にかけられた。

(つづく)

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中村八大さんと青島

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Mさんのブログから、

作曲家の中村八大さんについての記事を転載させていただきます。

どうぞご覧ください。
(一ヶ月以上前の記事ですから、日付は古くなっています)


<こんにちは赤ちゃん>

昨日友人のHさんから「今日は何の日」というタイトルのメールを頂きました。

たまたまTVを見たら

1963年7月6日に中村八大さんの

「こんにちは赤ちゃん」

が発表されたという内容だったそうです。

八大さんに長男の力丸ちゃんが生まれ、彼が

「はじめまして、僕がおやじです」

と言ったのを永六輔さんが書き留め作詞したそうです。

NHKの「今月の歌」のディレクターが、

お母さんの歌にしたいと「私がママよ」に書き換えてもらい、

当時19歳だった梓みちよさんを起用してヒット。

第五回レコード大賞につながったと言うことです。(日本テレビ)
             
(写真の赤ちゃんは力丸ちゃん)

この話は私も八大さんご本人から直接聞きました。

懐かしく思い出されます。

Hさんも私も中国青島で八大さんと日本人学校で一緒でした。

八大さんは小学校に入ってから習い始めたというピアノの腕は瞬く間に上達、

小学校の四年生の時でしたか、音楽研修に一人で日本に向かいました。

私たち学年全員は青島の埠頭に彼の見送りに行きました。

ランドセルを背負い、皆に手を振り日本に向かった八大さん。

その後青島に帰って、別の小学校に入り、青島中学に入学。

その後ご両親と帰国。

早稲田時代は有名なバンド「ビッグフォー」で活躍した事は周知の有名な事です。

今私たちは青島の五つの小学校の同学年生で

『青島羊会』という会をもっていますが、

生前の八大さんは世話人として出来るだけ出席するよう、気を使ってくれました。

ビールが大好き、好ましい誠実な方でした。

小学生の時のピアノに向かっている八大さんの姿をご覧下さい。

 中村八大 (1931・1・20〜1992・6・10)
   父  中村和之先生(元青島第一日本尋常小学校校長)

※蛇足ながら、私のブログでも、中村八大さんのお父さんについて書いています。
 どうぞご覧ください。
 中村八大さんは、黒柳徹子との対談でも,
 「青島羊会」のことを大切にしていると語っていたそうです。

中村八大氏のお父さん

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日本には青島出身者の同窓会がたくさんある。
私の入っている同窓会は「羊会」という。
羊年生まれの集まりである。

青島出身者のための会報「青島」も発行されている。
青島は、かつて青島で暮らしたことのある日本人に、強烈な印象を残したのである。

―羊会のMさんからのメール―

「青島での生活には多くの思い出があります。
小学校2年に青島に行きましたが、まさにカルチャーショックで、見るもの聞くもの、それは全て珍しく、子供なりの楽しみと探求の毎日でした。

青島に行った時は最初信号山の中腹にある斎東路という所で、其処は見晴らしも良く、信号山の中腹ですから、入るのに有刺鉄線の置いてある進入禁止のところを超えて通ります。

朝、窓から下を眺めると兎が遊んでいます。休みの日は妹と誰も来ない山の中でおままごとをし、草花を相手に楽しい時間を過ごしました。」

羊会のメンバーで有名人といえば、作曲家の故中村八大氏がいる。
氏は、戦後間もなく、ジャズバンド「ビッグフォー」を結成して、人々を熱狂させた。
その後、永六輔氏と組んで数々の名曲、ヒット曲を飛ばし続けた。

「八大」という名前は、青島の「八大関」に由来すると聞く。
(これは本人から聞いたわけではないから定かではない。一つの伝説として書いておく)

八大氏のお父さんは、青島第一日本小学校の校長先生であった。

当時の小学校の思い出を、Mさんは次のように書いている。

「4年生の頃、校内放送が始まり、避難訓練のために使われたりしましたが、お昼の弁当を食べながら聞く生徒の朗読や、八大さんのピアノなど、今の学校にも無いような先進的なものでした。

中庭で朝礼がありましたが、校庭に全体を覆うように並んだ木立が強い日差しを遮り夏でも涼しく行われました。
これは中村校長が、夏の朝礼で子供たちが貧血を起こすのを防ぐため木を植えた、と戦後先生から聞きました。」

中村校長は、内地から新任の教師が赴任してくると、自ら船に乗り込んで出迎えた。

そして船の上から、港で働く中国人港湾労働者の姿を見学させた。

上半身裸で、真っ黒になって、重い荷物を運び、一輪車を押して行く労働者たちを、当時の人たちは苦力(クーリー)と呼んでいた。
クーリーは町でもよく見かけられた。

新任教師たちに、そのクーリーたちの働く姿を見せて、中村校長は言った。

「あの人たちをよく見なさい。あの人たちの姿を見て、軽蔑の念を抱いた人がいたら、このままこの船に乗って日本に帰りなさい」

中村校長は、軍国主義教育のさなかにあっても、時流に阿ることなく、日本人が民族的優越感を抱くことを厳しく戒めたのである。

中村校長のおかげで、青島育ちの日本人の中には、民族差別主義者はいない。

けだし、名校長であった。

青島出身の有名人としては、故中村八大氏のほかに、
作家の故南条範夫氏、
戦後の映画界に鮮烈なデビューを飾った故三船敏郎氏、
一カメラメーカーに過ぎなかったキャノンを、総合技術メーカーに押し上げた故賀来龍三郎氏、などがいる。

現在なお現役として活躍されている方としては、
社会評論家の日高六郎氏、
加藤蜂蜜会社社長で、青島加藤日本語学校を創立された加藤重一先生などがいらっしゃる。
羊会の田伏中子さんも家事評論家として活躍された。

中村校長のその後について、Mさんからメールをいただいた。

「文化人類学の高名な学者の祖父江孝男先生が『県民性』と言う本を書くに当たり、外地育ちの子女の事を取り上げるため、私が同行し茅ヶ崎に中村先生を訪ねました。

その時の話で、中村先生が戦争末期青島の居留民団で仕事をされていて、灯火管制のことで中国人に強制できないと主張したため、即刻日本への召還命令が出され、荷物を纏める時間もなく、帰国したそうです。

その後中国人の方々が荷物をまとめ、八大さんが使っていたピアノまで送ってくれたということでした。

(第一小学校の)栗原先生は私に「中村先生は日本が負けるということを知る立場にあり、自分だけがさっさと帰国されて、評判が悪いのですよ」と言われていました。

その後栗原先生とゆっくり話す時間がなく、中村先生のことを伝えられずになってしまいました。苦力の話と通じる話のように感じます。

この『県民性』では、女性で外地育ちの研究者が取り上げられていますが、私はM女史として登場しております。」

Mさんは、中国服研究の第一人者である。
                          (2005年11月)
                    
※ 青島に配属された教師
Mさんからのメールには、
「青島の小学校の教師は、九州全域の師範付属の優秀な教師が派遣されてきたものだったそうです。兵役の免除もあったようです。」
と書いてある。

※ 当時のクーリーと子供たち
―Mさんのメールから―
私の家は(斉東路から引っ越した)鉄山路で電電の社宅でした。
鉄山路は特徴のない街でしたが、港に物を運ぶ一輪車が列をなしてよく通りました。

その一輪車に積まれた袋に竹を切った用具を差込み、すばやく米や大豆などを盗む子供が群がり、一輪車の苦力は防ぐすべもなく進んで行きます。

近くに石炭ガラを捨ててある山がありました。コークスを拾う子供の姿が目に浮かびます。
                  
☆写真は中村校長旧宅(二階部分)

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