青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」

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似た環境と性格

最終章 似た環境と性格




私は50歳を越えて妻を亡くし、やはり連れ合いを亡くしていた玲子と再婚した。

実は玲子も私と同じ大陸育ちの引揚者だった。

玲子が話すと満州での小学校時代や、

終戦後は父親と離れた一家が散々な目に会いながら帰国してくるのだが、

その話がちっとも悲惨でなくて面白かった。

玲子の父は裁判官で、

満州の新京(長春)、撫順、奉天(瀋陽)吉林等の地方法院、高等法院に勤務していた。

吉林で終戦となり、

法院次長(名目的な長は中国人だが、次長が事実上の最高の地位)をしていたので

戦後は危ない立場だった。

しかし事務引継ぎを終わったところで中国人の審判官から、

「日本は確かに負けたが、なんと言っても先進国で

これからも我われは学ばなければならない。

私の子供たちが成長したら日本に留学させたいから、その時は宜しく」

と言われたそうである。

昭和7年に満州国が建国された頃は、地方地方に軍閥が割拠していて、

その勢力争いで住民はいつ襲われるか戦々恐々だった。

田舎の町や村の周囲に、

張り巡らされた城壁が残っているのもその名残りの証拠である。

そういう地域に日本が来て満州国として治安を保ち、

通貨を安定させ、教育を普及させた。

それは侵略でもあったが、一方で感謝している住民も多かったのは事実である。

事務引継ぎ後も法院の旧部下とお茶を飲むような関係で、

地元の中国人とはうまくいっていた父親が、

9月にソ連兵がやって来ると捕虜としてシベリヤに連れて行かれた。

法的な根拠は何も無いのだから、国家による大規模な拉致である。

しかし、シベリヤ行きはまだ運のいい方だった。

ソ連兵の後から“解放”に来た八路軍(共産軍)は、

残っていた日本の役人や民間の要人を片っ端から人民裁判にかけ、

無実の人も死刑にしている。

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  ↑西安華清地にて:01年11月



玲子の父親がシベリヤから帰って来たのは昭和25年である。

離れ離れになって4年余り、

一家の主柱を失った家族は、どうやって生きて来たのだろうか。

こういう話は暗くて悲惨になりがちだが、

玲子の口から出ると、楽しく奇想天外な話になって笑ってしまう。

満州の吉林に残された家族は35歳の母親と13歳の長女を頭に5人の子供がいた。

収入はゼロである。

それでも初めのうちは今までの家にいられたので、

着物や家具類の売り食い生活が出来た。

やがてその家を追い出され、売るものも底をついてきた。

そこで母親と長女は僅かに残った着物や洋服をばらばらにほどいて人形を作った。

一着をそのまま売ると百円ぐらいにしかならないが、人形を作ると30個は出来る。

一個10円で売れるから3倍になる。

一日10個ぐらい作れるので、それを売った。

人形の売上は二人で一日百円位になって、それでお米一升が買えた。

突然、国の庇護と頼りとする父親を失った中で、

そういうどん底での生活力を見につけていた。


もう一つの彼女の得意は軍歌である。

好きというわけではないが、どんな歌でも歌詞を全部覚えていた。

吉林の国民学校時代、音楽の時間は必ず軍歌を歌わされていたという。

また満州国国歌も正確に覚えていた。

天地内 有了新満州(テンティネイ ヨーラシンマンチョオ)

新満州 便是新天地(シンマンチョオ ピェンシーシンテンティ)

頂天立地 無苦無憂(ティンテンリーティ ウークーウーヨー)

造成 我国家・・・(ツァオチョン ウォクオチァ・・・)

「宇宙の中に新満州がある 新しい満州がすなわち新天地である

天を頂き大地に立って 苦しみも憂いもない 我が国家を建設しよう・・・」


実は私もこの歌は覚えていた。

前記のように小学校に入学したのが

同じ吉林省の東南の端にある小都市延吉だったからだ。

朝礼の時間によく聴いたように思う。

青島のように原田先生はいなかったが、

吉林の学校もかなりの軍国教育だったようだ。

学校から帰るときや友達と別れるときの挨拶は、

片手を挙げて「ベイエイ・ゲキメツ(米英撃滅)」だったという。

おかっぱ頭の女の子が、大真面目でそうやっていたのだ。

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  ↑上海豫園にて:01年11月



他にも共通する点があった。

私達は共に日本に引き揚げてから父の兄つまり伯父の家に転がり込んで

居候の生活を送った。

私は熊本県、玲子は岐阜県の共に農家。

子供6人を抱えて私の母は大変だった。

父は必ず帰ってくるはずだが、いつになるかは分からない。

その間、子供たちを学校にやらなければならないし、

それよりも先ず食べさせなければならない。

着の身着のままで帰ったので売る物もほとんどなかった。

それに突然、家族7人の食い扶持が増えて、

伯父も困ったことになったと頭を抱えたことだろう。


母は早朝から起きて家事と農作業を手伝った。

私も日曜は田植や草取りを手伝い、

毎日の仕事としては飼っている農耕馬の世話をすることになった。

朝と夕方、藁を切り、糠や穀物を混ぜて食べさせる。

学校から帰ると厩から引き出して、川に水飲みに連れて行く。

草も食べさせる。これが大変だった。

馬を外に出すには先ず口に轡をつけなければならない。

嫌がって私の手を噛んだり前足で蹴ったりするのを避けながら、やっとつける。

少し年寄りで、根性の悪そうな牝馬だった。

百姓馬だから鞍なんか初めからない。裸馬で乗りにくいが、

落馬する時はあぶみに足が引っ掛かる心配がないからかえって安心だと言われた。

馬には以前から乗りたいと思っていたので嫌な仕事ではなかった。

しかしクセのある馬だった。

田舎道でも時には車が通る。すれ違う時、後ろ足で立ち上がるから怖い。

田んぼ道を行こうとすると、すぐ立ち止まってしまう。

仕事をさせられると思うらしい。

頭を家の方向に向けると喜んで走り出す。

一度、よほどノドが渇いていたのだろう。川に向かって猛烈な速さで走り出した。

手綱をいくら強く引いても止まらない。

堤防に駆け上がると水飲み場まで一直線、両足をそろえて競馬馬のように疾走した。

風を切る音がする。

怖かったがこの時、こういう走り方をすると、馬の背中は揺れないことが分かった。

おかげで疾走中は落馬しなかったが、

堤防を降りて馬が水を飲むために川に口を突っ込んだとたん、

私は首っ玉にしがみ付いたまま水中に落とされた。怪我はなかった。

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  ↑万里の長城にて:01年11月



伯父の家は農家だけに広くて敷地は三百坪位だった。

建物は百坪位あったろう。

6部屋のうち一部屋を借りていたが、

父が帰るまで家族は肩身の狭い思いをしていた。

母の唯一の心の支えは

「この長兄の家を建てるときは、お父さんも無理して貯金を送ったのよ」

ということで、子供たちに何度も話していた。

だから少しぐらいの期間はただで住む権利がある、

と自分にも言い聞かせていたのだろう。

同じく子供5人で岐阜の農家の伯父の家に世話になった玲子の家族も、

多かれ少なかれ似たような経験と思いをしたに違いない。

家族だけで帰ってきたのが21年9月、

頼りの父が帰ってきたのが25年2月、居候生活3年半である。

こういう共通の経験がお互いを身近に感じさせたようである。

定年退職後、二人で海外旅行するようになって息がよく合った。

私達はレストランに入ると、

見渡して正面や窓際のいい席が空いていると、堂々とそこに座った。

白人と同じ料金を払って同じ権利があるのに、

目立たないように片隅に座るのは嫌だったからだ。

日本人として負けたくないという肩肘張った意識がないわけでもなかったが、

引き揚げ直後に伯父の家に居候して、肩身の狭い思いをしたことも影響しているようだ。



★ご愛読ありがとうございました。

筆者・武藤直大氏の著書、

「新聞記事に見る激動の近代史」

が、今月26日に発売になります。

どうぞご期待ください。

大陸育ちの地下水脈

第22章 大陸育ちの地下水脈



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↑青島市街を望む:年代不詳


昭和20年の年末、私達家族は父を残して日本に引き揚げた。

領事館勤務の父は青島経由の邦人引き揚げが全部終わるまで仕事があるので、

家族だけで先に帰った。

中学2年の私の目に映った日本の印象は三つあった。


引揚船は米軍の上陸用舟艇LSTである。

戦車などを運ぶバレーボールのコートほどの広さの船底に四日間、

ぎゅうぎゅうに押し込められて横になることも出来ないまま、

やっと鹿児島湾に入った。

波が穏やかになってほっとしながら、甲板から初めて日本の国を眺めた。

その第一印象は、山が小さいことだった。

九州山地の霧島山や高千穂の峰などと思われるが、

山並がコセコセと箱庭のような感じで、

ああ、やはり小さな国に帰ってきたのだと実感した。

中国大陸の丸みを帯びてゆったりした山々や、

満州で見た地平線が思い出されて比較していた。

この思いはその後もかなり後を引いて、大学を出て就職し、

自費で旅行が出来るようになった時に真っ先に行きたくなったのが北海道だった。

狩勝峠から十勝平野を望む地平線が見える、ということを知ったからだ。

日本で地平線が見える数少ない場所の一つだった。

今か今かとずっと外を眺めているうちに見えてきた。

車窓から見るだけでは満足出来ず、

停車した時ホームに降りて地平線に全身をさらして眺めた。

久しぶりの雄大さに、これだ、これだと感激した。

“自分のいるべき場所は本当は東京ではなくて北海道ではないのか”。

鹿児島湾で初めて日本の山を見てから10年以上が経っていた。

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↑現在は青島・下関間にフェリーが通っている(下関港風景:2007年)



二番目に驚いたのは、上陸した港で日本人が肉体労働をしていることだった。

道路工事をしたり荷馬車を引いている男達は、まぎれもない日本人だった。

物心がついてからは、中国大陸でそんな日本人は見たことがなかった。

それは中国人、朝鮮人、時には白系ロシア人のすることだった。

国内では当然のことなのだが珍しくて、

ふーん、日本人もそういうことをするのか、と考え込んだ。

しかし、そんな感想はすぐ吹き飛んでしまった。

帰国後は自分自身が学校の休みの日に農業を手伝わなければならなくなって、

朝の6時から夜遅くまで、

田んぼに這いつくばって麦の畝作りや草取り、田植等をした。

腰をかがめた姿勢で無限に続く労働は、

青島で見た中国人の一輪車よりも辛いと感じられた。

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↑青島市街の眺め:年代不詳



三番目の印象は、熊本の農業をしている父の兄の家に落ち着いてからである。

家の前を村の人が通る。

「どけ(どこへ)行くとな」

「うん、そこまでたい」

「なんばすっと(何をしに?)」

というような会話が交わされる。

外地ではそういう会話は全く聞かなかった。

隣近所はほとんど中国人のせいもあったが、

そんな個人的なことを質問され、適当に答えるというやり方は初めてで、

子供心に、“どこへ行ったっていいのに、本当に余計なお世話”と反撥したものだ。

そういう中国にいた時とは異なる人間関係を、転入した熊本中学でも経験した。

体操の時間に棒倒しという競技をした時である。

青島でやっていたように私は棒を取巻いて守っている人垣を全力で駆け上がって

棒にしがみつき、倒そうとした。

私に肩や頭を踏みつけられた者は痛かったかもしれない。

棒倒しをすれば当然のことなのだが、

気がつくとそういうことをしているのは私一人だった。

他の連中は人垣の周りをうろうろして、

個人的に一対一で適当な範囲の力でつかみ合いのようなことをやっている。

体操の時間が終わって「お前、俺の頭を踏んだな」などとどやされた。

勝つために全力を尽くすというスポーツ精神からは考えられない、

妙な個人的感情に取り巻かれる感じがした。

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↑棒倒し:青島中学運動会:1936年



青島中学では同じことをして何ともなかったのが、日本ではからっとしなかった。

先に青中から陸士に入った石橋さんの文章の中に、

幼年学校出身者から差別を受けた話があったが、

それに似た内地と外地の感覚の違いを私も経験したのである。

小学校に転入して妹達も、

着ている服の違いや、熊本の方言を話せないことでいじめられたようである。


しかし、いじめられたことは家に帰って父母にも兄弟にも話さなかった。

それ以上に辛い飢えとの戦いがあったこともあるが、

当時の引揚者の子供達はよほど腕力の強い者でない限り、

いじめられた経験をもっている。

それでも泣きごとを言わなかったのは、

日本は少しでも毛色の変わった新参者はいじめる国だと理解して、

そういう国に帰ってから自分でそれなりに対処するのが当然と思っていた。

日本がつまり外国だったのだ。

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終戦後の中国人

第21章 終戦後の中国人



中学1年の時、湖北路からもう一度、金口一路に引っ越した。

前にいた家よりも海に近くて大きい。

欧米人の家だったようで、

どういう経路で総領事館の管理するものになったのかは分からないが、

二階建のベージュ色の壁で、外観も内装もしゃれていた。

それが一因で戦後に災難を招く。


終戦になって学校は閉鎖、中学2年の私は勉強することもないし、

朝起きると今日は何をして遊ぼうかと考える。

しばらくは毎日が天国の生活だった。

日本の軍隊は一般の在留邦人より先に帰された。

民間人は武力なしで置いていかれたのだが、

周囲の中国人の態度は急には変わらなかった。

ボーイやアマの使用人は今までと同じように働いてくれる。

市場に行っても、同じように買物ができた。

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↑現在の自由市場:2007年撮影




10月に入ったある日、私は海岸の岩場で釣りをしていた。

すると周りでカチカチと不自然な音がした。

見ると、小石が飛んできて近くの岩に当たっている。

振り返ると中国人の学生が10人ぐらい、こちらに向かって投げていた。

中学の上級生ぐらいで、皆私より大きい。

波打ち際には小石は無限にあるし、

距離は5、60メートル位あるがもっと近付いて来たら身体に当たるだろう。

ここまでやって来たら、殴られて海に投げ込まれるかもしれない。

“その前に、危なくなったら海に逃げよう”。

私はここで海に飛び込んでも、泳いで何処にでもいける自信があった。

10月の海はまだ暖かくてこごえることはない。

それを基本にして作戦を立てた。

頭は帽子を深くかぶって防禦して、もうすこし模様をみよう。

石を投げるだけで気が済めば、ここまでは来ないかも知れない。

相手にしないで無視しよう。と、平気な振りをして針に餌をつけ、竿を振った。

彼等は何か悪口を叫んでいたが、

子供ひとりをいじめるのは気が進まなかったのかどうか、やがて去っていった。

私が比較的落ち着いていられたのは、

この釣り場から実際に泳ぎ出した経験があったからだ。

この辺はフカが出る恐れがある海である。

数年前、ヨットに乗っていたドイツ人が落ちて食われたことがあった。

だから遠泳で沖に出るときは、人間を網で囲んだりして泳いだ。

私は怖くはあったが、フカは自分よりも大きいものは襲わないと聞いていたので、

ふんどしをはずして一方を足首に結び、だらっと流して泳いだ。

この日はふんどしはしていなかったが、

長袖のシャツを脱いで、ひらひらさせて泳ごうと思っていた。

この頃は子供でも危険に対処する意識は持っていた。

海岸での災難はどうやら逃れることが出来た。

これからは釣りには行かなければ危険はないはずだった。

しかしそれは甘い考えで、次の災難は向こうからやって来た。

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↑海から見た海浜公園の岩場:2007年ユートピア丸から写す



数日後の夜9時頃、門をどんどんと叩かれ、中国語で叫び声がする。

ボーイが門を開けた。

10人ぐらいの男が入って来て、父が玄関で応対した。

銃を持った中国兵が3人いて、腕章をつけた民間人が代表者のようだ。

これは後に「接収」といわれ、めぼしい日本人の家がどんどん取られていった。

誰がどういう権限でしていたのかは分からない。

接収には順番も法則性もなかった。

新しい権力者が、早い者勝ちでやったように思われる。

我が家もしゃれた感じだったので狙われたようだ。

父は玄関でしばらく話し合っていたが、

明日の朝までにこの家を引き渡すことになった。

そして男達は「武器はないか」と部屋の中にどかどかと入り込んで来た。

中国にある日本人の家は普通、一階は靴のままで歩くようになっている。

寝室の二階に来る前に父は猟銃を渡した。

受け取った男は大喜びで仲間に見せびらかしている。

それでひとまず引き揚げて行った。

大急ぎで荷造りして翌朝、トラックで家を出た。

落ち着き先は敷地全体を塀で囲まれた、

二階建の6棟が並んでいる日本人の職員住宅だった。

部屋に荷物を入れ終わってから

大きなトランクを一つ忘れてきたことに気がついた。

急いで取りに帰ったが、家の中にはバスタブ以外は何も残っていなかった。

ボーイに聞くと、接収に来た連中が

戸棚もソファーも絨毯も自分勝手に奪い合うようにして持って行ったと言う。

「ショートル イイアン(泥棒と同じだ)」と吐き捨てるように罵った。

このボーイは庭の一角の1DKの独立した家に夫婦で住み、

50歳前後の無口で愛想のない中国人だったが、

新しい権力者となる同胞に対して、いい感じは持っていないように見えた。


私達の避難先は一、二階で3LDKの狭い家だったが、

やがてそこにまた、家を追い出された人が加わった。

タイピストの二人姉妹が応接間に入って、共同生活となった。


ちなみに接収された金口一路の家は55年ぶりに行ってみると、

一、二階とも3家族ずつ、合計6家族が住んでいた。

壁は薄汚れて、ベランダには二軒分の台所が出来ている。

人口が私のいた頃の10倍以上になっているのだから、大変な住宅難である。

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↑ベランダが二軒分の台所に:99年11月



海岸が遠くなり、それに安全ではなくなったので釣りには行かず、

私の遊びはもっぱら住宅の塀の中だけになった。

雑誌で見た日本の竹馬遊びを思いついた。

竹はどこにも生えていないが、手ごろな雑木は敷地のあちこちにあった。

幹でも枝でも180センチ位真っ直ぐに伸びていればいい。

同じようなのを2本揃えて、足を乗せる台を取り付ける。すぐ上手くなった。

階段の上がり降りも出来るようになり、走ったり、けんけんも出来た。

塀の中には中国人の使用人の家もあった。その子供たちが羨ましそうに見ている。

手招きして足台を取り付ける要領を教えてやった。

やがて日中混成の竹馬部隊が敷地内を闊歩した。


引き揚げるまでのこの期間、何も知らない子供は気楽だったが、

大人の世界はさぞ不安だったことだろう。


青島中学校の同窓会誌に、

危急に際して先生たちの人間性を表すような話が載っている。

青島中学は閉鎖になったので在校生は全員、日本の中学に転校することになる。

先生は全校生徒の成績表などの転校書類を作成して渡さなければならないわけだ。

最後の登校日に出席できた生徒はその書類をもらえた。

しかし、内陸に疎開して青島にまだ帰っていない生徒や、

交通機関が乱れてその日登校できなかった生徒もいる。

また中国人に突然家を追い出されて、転校書類を持ち出せなかった者もいた。

そういう生徒のための事務処理を一人残ってやったのが、

国語漢文担当の及川先生だった。

年齢の割りに顔にしわが多くて、ウメボシというあだなの及川先生は、

温厚で戦争中も生徒を殴ったのは見たことがない。

善良な人だったに違いない。

本来なら学校の責任者である校長か教頭がやるべきその仕事を頼まれて引き受けた。

誰でも危険な外地からは早く引き揚げたい。

校長たちは単身赴任で家族は日本にいるのに、

「心配だから」と初期の引揚船に乗ってしまった。

家族のいるウメボシ先生が最後の引揚船まで残ったのである。

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↑旧青島日本中学校(現海洋大学)玄関:2007年



私はその転校書類で熊本中学に転入出来た。

後で分かったのだが、熊中は進学校で九州でも一、二を争う難関校だった。

学制改革で熊本高校になってからは、

毎年10人から20人の現役東大合格者を出している。

そういう学校に無試験ですんなり入れたのは、

青島中学の当時の偏差値が相当高かったわけである。

私も授業を受けてみて、青中と程度は変わらないと思った。

改めて同窓会誌を見てみると、

戦時中は陸士、海兵や一高など旧制高校の合格者を出していた。

しかし私たち青島中学の入学試験は、

学科試験はなく口頭試問だけで、落ちる者は少なかった。

ということは、

外地の小、中学校の方が内地よりも教育がうまくいっていたのかもしれない。

父との魚釣り

第20章 父との魚釣り



昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。

その年には「国民学校令」が出て、私は国民学校4年生となり、

金口一路の最初の家に移った。

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↑最初の金口一路の家:99年11月



開戦直後には外国人全員が腕に国籍を明示した腕章をして街を歩いていた。

何千人いたのかは分からない。

英米仏独伊蘭など国籍は多様で、同盟国人も敵国人も私たちの目には同じだった。

学校では「戦争をしているのだから、スパイに注意しなければならない」

と教えられた。といって私達がどう注意したらいいのか分からない。

向こうから外国人が歩いてくる。

もし毒ガスを振りまいていたら殺されるから、すれ違う時は呼吸しないでおこうとか、

サングラスをした奴は怪しい、など勝手に幼稚な想像していた。

子供たちにはスパイが実際に怖いことは何もないからである。

スパイ対策運動の一環としてだろう、青島の国民学校全児童から標語募集をした。

私は「不平不満はスパイの好餌(こうじ)」と書いて、

それは学校代表の一つになったが、

一等入選は「不平不満にスパイの笑顔」だった。

これには負けたと思った。

誰の作かは分からないが、何よりも「笑顔」は絵になった。

国民学校5年から海洋少年団に入った。

ひと月に一、二回は日曜返上の訓練がある。

ここでモールス信号を習ったおかげで、

中学2年の勤労動員で陸軍の通信隊に入った時は楽だった。

海軍のカッター(ボート)を漕いだり、軍艦に乗せてもらった。

それよりも記憶に残っているのは元旦の「初日の出参拝」である。

朝6時に青島神社集合だから5時ちょっと過ぎには家を出なければならない。

真っ暗の道を一人で歩いて、中国人街も通る。

神社に参拝してから山の頂上に登り、そこで初日の出を直立不動の姿勢で待つ。

着ているのは白い水兵服。夏物で半ズボンだ。

オーバーなんかは着てはいけないから体の芯まで冷えてくる。

それでも我慢しながら、中国人が楽をいている時、

日本人の我われはこんなに頑張っているから強くなるんだ、

と自分自身に言い聞かせた。

しかし海洋少年団は強制ではなかった。

だから父が釣りに連れて行ってくれる時は休んだ。

釣りの帰り道に少年団の制服を着た友達と会うことが何回かあった。

「サボったな」と言われるのは嫌だったが、

それで釣りを犠牲にする気にはならなかった。

金口一路の家は海岸から坂を登った頂上近くにあって、

海水浴場とその先に突き出た岬がよく見えた。

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↑海水浴場と岬がよく見えた:写真は2007年写す



毎日見ていて、潮の満ち引きには大小があることがよく分かったし、

月夜の晩に海がきらきらと盛り上がっているのも見た。

小さな魚の群れが大きな魚に追われて逃げまどっているのだ。

父との釣りでは遠出をすることが多かった。

いろいろ情報は仕入れていたのだろう。

青島の海岸は大雑把に言うと山手区域と下町区域に分かれていた。

下町風の海岸は中国人街で、市内の下水道があって汚水が流れ出している。

砂や石の多い海岸でたいてい濁っており、

ハゼやカレイ、クロダイの小さなのが釣れた。

山手風の海岸は海浜公園もあって景色がよく水もきれいだった。

私が一人で毎日のように釣った金口一路の家の前の海岸もそうだった。

海底は岩でそこから長くただよう藻が生えている。

アイナメやメバル、季節によってクロダイが回遊してくる海だった。

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↑海浜公園:写真は2007年写す



ある日、父とこの山手と下町の海岸の境目付近に行った。

砂地にごろ石がころがっていて岩もあった。

着いた時は潮が満ちてくる途中でまだ浅かったが、濁っているので釣れそうだった。

ハゼがすぐ掛かってきた。

なんだハゼかと思って3匹目位を上げようとしたとき、

突然、途中まで軽かった竿がぐーんと重くなった。

凄い。両手で支えている竿が折れそうになる。

生まれて初めての強い引きだ。全力で手許に引き寄せる。

「大物だ。ゆっくりゆっくり」と横で見ている父が応援する。

海面まで来て魚体が見えたと思った瞬間、急に軽くなって小さな魚が宙に舞った。

針に掛かっていたのは15センチ位のハゼだった。

これっぽちのハゼがあんなに引くはずがない。

ハゼは追い食いされたのだ。

私の餌に食いついて釣り上げられようとしていたハゼに、

別な大魚が食いついたのだ。

よくは見えなかったが大ヒラメのように見えた。

「ヒラメだったと思うよ」というと、

父は「もう一度掛けてみよう」と、道具箱から沖釣りの頑丈な道具を取り出した。

大きな針にまだ生きているハゼをつけて投げ込んだ。

しばらくして「来た、来た」と父の声も緊張している。

ゆっくりと数を10ぐらい勘定した。そして大きく引っ張った。

「掛かった」と糸をたぐっている。今度こそ釣れる!と思った。

が、手許まで来てはっきりヒラメと分かって、海面から引き揚げようとした瞬間、

また逃げられてしまった。

針にはもう死んでしまったハゼしかついていなかった。

「まだ食い込ませ方が足りなかったのかなあ」と父は残念がっていた。

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↑海水浴場とその先の岬:写真は2007年



もう一回は我が家から見える岬の更に先の、波の荒い深場に行った時。

この日は父が大ウナギを釣り上げた。

竿を大きくしならせて10分ぐらいかけて、

手に取ったのは直径5センチ、長さ70センチはありそうな超大物だ。

網の魚篭に入れて運ぶのも重かった。

釣り場を変えたとき、私は潮だまりに小便をした。

それを見た父は魚篭の紐を岩の突起に掛けて、波の寄せる海面に入れた。

すると何としたことか網目が破れた。

そこから大ウナギがするすると大海に逃げ出していく。

見ていてどうすることも出来なかった。

父の「今夜は蒲焼で一杯・・・」の夢もおじゃんにしてしまった。

「あんな所で小便なんかするからだ」とさすがに父は不機嫌だった。

父とはいろいろな釣りをした。沖釣りで大物を上げたこともある。

父の友人の領事達と一緒に車で往復して、贅沢な釣りもした。

しかし、よく覚えているのはなぜか失敗したことが多い。

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↑手前が海浜公園で遠くに見えるのが膠州湾の対岸



私が大人になっていちばん釣りをしたのは伊豆大島である。

船釣りでマダイ、シマアジ、カンパチなどの大物を釣った。

3、4キロのものを10匹も上げたことがある。

しかし、いつまでもよく覚えているのは、釣り逃がしたときのことだ。

ぐんぐんと来る手応えを感じながらやりとりして、

もう一歩のところでばらして(逃がして)しまった。

手応えだけで魚体は見ていない。その時は口惜しくてしょうがない。

一体どんな大物だったのか、どこが下手だったのか、

幻の大魚への想像と反省が湧き上がってくる。

その想像の部分がいつまでも頭の中に残っている。これがいいのだ。

会社で不愉快なことがあって眠れない夜など、

この思い出を頭の引出しから出すと、それが強烈で、

たちまちいやな気分を追い出してくれるのである。

釣り上げた魚は現実に見てしまうので、想像力の働く余地がない。

負け惜しみではなくて、魚釣りは本当は釣り逃がした方が楽しいのかも知れない。

それは心の財産になっていつまでも残るからだ。

こういう楽しみを教えてくれた父に感謝している。

海洋少年団の訓練をサボるだけの価値があったと思う。

私もその喜びを自分の息子に伝えなければならなかったのだが、しなかった。

仕事が忙しい。東京勤めで、近くにいい釣り場なかった。と言訳はあるが、

心の財産を残してやれなかったことを済まなかったと思っている。

シェパードのサーツ

第19章 シェパードの「サーツ」



小学2、3年の私が一人で中国人街を歩けるぐらいだから治安はそう悪くはなかった。

しかし盗難事件はあったようで我が家も犬を飼うことになった。

シェパードである。一歳半位でもう大人の体になっていた。

名前は「サーツ」、雌犬で姿も顔もいい。

家族みんなが気に入ったが、私がいちばん可愛がった。

粟飯に肉の少しついた骨とそのスープをかけ、洗面器に入れて犬小屋に持っていく。

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↑愛犬サーツ。筆者が抱いている黒い子犬は「いい犬だ」と言われたのだが・・・



学校から帰ると必ず散歩に連れ出した。

青島神社とその周辺が犬の運動場である。

私だけでなく中国人の親父さん達も自慢の名犬を連れて集まって来る。

サーツを見ると皆が「いい犬だ」と誉めた。

気分は悪くなかったが、大きな犬に囲まれたサーツが

尻尾を巻いて逃げたそうにしているのが気に入らなかった。

もっと毅然として欲しかったのだが無理だったようだ。

乙女の身で屈強な男に取り囲まれては、体を守ろうとするのは当然だろう。

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↑旧青島神社境内。愛犬サーツを連れて走り回ったところだ。



やがて私のサーツが何者かに犯された。子供が生まれたのである。

外出するときは必ずついている私の目の前では、

その原因になる行為はしていなかった。

犬小屋はコの字型になっている間取りの家の開いた部分に、

高くて頑丈な金網を張って作ったもので、

人が戸を開けないかぎり犬は出入出来ない。不思議だった。

最初に生まれたのは一匹だった。父はこれはいい犬だね、といった。

親子二匹を散歩に連れていると、評判になったのだろう、

近所の中国人が譲ってもらえないかと言ってきた。

私は渡したくなかったが、父はOKした。

そして一年後にまた生まれた。今度は6匹である。

これは駄犬だねえ、と父は言った。

そんなことは関係なく子犬は可愛かった。

私は犬小屋にもぐり込んで、オッパイに吸い付いている子犬を撫でてやった。

親のサーツも喜んで狭い我が家にご主人様の居場所をつくろうと、

小屋の隅に身を寄せて嬉しそうだ。

そんな蜜月状態も一カ月ぐらいで終わった。

イメージ 3

↑旧青島神社の大鳥居



ある日学校から帰ると子犬が一匹もいない。

「どうしたの」と母に聞くと

「うちでは飼いきれないし、貰う人もいないから、

可哀相だけどボーイに捨てさせた」という。

ボーイに聞くと首を振って教えてくれない。

それならば、と私はサーツを犬小屋から出した。

親なら臭いで探せるだろうと思って連れて歩いた。

サーツは門の外には出て行かなかった。

庭の隅の小さな畑の周りをうろうろしている。畑には掘り返した跡があった。

“ここだ”と私は手で掘った。6匹のうち3匹を救出出来た。

「もう絶対そんな残酷なことしないでよ」と母に念を押した。

だが、それで一件落着とはいかなかった。

親犬のサーツにダニが無数についたのだ。

耳や指の間の柔らかい部分には気持ち悪いほど隙間なくびっしりついている。

私がいくら手で取っても、ダニ取り粉を振っても効かなかった。

体力も弱ってきたようだ。

それに気が立って、同じ敷地にいる父の同僚を噛んでしまった。

子育てで神経質になっていたからだと思う。

それやこれやで、

「サーツはもう家では飼えない。立派な施設に入れて、治してもらう」

と父が決定を下した。

3匹の子犬もそこで引き取ってもらう、という約束で私も諦めざるを得なかった。

その犬の施設には、私が3匹の子犬を入れた箱を抱き、

サーツと一緒に洋車(やんちょ・人力車)に乗って行った。

施設というのは軍用犬を訓練している人の家だった。

それから半年後位に父が「サーツが立派になったよ、見に来るかい」と言う。

総領事館の庭に訓練した人が連れて来てくれた。

毛並みにつやが出てすっかり元気になったサーツは私を覚えていて、

尻尾を振りながら体をなすりつけてきた。

イメージ 4

↑日本総領事館跡:2007年写す



訓練の成果を見せてもらった。

ハンカチや手袋等の臭いをかがせて、

サーツには見えないようにして広い総領事館の庭の石の影に隠す。

「取って来い」と命令すると、

隠しに行った人の足跡を地面の臭いを嗅ぎながらたどって探し出し、くわえて帰る。

また180センチはある高い総領事館の木製の門を指差して「跳べ」と命令すると、

助走してきて後ろ足のバネをきかせて跳び上がり、前足を門にかけてよじ登る。

硬い木で出来た門に爪は立たないが、確かによじ登った。

それを見てアッとひらめいた。何故、犬小屋にいたサーツは妊娠したのか。

夜、恋人が来ると、サーツかその恋人が金網を跳び越えて思いを達していたのだ。


サーツは私が命令しても同じことをやってくれた。

やはり手放した方が良かったのだろう。

その後の消息を聞くと、訓練所で犬の先生になった、ということだった。

犬の世界の秀才だったことは間違いないようだ。

イメージ 5

↑日本総領事館跡は現在ホテルになっている。2007年写す。

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