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第15章 満州の「悪い人」の正体 厦門の次の任地は満州の龍井(りゅうせい)だった。 その間に父は東京の外務省本省勤務が1、2年あったようだが私は覚えていない。 とにかく龍井には小学校入学前に2年位いて、 次に近くの延吉(えんきつ)に移って、そこで入学した。 両市とも現在の中国東北部吉林省にある。 当時は日本の行政区画で間島省となっていた。 龍井には総領事館があり、延吉にはその分館があった。 朝鮮との国境近くにあり、住民は朝鮮人が多かった。 緯度は北海道の札幌と同じぐらいで、それほど北ではないが気温はうんと寒かった。 なにしろ冬は北極の大陸性高気圧が発生して、 出来立ての寒気団に覆われる地域である。 外から帰って玄関の金属製のノブを掴むとき、 手袋がちょっとでも濡れていたらじゅっと凍りついた。 冷凍庫の金属に触れた感じで零下十数度になる。 そんな寒さなのに男の子は冬でも長ズボンは穿かせてもらえなかった。 半ズボンにひざ小僧までの靴下。 だからひざから上のズボンまでの肌が無防備のむき出しである。 外で寒いだけならまだ我慢できた。 寒風にさらされ、雪に濡れて油っけがなくなってかさかさになり、 やがてひび割れしてくる。 メンソレを塗りこむが、その程度ではとても追いつけない。 象の皮膚のように深いシワが出来てときには血がにじむ。 さわると痛いが、風呂に入るときがもっと大変だ。 お湯が奥まで染み込んで痛いこと痛いこと。 長い時間をかけてゆっくりとしゃがんだ。 どうしてこんな苦労をしなければならないのか、分からなかった。 中国人の子供たちは綿入りの長ズボンで見るからにぬくぬくしている。 日本人は我慢して耐え、強くならなければならない、 という教育方針があったのかもしれない。 後に青島の小学校でも「夏は日向を歩き、冬は日陰を歩け」と教えられた。 優秀な日本国民は、中国人と同じことをしていてはいけない、 というような優越感に基づく厳しさもしつけられていたような気がする。 ↑龍井か延吉:中央に立っているのが筆者 兄は龍井で小学校に入った。 私はいつも兄とその友達の遊びの群れに後からついて回った。 ある時、その群れの一人が血相を変えて走ってきた。 「人さらいだ。隠れろ!」。 皆がいちばん近い友達の家の玄関に飛び込んだ。 ガキ大将が勇気をみせて、ドアを少し開き、隙間から覗く。 「自転車に大きな籠を載せている。人をさらったら、あそこに入れるんだろう。 あ、向こうのうちに入っていく」 そこで一人が決死の覚悟で偵察に出た。 胸をどきどきさせて見守っていると、向こうの家から人さらいが出て来た。 白い物を抱えている。 斥候が帰ってきた。 「洗濯屋さんだった」 新しい洗濯屋が出来て、今まで見たこともない大きな籠を積んでいたのだった。 本当に「悪い人」と思われる人も見た。 領事館の官舎の近くに刑務所があった。 鉄条網に囲まれた中で毎日作業している。 赤い囚人服を着て二人ずつ鎖で腰をつながれていた。 「ひとさらいや泥棒したり、悪いことをしたらあんなになるんだ」 と実地教育のようなものだった。 しかし子供たちは平気で近寄っていく。 その近くに広場があって、野球をして球が鉄条網近くに転がっていくこともある。 兄が囚人たちの農作業をのんびり眺めていると、 そのうちの一人から話し掛けられた。 「坊や、何持っているの? あ、グリコの景品だね。いいなあ」 朝鮮人の発音だが、よく分かる日本語で、優しい顔だったという。 どういう囚人だったのだろうか。 ↑青島の街角 前述のように間島省は朝鮮との国境付近で朝鮮人住民が多い。 それでいながら朝鮮ではなく満州だったので、朝鮮の警察の管内ではない。 それだけの理由ではないだろうが朝鮮独立運動の拠点となっていた。 現在の北朝鮮首領・金正日の父、金日成も ここで抵抗運動を指導していたとされている。 この地域には中国の八路軍(共産軍)もいて抵抗していた。 私は50歳を過ぎて再婚するが、相手の玲子は満州育ちである。 そのことは後述するが、 玲子の父親は撫順や吉林、奉天(瀋陽)等の法院(裁判所)で裁判官をしていた。 当時のことをエッセイで残している。 それによると、 満州事変、支那事変が始まってからは、八路軍があちこちで村に潜入し、 住民を強制して道路や鉄道線路破壊等の反日闘争をさせた。 捕らえた犯人は裁判官が職務として裁かなければならない。 犯人の住民は、「強制されてやったので、自分の意思ではない」という。 「しかし、そういうことをすれば罰せられることは知っているはずだ」、と糾すと、 「命令に背くとその場で八路軍に生き埋めにされるので、拒否出来なかった」 と弁解する。 それは本当だろう。 現に自分で使っている道路や橋や電柱等を爆破したら、 困るのは自分達だから進んでやるわけはないのである。 彼らの行為は法律的には緊急避難に該当する。 誠に同情されるのだが、かといってもし無罪放免すると、 八路軍はつけ込んでますます破壊活動を強め、 満州国全体の治安の維持が困難になるのは目に見えている。 玲子の父は悩んだが涙を飲んで有罪と判決した。 そういう事件を審理する中である時、 容姿が老いた実父にそっくりの被告人がいてびっくりした。 ひと目見た瞬間から「どうか情状が軽くあってほしい」と願った。 実父かと思われるような被告人を極刑にすることは耐えられなかった。 ところが皮肉にもその被告人は頭領的な立場で情状は極めて悪く、 最重刑を課さなければならなかった。 兄が話をした優しい囚人もこういう人だったに違いない。 もちろんその時は、子供には何も分かってはいなかった。 当時の子供の世界で「悪い人」というのは、 人さらいであり、泥棒、放火犯であり、キョウサントーだった。 それが別々にいるのではなくて、 同一人物あるいは同一人格として頭の中に描かれていた。 実際は見たことはないが、親が怖いとか悪いとか言うから、 そういう怖くて悪い人の像が漫然と頭の中にあった。 つまり人さらいは共産党員でもあった。 放火、泥棒がわるいのは当然として、 共産党は日本内地でも昭和の初めから警察に弾圧され、検挙されていた。 中国他大陸にも共産党員はいたし、そういうことが食卓の話題にもなって、 イメージが作られていったようだ。 人さらいというのは、なぜかサーカスの曲芸の子役とも関係していた。 内地でもそういう話はあったようで、 さらわれてきて親方に厳しい練習をさせられて、 あそこまで芸が上手に出来るようになった可哀相な子供たちという物語だ。 内地でも外地でも、子供たちがあまり夕方遅くまで外で遊んでいないようにと 親が考え出した作り話が、大きく普遍的な物語になったようだ。 ↑青島の街角 年に一、二回、家族連れでいくところがあった。 慰安列車である。 満鉄(南満州鉄道株式会社)がサービスで商品を車内いっぱいに陳列した列車を、 満州の地方都市に運行する。 車内でも食事が出来て、映画も観られた。 小さくてよく覚えていないが、 見たこともないきれいな商品を驚いて眺めていた気がする。 龍井では私達子供には何事も起こらない平和な生活だった。
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武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
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第14章 厦門の共同租界で 私は中国大陸に中学二年までいて、 日本の兵隊さんと相撲でいい勝負をするところまで育った。 生まれてからそこにいたるまでの経過を振り返ってみよう。 ↑青島風景:冬の桟橋 昭和6年、台湾の対岸にある中国の福建省・厦門(アモイ)で生まれた。 父は総領事館に勤めていて、 その勤務先も官舎も厦門市のすぐ沖の鼓浪嶼(コロウショ)、 別名コロンス島にあった。 中国の都市の中で 万国共同租界として開放された(1904年に英国が最初)地域で、 各国の大使館、領事館や富豪の大邸宅がある景色のいい島である。 私がいたのは3歳までだから全く記憶はない。 これからの話は2歳上の兄から聞いたものである。 母は赤ん坊の私を抱き、兄の手を引いて散歩や買物に出た。 すると中国の婦人が寄って来て、母の着ている服の品定めをして褒める。 服にさわって生地を確かめたり、デザインの批評などをするのである。 そして抱かれている私の頬にさわったりして、可愛いとまた褒める。 これが地域社会の交際の礼儀になっているようだった。 この間、年上の兄はかまってもらえなくて、仏ちょうづらの時もあったらしい。 その兄も厦門ではいろいろ親に手を掛けたようだ。 ある日突然、行方不明になった。 母からの通報で勤務中だった父も必死に探したが見つからない。 誘拐されたのかも知れない。 父は総領事に頼んで、 コロンス島から中国本土に向かう船の出港を一時止めてもらった。 警察にも頼んで捜索した。 それでも見つからなくて家で蒼ざめていた両親のもとに、 やがて兄が「タダイマー」と元気に帰って来た。 ゆっくり問いただすと、御用聞きのお兄さんとずっと一緒だった。 あちこちと島中に散在するお得意先を回っているうちに 何時間も経ってしまったのだ。 御用聞きのお兄さんは家の人も知っていると思って 親切に連れて回ってくれたのだから、あまり怒るわけにはいかない。 そのせいかどうかは分からないが、 子供がいつも外をふらふら出歩いていては危ないと思ったのだろう。 父は官舎の庭に独力で私達兄弟が遊ぶためのブランコと滑り台をつくた。 ブランコは二台あって、一つは幼い私が乗れる箱がついている。 写真で見るとかなり頑丈なものだ。 デパートにある半製品のキットを取り寄せたのかもしれないが、 ぐらぐらしないような土台造りからして大変だったと思う。 この頃の父は三十代前半のマイホームパパでもあった。 子供はちょっと眼を離すと何か“事件”を起こす。 メイドと一緒に海岸通に散歩に出かけた時、 兄はちょこちょこ走り回っていたのだろう。 岸壁から砂浜に落ちてしまった。2メートルほどの高さからで腕が折れた。 厦門にはいい病院はなかったようで、 応急手当をした後、船で台湾海峡を渡って遠く台北帝大の大学病院に連れて行った。 入院していた時の両親は特別に優しかったようで、 兄はゴムで動く飛行機等それまで欲しかった高価な玩具を買ってもらった。 一見平和な家庭生活のようだが、塀の外では反日の機運が高まっていた。 ↑青島の街風景:堂邑路(厦門の写真がありませんので青島の写真です) 建物は旧三井物産跡 昭和6年、柳条溝での守備隊の衝突から満州事変となり、 中国全土に反日運動が広がった。 昭和7年には上海で、 日蓮宗のお坊さんが5人で市内を托鉢行脚しているところを襲われ、 死者一人、重傷者二人を出した。 日本軍の謀略とも言われたが、これが上海事変の発端になる。 上海は当時、東洋で最大の工業都市だった。 租界には欧米や日本の会社のビルや、そこに勤める社員たちの住宅があった。 公園も学校もあって美しい街並みだったが、 その周囲は工場や貧民街、それに魔窟と言われたアヘンや売春の怪しげな店が並ぶ。 そこで20万人以上の中国人労働者が低賃金(一日20セント位)で働かされていた。 資本家としての日本は新参者だったが、欧米人より恨みを買っていたようだ。 厦門でも昭和9年、宗教のことで問題が起きている。 この時は父が転任になって厦門を離れた直後だったが、 在留邦人が多くなって仏教信者が本願寺を建立しようと敷地の買収を始めた。 すると中国人は「日本寺院は侵略の大本営になる」として、 反対運動を起こしたのである。 キリスト教の教会は建っているのに、日本人はこういう問題は下手なようだった。 反日の空気は大陸全土にわたっていたので、 この種の騒動は父が赴任するどこの領事館でも抱えていたようだ。 家族もそれだけ危険にさらされていたことになる。 ↑青島の街角:楽陵路の市場前 厦門の在留邦人には心強い味方もあった。 日本の軍艦が度々港に入ってくる。 乗り組みの水兵さんがブラスバンドを先頭に堂々と市内行進をする。 反日運動に対抗する示威行動である。 我が家にも「海軍さん」がよく遊びに来て風呂にも入った。 同郷の人だったと思われる。 そのお土産が子供にとっては楽しみだった。 軍艦にも乗せてもらった。 こういう環境の中で子供に安全のシツケをどうするか、 親はそれぞれ心を砕いたようである。 用心するといっても周囲は全部中国人だ。 絶対安全を考えたら、どこにも出られないし、誰とも付き合えない。 使用人は中国人だし、街で買物をする相手も中国人、街の通行人も殆どそうだ。 そこで親達は世の中には「いい人」と「悪い人」がいると教えた。 使用人も店員も、街で両親が立ち話する人も「いい人」である。 いい人だったら子供は手をつないでもいいし、抱かれてもいい。 こんなことがあった。 ある日のこと、家に真っ黒な肌に髭をはやし、 身長2メートルはあろうかという怪人が突然やって来た。 近くで見た兄は怖くなった。 玄関で応対している父にそっと、「この人いい人?」と聞いた。 父は「うん、いい人だよ」と答えて談笑していたが、 父の背の高さは怪人の肩までしかない。 兄は「お父さんも本当は怖いんだけど、我慢しているのじゃないかな」 と感じたという。 怪人の正体は後で考えると、インド人の警官だったらしい。 「悪い人」について外地の子供たちが共通して教え込まれていた第一が 「人さらい」である。 これは親の誘拐犯対策だったのだろう。 それに「泥棒」「放火犯」「キョウサントー」等が続く。 子供たちの危険は日常生活の中に常にあった。 それを当たり前として育ったために、 子供なりに危険の対処法は身に着けていたようだ。
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第13章 軍隊生活の後遺症 その日の夕方、8月16日、私たちは部隊から“地方”に返された。 その時、軍隊から二つのお土産を貰っていた。 それは後で気がつくのだが、家に帰った直後にそれとは別な、 私にとって最大の悲劇が待っていた。 喜び勇んで玄関のドアを開けた。 足音を聞きつけたシロが飛びついてくるはずなのに、出て来ない。 さっと不吉な予感が走った。 不安な気持ちを押さえて、家族には先ず部隊から帰るまでの経緯を話した。 それが終わって何気ないように聞いた。 「シロはどこにいるの?」。 母も妹も顔を見合わせて黙ったままだ。 兄が意を決したように答えた。 「実は死んだんだ。この間、直大ちゃんが休暇で家に帰ってきたよね。 その日ずっと泣き止まない。 夜も鳴き続けるんで、一階の風呂場に入れたんだ。 そしたら、ちょっと鳴いていたけど鳴き止んだので、諦めて寝たなと思った。 ところが翌朝、死んでいた。 洗面台の下の水道管に取っ手が付いているよね。 走り回っていて、その取っ手にシロの首のリボンが引っ掛かり、 首が絞まった形になって・・・」 「そう、僕が部隊に帰った日にね。淋しかったんだろうな、可哀相に」 体全体がかっと熱くなったが、努めて平静をよそおった。 「それでどうしたの。お墓は?」 「ボーイに言って、庭の隅に埋めさせた。シロの墓と書いてあるよ」 「じゃあ、見て来る」 と席を立った。 庭に出て涙がどっとこぼれた。 小さく土が盛り上げられている墓の前にしゃがんだ。手を合わせる。 「そんなに僕が恋しかったのか、可哀そうに。 こないだ、たまに帰ってきて、お前に思い出させたのがいけなかったんだよねえ。 休暇で僕が帰らなかったら、こんなことにならなかった。 ごめんね。だけどシロ、お前を抱きたいなあ」 そう思うと“どんな姿でもいい、もう一度抱きたい”とたまらなくなった。 墓を両手で掘り始めた。堀りに掘った。しかしシロの白い姿は出て来ない。 “どうしたんだろう。まだ埋めてひと月ぐらいなのに。 野良犬が来て掘りだしたのかな、それともボーイは本当に埋めたのだろうか?” 墓を元の形に戻して、真相を追究しようと思った。 しかし手を洗っているうちに、そんな気もなくなった。 追求したところでシロが生き返るわけではない。 かえって辛い時間が長引いて、悲しみが増すだけだ。 そのまま海岸に出た。岩場の突端まで行って叫んだ。 「シロ、帰って来いよう」 誰も見ている人はいないし、声は波の音にかき消されて遠くまでは聞こえない。 そこで大声で泣いた。 ↑終戦直前の家族。筆者は軍隊に入っていて不在。シロは妹が抱いている。 シロは父の友達から譲ってもらった。生まれて三ヶ月位。 これ以上ない純白の毛並みで、名前は平凡だけどシロとしか付けようがなかった。 私が受け取りに行って抱いて帰って来た。 当然のように私がいちばん可愛がり、いちばんなついていた。 父にもう一度譲って貰えないか頼んだが、難しいという。 その答えに我慢できなくて、シロを貰った人の家に直接行って頼んだ。 「死なせてしまって済みません。 これから私がずっとついていますから、仔犬がいたら、 もしまた生まれたら、頂けませんでしょうか」 「残念だけど今はいないんだよ。 これから仔犬が生まれるとしても時間がかかるから、 それまでには日本に引き揚げなければならなくなるよ」 と優しく言い聞かされた。 それでも諦め切れなかった。 それではとシロに代わる犬の獲得計画を練った。 家の近くには中国人の裕福な家が多い。 三軒に一軒ぐらいは犬を飼っていて、スピッツやテリヤが流行りだった。 庭に放し飼いにしていて、それが鉄柵の塀越しに見える。 口笛で塀の近くにまで呼び寄せて、 手の届くところまできたら抱き取ってやろう、という計画だ。 そういう悪事にはすぐ乗ってくる友人がいた。家の近くにいた同級生のK君だ。 埠頭会社の社長で元海軍少将の家のお坊ちゃんだが、いたずらは大好きだ。 二人で毎日のように可愛い犬を探しに歩き回った。 獲物はたいてい塀から離れた家の近くにうろうろしていて、 道の近くまでは来ない。 口笛を吹いても見向きもされないか、見向いた時は吠えられた。 「こうやっているうちに慣れて寄って来るかもしれないよ」 「犬を可愛がって呼んでると思うだろうから、泥棒とは間違われないだろう」 と都合よく考えて根気よく続けた。 一度だけ塀の鉄柵越しに触われそうに近づいて来たことがあった。 胸をどきどきさせて手を伸ばしたが、気配を察したのか逃げられた。 「惜しかったなあ」「うん、もう一息だった」と興奮して顔を見合わせた。 そうこうしているうちに、私のシロを失った悲しみも少しずつ薄らいでいった。 ↑金口一路の近所の建物 部隊のお土産の話に戻す。 一つ目は帰宅して翌朝に分かった。猛烈な下痢が始まったのだ。 終わったと思ったらすぐしたくなる。シャーッと水のような便だ。 そのうちに赤いものが混じるようになった。 かなりの下痢だなと思ったが、体力には変わりはなく、だるいわけではない。 寝ているのはもったいないので魚釣りに出かけた。 念のためにちり紙も用意した。 案の定、竿を出しているうちに直ぐもよおしてくる。 我慢し切れなくなって岩陰に隠れてした。 そんな状態が4日も続いた。下痢止めを飲んでもよくなる気配はない。 一日十回以上、あまり拭くものだから肛門がひりひり痛くなった。 これは普通の下痢ではないな、と真剣に考えた。 さかのぼって原因をさぐると思い当たることがあった。 軍隊生活の最後の日、 昼食の用意をしたままで、匪賊討伐から帰った部隊の迎えに出た。 その間、4、50分はあっただろう。 机に並べられて食べるばっかりだったご飯にもおかずにも、 ハエがたかりっぱなしだったはずだ。 それに違いない。 以前に父から、青島で流行ったことのあるアメーバ赤痢について聞いたことがある。 法定伝染病の赤痢ほど重症ではないが、便の回数は多い。 その症状とそっくりだ。 僕が海岸で排便して、それを魚が食べたら、 伝染病だから市内に流行するかもしれない。これは危ない。 父から特効薬があると聞いていた。 自分では治せないと分かって隠しておくわけにもいかず打ち明けた。 父は翌日その特効薬を手に入れてきてくれて、飲むと一発で嘘のように治った。 ↑金口一路の近所の建物 もう一つのお土産はお風呂で貰った。 部隊の風呂は3畳間ぐらいの広さの湯舟だったがいつも満員で、 洗い場も込んでいた。 入り口で「学徒班武藤、入浴に参りました」とどなって入って行く。 「どうだ、もう慣れたか、モールスは覚えたか」 「兄弟は何人いる。お父さんは何してる?」 と周りの言葉は優しかったが、温かいお湯の中で兵隊さんの体から出る黴菌が、 私達の股間に侵入して来ていたのだ。 家に帰って何日かたつと、股の間がやたらにかゆい。 掻いても掻いても止まらない。 そっと触れてみると、かゆい部分の手触りが他の皮膚とちょっと違っていた。 パンツを脱いで鏡に映して見た。袋から股の付け根にかけて色が変わっている。 灰色で小皿ぐらいの面積があって、境界線がはっきりしていた。 何か分からないが皮膚病のようだ。場所が場所だけにぎょっとした。 これも仕方ないから父に話した。 父は直ぐ分かったようだが、それでも母に点検させた。 私が風呂に入っている時に現れた母は患部をよく観察して出て行った。 毛が生えてきたばかりで、見られるのは親でも恥ずかしかったが、 なすがままだった。 通信兵になるところが、これで14歳の子供に戻ってしまった。 翌日、母が買って来たのはインキンタムシの薬だった。 効能書きを読みながら自分ひとりでつけた。 サリチル酸とアルコールが主成分だ。その液体を患部に塗れと書いてある。 その通りにして「アチッチ」と叫んだ。火傷のような熱さと痛さだ。 ジンジンと沁みこんでくる。これだけ沁みたら黴菌も死ぬだろうと我慢した。 孤独な作業を毎日続けて、一ヶ月ぐらいで治った。大変なお土産だった。 ↑昭和19年当時の青島日本中学校教職員(青島日本中学校校史より) 私達中学二年の軍隊生活は二か月位だった。 目的だった通信兵としての技術は、私に関しては入る前と変わらなかった。 モールス符号は海洋少年団で既に習っていたからだ。 それ以上の実践的な技術は教えられないで終戦になってしまった。 それでも日本陸軍の内務班生活を体験したことは貴重だったと思う。 学徒班として特別扱いされていたのだから、本当の軍隊体験とは言えないが、 雰囲気は分かった。 上官の言うことは絶対服従で下の者は何も言えない。 それは中学校でも、先生と生徒、上級生と下級生の間で同じ関係だった。 日本全体がそうなっていたようだ。軍国主義のもたらした結果の一つだろう。 しかし、一般社会の「地方」や「娑婆」にいると、 まだ自分の自由になる時間があった。これが大きい。 もう一つ、日本軍の兵隊さんは全体として体が小さく感じられた。 私が大きかったせい(クラスで一、二番。 当時、身長160センチ台で体重60キロ近い)もあるが、それだけではない。 外地で育った子供は食糧事情がよくて、全体的にすくすく育ったような気がする。 班長の薄井伍長と高橋兵長は兵隊としては普通の体格だったが、 私たち14歳の学徒班の中に入っても、中ごろの身長だった。 いかにも農家の二、三男という感じの素朴な兵隊さんである。 日本の陸海軍は昭和12年に兵役法を改正し、 甲種合格の基準を身長1・55メートルから 1・50メートルに5センチ引き下げた。 採用人員を増やすためもあっただろうが、外地に比べて日本内地では、 子供にあまりいいものを食べさせられなくなったことが大きい気がする。 戦後60年の今、もし甲種合格という基準をつくるとすると、 身長は1・70メートル位ではないだろうか。 戦後60年で身長差20センチ、 食べ物の差とともに時代の差が改めて感じられる。
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第12章 部隊内で終戦 やがて8月15日、私達は終戦を部隊の中で迎えた。 その日の正午前、営庭に部隊長から将校、兵士全員が集合。 不動の姿勢で正面に置かれたラジオを聴いた。 天皇の声は雑音が激しく、途切れとぎれで全く聞き取れなかった。 訳が分からず帰って来た内務班で見習士官の隊長から、 「ボツダム宣言受諾、戦争は終わった」と聞かされた。 その瞬間ざわついたが、 最初に私が感じたのは“有難い、これで家に帰れる”だった。 負けた口惜しさとか、 天皇陛下はどうなるのだろうか・・・というようなことは、 ほとんど思い浮かばなかった。 見習士官は、 「これからは忍ばなければならないことが多い。 しかし君達少年が再び立ち上がって、輝かしい世界に誇れる日本にしてくれ」 と結んだ。 私達は緊張した顔はしていたが、内心ほっとしていた。 とに角この場所から出られるのである。 今までに受けた軍国主義教育では、神国日本に敗戦はあり得ず、 こんな事態になったら我われだけでも“米英撃滅”と奮起するか、 「天皇陛下に申し訳ない」とお詫びしなければならないはずである。 しかし、そんな気分には 私を含めて仲間の誰もがなっていないことは表情で分かった。 天皇陛下は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」 と今後の生き方を指示されたが、 私達はその言葉以前に 今のいやな生活から逃れられるという嬉しさが、体中に広がった。 もし、このまま戦争が続いて米軍が青島に上陸していたら、 私達は何の疑いもなく戦闘に参加しただろう。 それは自然の勢いでそうなって、 別に悲壮な覚悟もしないでそのまま突き進んでいったと思う。 なにしろ“自分の命は鳥の羽毛よりも軽い”と信じ込まされていたのである。 現在のイラクの自爆攻撃の少年と変わらない心理状態だった。 しかし、中学3年になったら戦死するのは当然 と思い込んでいた小学校からの軍国教育が、 日本が負けたということでいっぺんに吹き飛んでしまった。 もし太平洋戦争の歴史的意味や目的を自分の頭で本当に納得し信じていたら、 14歳の少年でも別な行動や考えがあったかもいれない。 天皇陛下の言葉によって信念を変える大義名分と機会を与えてもらった。 苦しい時には、周囲の状況が変わって、今現在よりも楽になると分かると、 人間はこんなに簡単に変われるものなのだ。 ↑青島中学第28回生(昭和18年入学)2年生の時。 筆者・武藤氏は第29回生。 終戦直後の日本人のこのような変化については、 納得のいかない年代もあるようだ。 最近、私は団塊の世代の友人からこんな質問を受けた。 「日本人は米軍に原爆を落とされ、 占領後、基地をつくられてもおとなしく従った。 そして今はイラク戦争にも協力しているし、 牛肉輸入でもアメリカの言いなりになろうとしている。おかしくないですか。 占領に抵抗しているイラク人の方が立派じゃないですか」 彼等は安保闘争や大学紛争を起こしたことで、 自分達にそういう質問をする資格があると考えているのかもしれない。 しかし、実際に軍国主義時代を生き、太平洋戦争を経験した者にとっては、 彼等が行ったと称する闘争などは子供の遊びのように見える。 警官側は、同じ日本人である彼等をなるだけ怪我をさせないように 保護しながら取締まっていた。 彼等が騒げること自体、アメリカに占領されたおかげでもあるが、 そのへんの認識は団塊以後の世代には難しいようだ。 ↑青島中学第26回生(昭和20年卒業)、2年生の時。 話は戻るが、8月15日の午後はいつものように部隊内で教練があり、 兵舎を出て市街を行進もした。いつものように軍歌を歌った。 我われを見る中国人の様子は昨日までと変わりはない。 終戦の大ニュースは一瞬のうちに街中に伝わっているはずだが、 やはりまだ日本軍は恐いのだろうか。 いつもと違ったのは我われの指揮官だった。 道を歩きながら見習士官が軍刀を構えた。 プラタナスの並木の一本に近づきざま、抜き打ちで「エイッ」と斬り上げた。 直径4、5センチの幹が見事に切れてストンと下に落ちた。 薄井伍長も並木に近づいていった。 見習士官の斬った木よりも細い木に狙いをつけた。 銃の先に着けるごぼう剣を抜いた。ピカピカに光っている。 よく砥いでいたようだ。 気合とともに斬りつけたが、コンと鈍い音がしてはね返された。 薄井伍長の間の悪い顔。 しかし笑う者はいなかった。 大人達がどうしようもない敗戦の無念さを、 ぶつけている気持ちが伝わって来たからだ。 ↑青島中学第24回生(昭和19年卒業)、5年生の時。 (写真はいずれも青島日本中学校校史 より) その夜は兵舎のわきの空地で、いつまでも火が燃えていた。 書類を焼却処分にしているのだ。 私たち学徒兵はいつ家に帰されるのか、なかなか発表されなかった。 忙しくてそれどころではなかったのだろ。 しかしいずれは帰れる。先はもう見えていたからあせりはなかった。 私たちは、ここで部隊が終戦を認めず、 抵抗して最後まで戦うかもしれない可能性も考えなくはなかったが、 隊内の空気から見て、まあ、それはないだろうと楽天的だった。 翌日、昼食の用意をしておかずもご飯も全部食卓に並べ終わった時、 全員集合のラッパが鳴った。 門から兵舎に続く道に全員が整列した。 やがて外から行進ラッパの音が聞こえてきた。 匪賊討伐に行っていた部隊が帰って来たのだ。 先頭に馬に乗った部隊長。その後に四列縦隊の兵士達。小型砲も続いた。 人も砲も埃にまみれ、ついさっきまで戦闘していたように見えた。 門を入ってくるとき、「歩調とれ」と号令が聞こえて、 膝を高く上げ、軍靴を響かせて来た。 終戦となって戦場からすぐ引き揚げてきたのだろう。 ちょうど24時間後である。 それくらいの近さの場所で戦っていたのかと思った。 私達は不動の姿勢で敬礼して迎えた。
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究極の勤労動員、陸軍通信兵(三) 7月に入って、午後は海に泳ぎに行くこともあった。 往復は軍歌を歌いながらの行軍である。 ある日、泳いだ後に相撲を取った。私は体が大きいし、運動神経もあるほうだ。 国民学校時代はクラスで一番強かったし、放課後、学校代表の選手として、 相撲の心得のある先生に習ったこともある。 要するに年の割りには強かった。 その私に高橋兵長が「俺とやろうか」と声を掛けてきた。 軽くもんでやろう程度の気持ちだっただろう。 「ハイッ」と私は取り組んで全力でぶつかった。なかなか勝負がつかない。 気が付くと兵長も真っ赤になって踏ん張っている。 はっと思った。 この分でいくと私が勝つかもしれない。 もし勝ったら、兵長の立場がなくなるのではないか。 その瞬間に脳裏をよぎったのは、 “級長をしている時に、 試験の点数が私よりもいい者がたくさんいて恥ずかしかった。 また生物教師の仮分数に突然ぶん殴られた。 大人には立場がある。弱い者はいたわらなければいけない。 子供が大人に勝ってはいけないんじゃないか・・・“ そんなことが一度に頭に浮かんで集中力がなくなり、 私はずるずると寄り切られてしまった。 片八百長のようなもので、周りは気づかなかったが相手の兵長は分かっただろう。 その後は私と相撲を取らなかった。 ↑金口一路の家から階段を下ると海だ 入隊してひと月経った頃の日曜日、初めて外出許可が出た。 朝9時に出て夕方5時までである。 短い時間だが天にも昇るような心地で家に飛んで帰った。 金口一路の家に入ると真っ先に愛犬のシロが飛びついてきた。 ひと月もたっているのに、私の足音を覚えていた。 くんくんと鼻を鳴らして、「僕をほっておいて、どこに行ってた」となじるようだ。 真っ白なテリアの子供で、家族の中では私がいちばん可愛がっていた。 食堂で母が出してくれたお菓子を食べながら、ゆっくりと話をした。 兄や妹がどうしたこうしたという取りとめのない話だが、 こんなに気分のいい時間は久しぶりだった。 一人になって自分の机に座り、 意味もなく引き出しを開けてがらくたにさわって懐かしがり、 応接間のソファーに寝転んで本を読んだ。 誰にも強制されず、やりたい時にやりたいことをする。 軍隊の内務班では絶対に出来ないことである。 そうしているだけでも自由時間の有難さが身にしみた。 あっという間に帰隊の時間になった。 ついて来たいと鳴くシロと別れ、 これからまた始まる命令づくめの生活を考えながら、重い足取りで部隊に帰った。 ↑魚山路を右に曲がると海水浴場、その先が競馬場、陸軍部隊があった。 私達の仲間で一人だけ落伍者が出た。N君という不良の落第生だった。 一つ年上だから体も大きく、学校では上着の首のボタンをはずし、 タバコを吸って黄色に染まった指をちらつかせて、 真面目な生徒には怖い雰囲気を発散していた。 こんな規則づくめの生活には誰よりも苦痛を感じているはずで、 やはりサボタージュを始めた。 私達同士で私語を交わす時間はほとんどなかったので、 彼の周辺で何が起こっていたかは分からなかった。 体の不調を訴えているようにも見えた。 そういえば中学校での落第の原因は、成績よりも病気欠席によることが多い。 N君も恐らくそうで、病気を最大限に利用しながら、 軍隊生活に抵抗していたようだった。 数日たって父親と中学の担任教師がやって来た。引き取りに来たのだ。 わずかな時間だったが彼と別れの挨拶をした。 私は国の役に立たない情けない奴と思う一方で、 よく一人で抵抗して意志を貫いたなと、羨ましく感じたのも事実である。 その気持ちを込めて小声で「頑張ったな、元気でな」と手を握った。 Nも黙ってうなずいた。 ↑金口一路の家から坂上を見る。 内務班では夜10時に寝てから、時々かすかな音が聞こえてきた。 革の鞭で叩くような音、その後の押し殺したような悲鳴。 どうも近くの部屋で古年兵による制裁が行われているようだった。 N君はその制裁は受けなかった。 それは私達学徒班全員もそうで、 きっと隊内で厳重禁止の命令が出されていたのだろう。 その点ではよく殴りたがる上級生や教師のいる中学よりも安全だった。
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