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究極の勤労動員、遂に陸軍通信兵(二) 学徒班の指揮上官として隊長の見習士官と、二人の下士官の班長が紹介された。 見習士官は大学からのいわゆる出陣学徒で、 名前は忘れたが優しそうな人だった。 班長は薄井伍長と高橋兵長である。 小柄だが精悍そう、おそらく部隊の下士官の中から優秀な者が選ばれたのだろう。 式が終わって、私達は中学の先生から陸軍部隊の班長の指揮下に入った。 そこで、これからの住み家となる内務班に連れて行かれた。 同じ造りの二階建ての長い兵舎が並んでいて、その一棟の二階に上がった。 北側の廊下を通って学校の広めの教室位の部屋に入る。 中央に頑丈な木の長机と椅子。 左右の壁に面して50センチぐらいの高さの床があって、 たたんだ毛布が並んでいる。一人分の幅が1メートル足らずの寝場所である。 南側は広いベランダで長いテーブルがあった。勉強や食事をするところである。 そこに座って軍隊生活の規則を教えられた。 「ここが内務班でお前達が生活する部屋である。 起床午前6時、消灯午後10時、食事は交代で飯上げ当番が運ぶ。 軍隊ではどこでも部屋に出入りする時は、 入り口で皆に分かるように名前と目的を大声で申告する。 飯上げで炊事室に行くときは、学徒班誰だれ、飯上げに行って参ります、 というようにだ」 こうして軍隊生活が始まった。 ↑旧ドイツ、イルチス兵営、のち日本陸軍兵営(現在中国海軍施設) 午前中は内務班でモールス信号の勉強である。 モールス信号とは電信で文字を送るときの記号で、 長さの違うトンツーの信号音(書くときは点と線で表す)の 五個以内の組み合わせで五十音字や数字も全部表す。 たとえば「い」はトンツーで、覚えるときは似たような言葉「伊藤」と発声する。 「ろ」はトンツートンツーで「路上歩行」。 「は」はツートントントンで「ハーモニカ」。 これを怒鳴るような大声で「い」からお終いの「ん」まで 何十回も繰り返して覚える。 大変なようだが、実は私はこのモールス信号は以前から完全に覚えていた。 小学校時代、海洋少年団に入っていたので、 海軍の基地で手旗信号と共に習っていたのだ。 テストがあった時には50問中49問正解で成績優秀として表彰され、 銀バッジを貰った。 間違えた一問は今でも覚えているが、受信でツーツートンツーが分からなかった。 それは「ね」(寧猛だろう)だった。 それ位よく覚えていたので、通信隊での暗誦教育は楽だった。 というよりも私には必要なかったのだが、 海洋少年団に入っていた者は入隊者の半分ぐらいだったから、 全員が一から始めたのである。 海洋少年団の経験者だけを選んで入隊させれば手数が省けたと思うのだが、 学校で我われ生徒を陸軍組、海軍組、工場組に分けたときには、 そういう配慮はなかった。効率を無視したいい加減な基準だった。 午後は外に出て、営庭で行進とか匍匐(ほふく)前進等の教練である。 そうして最初の三日間が過ぎた。 三日目の夜、内務班で高橋伍長が改まって恐い顔をしている。 「お前達、軍隊の飯を食って、今日で何日になる。動作がぐずぐずたるんどる。 陸軍軍人は地方人とは違う。これからビシビシやるぞ」 と怒鳴った。 地方とは陸軍内部で一般社会を指す言葉で、 海軍では娑婆(しゃば)と言っていた。 これを三日目にやるというのは、後で分かったのだが、 陸軍で新兵教育をする際の伝統らしかった。 だから私達も子供ではなく新兵扱いされていたわけで、 本気で兵隊にしようと計画していたようだった。 しかし午前中はモールスの暗誦、午後からは外で教練という日課が続いて、 なかなか通信機を組み立てたり運んだり、 相手と発信、受信するような実技には入らない。 こちらはそれでも構わないが、 もうすぐ米軍が上陸してきて実戦で役に立たせるのに間に合うのだろうか、 とも思った。 夕食後には営庭のアカシア林の下で軍歌演習をした。 一節ずつ班長が先に歌い、その後、私達が歌う。 つまり同じところを二回歌って先に進んでいく。 「北支派遣軍の歌」「空の神兵」「ラバウル航空隊」等、声の限り歌う。 ストレス発散になった。士気高揚の狙いもあったのだろう。 兵営での生活にも少しずつ慣れてきた。 昼食後の空いた時間に洗濯をする。 流しで水を出す蛇口も、洗濯物を干す位置も決められていた。 驚いたことにトイレも将校用と兵隊用に分けられていた。 初めは知らなかったので、平気で将校用に入っていた。 怒られなかったのは、誰にも見つからなかったか、 昼間は子供と分かって見逃していたのかもしれない。 ところが夜、薄暗い電灯の中で用を済ませて出てくると、 兵隊からぱっと敬礼された。 内務班に帰って皆に話すと同じ経験者がいて、 将校と間違えられたからだという理由が分かった。
(つづく) |
武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
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第11章 究極の勤労動員、遂に陸軍通信兵 5月7日、ドイツ軍が無条件降伏した。イタリアはずっと前に降伏している。 友達と「日本はたった一人で世界を相手に戦っているんだな」と話し合った。 理由はないが、それでも負けるとは思わない。 国民学校からずっと叩き込まれてきた「必勝の信念」は未だゆるいでいなかった。 家の使用人のボーイやアマや市場の商人など周りの中国人には、 日本の敗戦はもう分かっていただろうが、 私たち在留邦人に対する態度に変化はなかった。 父は領事館に勤めているので知っていたと思うが、 戦況についての話は子供の前では一切しなかった。 たまに警戒警報が鳴り、教室から避難することもあった。 青島港に米軍機が来て小型爆弾を落としていったことがあるが、 損害軽微で市民生活に目に見える変化はなかった。 私は相変わらず釣りを楽しんでいた。しかし偸安の夢も遂に破られる日が来た。 ↑青島中学校の軍事教練 6月に入ったある日、2年生全員が講堂に集められた。 「戦局が緊迫してきた折から、2年生全員は今後授業を止め、 陸海軍、工場に動員される」 というような訓示があり、陸軍組、海軍組、工場組に分けられた。 どういう基準で分けられたのかは私達には説明はなかった。 当然、先生達が相談してそうしたのだろうが、 当時は上が決めたことについて理由を聞くような質問は考えられなかった。 私は陸軍組に入れられた。一番貧乏くじだった。 完全に部隊の中に入って、兵隊と一緒に生活し、訓練を受けるのである。 海軍組もそうだが海軍は陸軍よりもスマートで、それほど厳しくないことを、 海洋少年団(国民学校5、6年)や 海洋学徒隊(中学1、2年)時代の経験で知っていた。 工場組はたとえどんな重労働だとしても、夜は家に帰れる。 朝までの時間は自由である。 私はその自由時間を奪われることが何よりもいやだった。 しかし私達は拒否することは出来ない。 このまま陸軍に入るとなると、まるで赤紙、召集令状と同じである。 海軍の予科練に入って飛行機に乗り、空中戦で戦死する、 という私たちの目標も無視された。 どうして中学生までこんなことになってしまったのか。 実は3月23日の閣議で「国民義勇軍」を組織することを決めていた。 閣議で決まったことは国民の権利を侵害することでも、 国会に諮らずに実施出来る。国家総動員法でそうなってしまったのだ。 閣議決定は、 「兵農一本、国民皆兵の本義に基づき、 一億総武装をもって神州を富嶽の安きにおき、 皇国防衛の責務をまっとうすべき時である。 この危急の戦局を打開するものは、ただ数千年来伝統の一億の底力のみであり、 全国民一丸の火の玉となって、敵に体当たりを敢行するのほかはないのである」 要するに国民は全員、敵に体当たりして死ねということだ。 そうして私達が講堂で組分けされている頃、 大本営陸軍部から 『国民築城必携』『国民抗戦必携』という小冊子が国民に配布されていた。 国民義勇隊がどうやって敵をやっつけるかということを、 具体的に示した本であるということだった。それは、 「敵が上陸して来たならば、そこの住民は率先して軍作戦に協力すると同時に、 軍の指導あるまではいっさい避難せず、 軍交付の兵器または竹槍その他鍬、鳶口等あらかじめ準備せる武器を執って 郷土要塞に立てこもり、国民も徹底的に抗戦するよう教えており、 また遊撃戦法、敵の銃爆撃、砲撃に対する処置法等を詳細に記して その注意を喚起したものである」(6月10日、毎日新聞) 6月某日、私たち2年生約40名は先生に引率されて陸軍部隊の門をくぐった。 部隊は青島市東側の郊外の競馬場の先にあった。 ↑競馬場全景 入隊式で部隊の正式名称を教えられた。 かなり長くて全部は覚えていないが初めに、 「北支派遣軍独立混成第五旅団」とあって、その後に続く部隊名は忘れたが、 最後は「鈴木通信隊」だった。 私達は学徒班と呼ばれ、通信兵としての教育訓練を受けることになった。 本当に戦闘になったら、それがどういうことを意味するのか、 本人の私達はあまり深刻には考えなかった。 「教えられたこと、命じられたことをやればいいんだ」 という他には何も思いつかない。 しかし新聞を読んでいた先生たちには分かっていたはずである。 沖縄で同じような通信兵が戦闘に加わった実例があった。 6月14日の毎日新聞に 「沖縄本島 十五歳以上の男女すべて戦闘に参加、全県民に防衛召集」 という見出しで、その中の中学生に関する記事では、 「また男子中等学校生の一部は通信兵としての教育を受け、 他の生徒全部は鉄血勤皇隊なるものを編成し(中略)。 かくて敵がいよいよ上陸を開始するや(中略) 先に通信を教育された中学生達は 有線通信、伝令勤務、砲煙弾雨の中を敢然として陣地を死守し、 可憐の乙女といえども持ち場を、死の瞬間まで一歩も退くものはいなかった」 とある。 中学生を通信兵として使うということは、 内地、外地を問わず国土防衛作戦の中の一つとして組み込まれていたようだ。 もし米軍が青島に上陸していたら、 私達は沖縄の中学生と同じ運命をたどっていたことになる。 しかし当時の青島の周辺は余りに平穏で、 私達は戦闘や死の切迫感を全く感じていなかった。
(この項つづく) |
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三八式歩兵銃の疑問(二) この時は夢中で聞き流してしまったが、 「僕の使っているのと同じだよ」という言葉が後になって引っ掛かった。 三八式歩兵銃というのは字の通り明治三十八年につくられた銃である。 当時はそれから40年も経っている。 中学校の教練にも使われているような古い銃である。 弾は5発入るようになっていて、一発ずつ撃つ。 そんなに古いものを実戦で兵隊さんが使っていいのだろうか。 兵器というものは年々新しく改良されて性能がよくなっている、 と思うのが常識だろう。 ずっと疑問に思っていたことを最近になって、防衛庁の戦史室で調べることにした。 「日露戦争で出来たような古い兵器の三八式銃を、 どうして太平洋戦争まで使っていたのですか、その経緯を知りたい」 と申し込むと、 「そういう経緯はこちらにはもう残っていませんが、 市販されている軍事関係の本に詳しく載っています。 でも三八式は当時、国際的に見て古くはないんですよ。 第二次大戦ではドイツやロシアでも、もっと古い銃を使っていました。 アメリカだけは特別なんです」 その特別なアメリカが日本の主な敵だったのだから、 もっと新兵器を開発しなければならなかったはずだ。 教えられた光人社の『小銃・拳銃・機関銃入門』『日露戦争の兵器』 『日本陸軍の傑作兵器、駄作兵器』(著者は3冊とも佐山二郎氏)を読んだ。 面白いことが分かった。 三八式銃は明治三十年に出来た三〇年式の改良型で、構造は変わらない。 防塵用に遊底覆いをつけ、照準器を扇転式にした程度である。 弾丸の口径は6・5ミリだが、これは7・6ミリのロシアの銃にくらべて小さい、 破壊力が弱い、それで「不殺銃」と呼ばれた。 日露戦争で日本の軍医が、捕虜になったロシア兵2千人以上を調べたところ、 銃弾の傷跡のある者が多かった。 中には12、3発も撃たれた者がいる。 それでも死なないで傷口も早く治っている。 三〇年式銃はあまりに人道的過ぎるのではないか、といわれた。 しかし、小銃の目的は敵を惨殺するものではなく戦闘力を奪えばいいのであり、 また口径が小さいと弾も小さいので軽いから、たくさん携行出来る。 兵は戦場で身を守るのは弾丸しかないので、 持つ弾は多ければ多いほど心強く思う傾向がある、というようなこともあって、 他にも理由はあったが、三八式でも口径6・5ミリが続けられた。 現代の兵器が敵兵どころか民間人までも 出来るだけ多数を殺すのが目的とされているのに比べて、 こういう話があるだけでも昔の日本軍隊は人道的で情けがあったように思われる。 ↑青島の街紹介=八大関の建物。 それにしても40年後の太平洋戦争にも何故この小銃が使われたのか。 アメリカ以外の国もそうだとすると、 軍隊というところは、あまり使用兵器を替えたくないのか。 アメリカの第二次大戦の映画では、 腰に構えた自動小銃で機関銃のように撃ちまくるシーンがよく出てくる。 三八式で一発ずつ撃っていたのではとてもかなわないと思う。 日本で自動小銃は何故つくられなかったのか。 実は創ろうとしていたのである。 欧米で試作されていた自動小銃を参考に昭和7年から13年にかけて開発し、 ほぼ完成しかけていたという。 しかし故障が多く完成の域に達するまでにはまだ時間がかかりそうだった。 それでも昭和12年末の戦闘実験を最後に、 あとは陸軍の判定試験を待つという段階に達していたところに、 13年、国家総動員法が施行された。 国家の非常時に際し、国防上必要なことは一切政府に任せる、 簡単に言えば、戦争のために国民の権利、自由を無限に剥奪する法律である。 支那事変もいよいよ拡大する方向になり、武器もさらに大量に必要になった。 陸軍は自動小銃が完成するのを待っておられなくなり、 既存の三八式銃を緊急増産することにした。 中国軍相手なら、これで間に合うという判断があったのかもしれない。 自動小銃の開発は以後中止となった。 ↑八大関の建物 三八式銃は青島とも関係がある。 大正3年、第一次大戦で日本は連合国の要請を受け、 ドイツの租借地である山東省青島を攻略した。 この時、三八式銃が歩兵の主力武器として活躍した。 そういう勝利の経験も影響していたのかもしれない。 教練の授業は校庭だけでなく教室でも行われた。 ある時、教官がこんな質問をした。 「戦闘中に突撃命令が下った。 そのとたん、隣にいた戦友が敵弾に当たって倒れた。 どうしたらいいか」 分かるものは手を挙げて答えるというような形式ではなく、 教官が教室内を睨み回し、誰彼なく指名する。 私はハテ?と考えていたところ運悪く指名された者が答えた。 「はい、至急、止血などの手当てをして、突撃に参加します」 なるほど、軍歌の「戦友」の一節にあった。 (隣におったこの友が、俄かにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄って 軍律厳しき中なれど これが見捨てておかりょうか 確りせよと抱き起こし 仮包帯も弾丸の中) 「違う。突撃命令は陛下の命令である。 何をおいても直ちに従わねばならない。 一斉に突撃せよとの命令に、ばらばらに出たらどうなるか。 その効果を減じ、時機を逸して勝てる戦も勝てなくなる。 “大義親を滅す”である。 たとえ親兄弟でも、親友であっても、ほっておいて突撃する。分かったか」 こうして青島中学二年生は、 銃の扱い方だけでなく軍人精神まで叩き込まれた。
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第10章 三八式歩兵銃の疑問 昭和20年4月、私は中学2年になった。 勤労動員はあったが、初めのうちは授業のある日数のほうが多かった。 しかし沖縄本島に米軍が上陸し、戦局はいよいよ不利になってきている。 3月10日には東京大空襲があった。 翌日の朝日新聞には大本営発表として 「B29百三十機、東京市街地を大爆撃」との見出しで、 被害はほとんど報じていないが、小磯首相の談話で 「今早暁の帝都空襲はまったく暴戻極まる盲爆で、 またしても宮城内さえも汚し奉ったことは誠に恐懽の至りである。 私は罹災者各位と辛苦を共に致したい気持ちから焼け跡を一巡したのであるが、 満目荒寥たる中に立って、何ともいえぬ痛憤がこみ上げてくるのを禁じえなかった。 今暁の空襲は盲爆というよりは、市街爆撃であり、無差別爆撃であり、 たとい戦争下においても断じて許されるべきものではない。(中略) この残虐暴戻の輩を思い知らせるの途はただ戦いに勝つこと、それのみである」 そうして4月21日には阿南陸相が「皇土決戦訓」を布告したことが報じられた。 (朝日新聞) 「敵は硫黄島の占領に引き続き沖縄島攻略の野望を示し、 同島に於ける戦闘は日を追って激化しつつある。 敵軍を皇土に邀え、今こそ仇敵撃滅の神機ともいうべきである。 陸軍では皇土決戦の重要性とその性質に鑑み、この程“決戦訓”を全軍に布告し、 皇土決戦に即する具体的手段を明らかにするとともに、国家の総力を本決戦に結集し、 皇国護持の大任完遂に勇往邁進すべきことを強調した。 すなわち決戦訓は、 一、聖論の遵守 二、皇土の死守 三、待つあるを恃む(注:たのむ 備えて 待っている者は必ず勝つ) 四、体当たり精神の徹底 五、一億戦友の先駆 の五訓からなっており、皇土決戦に際し皇軍将兵は右五訓をかく守し、 速やかに仇敵を撃滅して宸襟を安んじ奉るべきことを論じている。(後略)」 以下の記事は五訓の説明となっていたが、 前文にあった“決戦への具体的手段”というものは見当たらなかった。 結局、この頃には敵の攻撃に対応する武器は、 もう抽象的な勇ましい言葉だけしかなくなっていたのだ。 そういうことは中学生の私達には分からなかった。 ↑金口一路の建物 家庭での生活は以前通りで、私は学校から帰ると相変わらず釣りに行っていた。 しかし授業の内容は急速に軍事的になってきた。 先生の都合で休講になると、よく作業の時間に変わった。 マンモスというあだ名の体の大きな先生が担当する。 草取りや畠を耕すのなら楽だったが、マラソンが多くなった。 さらに校庭の隅にある絶壁をよじ登らせたり、 4メートルぐらいありそうな高いところから飛び降りさせる。 ヘタしたら骨折の危険があるようなことを、平気でやった。 ↑金口一路の建物 教練の時間には銃を渡された。三八式歩兵銃である。 それを校庭で分解し、組み立てる。 「この銃は天皇陛下から頂いたものである。細心の注意で扱わなければならない。 もし万一、部品の一つでも無くしたら絶対許さない。 全員が校庭を這い回って、見つかるまで探させる」 教官の厳かな訓示を聞いて分解を始めた。 分解は比較的簡単だったが、組み立てる段になっておかしくなった。 全部品がうまく収まらない。 あまった部品が出て無理に入れると壊れるかもしれない。 部品を無くしたら校庭中を這い回される。壊したらどうなるか。 私は周囲を見回していい方法を思いついた。 この頃には、中学校の校舎に、よく陸軍の部隊が宿泊していた。 講堂や集会所が広いので、多人数でも全員が泊まれる。 青島を経由して奥地に向かう部隊が利用していたのである。 骨休みなのだろう、用事はあまりなさそうで、 あちこちで日向ぼっこしたり、散歩している。 教官のスキを見て私は日向ぼっこの兵隊さんのところに走った。 「これ収まらなくなっちゃったんです。直してくれませんか」 「ほう三八式か。僕の使っているのと同じだよ」 といって簡単に直してくれた。 おかげで無事に教練の時間を終えることが出来た。 (この項つづく)
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第9章 勤労動員で苦力(クーリー)を監視 夏休み中の昭和19年7月25日の朝日新聞にこんな記事が載った。 「学徒動員ぐっと強化 中学3年以上は男女とも深夜業をやらせる 生産、生産、あくまで生産一本で勝ち抜け。 戦況の緊迫に即応して学徒勤労動員が徹底的に強化されることになり、 24日文部省から発表された。すなわち、 1、国民学校高等科児童、中等学校低学年生徒の動員 2、一週6時間の教育、訓練時間撤廃 3、一日10時間勤務の励行 4、男女とも中等学校3年生以上の深夜就業とその準備期間の短縮が 実施されることになったのだ。(後略)」 日本内地ではこれまでも中学生の勤労動員は行われていたが、 それが驚くほど強化された。 国民学校高等科や中学の低学年(1、2年)というと、13、4歳である。 それを働かせ、しかも週6時間は勉強させるという歯止めもなくしてしまった。 その上、一日10時間労働、 さらに中学3年以上つまり15、6歳の子供に 深夜勤務をさせるという“徹底的強化”を政府が決めたのだ。 これは“根こそぎ動員”とも言われた。 外地でも勤労動員は私達が中学校に入学する頃には既に行われていた。 最初の間は工作の時間に軍事物資輸送用の木箱 (現在の段ボール箱ほどの大きさ)を作る程度で楽なものだった。 やがて学校を出て埠頭や鉄道の構内で、 物資や鉄屑を貨車に積み込むような作業もした。 貨車に轢かれて脚を大怪我した上級生がいるという噂を聞いた。 正式発表はなかったが兄の同級生で事実だった。 ↑青島の街紹介、金口一路の建物 印象に残っている作業ではトラックに乗っての軍需物資の輸送があった。 早朝に私のクラス40人ぐらいが、市内のある倉庫に集合した。 そこにはトラックが数十台、荷を積んで並んでいた。 クーリー(苦力・中国人の日雇い労働者)も3、4人ずつ乗っている。 責任者らしい日本の兵隊が来て訓示した。 「これらの物資をある山中まで運ぶ。 途中、支那人(中国人の当時の呼び方)の街や村を通るが、 そういう時にクーリー達が車から物資を落として彼らに渡さないように、 お前たちが監視するのだ。 一台のトラックに一人ずつ分乗し、物資とクーリーから絶対に目を離すな」 この頃、サイパン島をはじめマリアナ群島を占領した米軍が、 次にどこに上陸するかが、日本にとって重要な防衛問題となっていた。 青島も上陸される候補地の一つと考えられて要塞を築こうとしていた。 行き先と、何を運ぶのかは知らされなかったが、そのための物資輸送だったらしい。 この時の私達は13、4歳の子供である。 常識的には非常に危ない仕事だが、 当時の大人も子供も、その程度のことをするのは当然と思っていた。 出発時刻が来て、数十台のトラックが土煙を上げて走り出した。 私は前方の運転席の屋根に背中をもたれて、クーリーと物資と見つめ、 時々、前後を走るトラックとの間隔に注意した。 もしも取り残されて私の車一台だけになったら心細いからだ。 それ以外は、初めての経験なので退屈はしなかった。 ↑金口一路の建物 私の車にクーリーは3人乗っていた。 話をしながら時々こちらを見て不敵に笑っている(ように見えた)。 怪しい奴はいないだろうか。 軍需物資を運ぶのだから、身元は調べてあるだろう。 しかし巧妙にスパイが潜りこんでいるかも知れない。 彼等が互いに話している言葉は分からないが、 外国人のしかも子供に監視されているなど嫌にきまっている。 本気になればお前なんか簡単に放り出してやるぞ、と考えているかもしれない。 することがないから、いろいろな妄想が涌いてくる。 全車両でクーリーたちが示し合わせて、 分かれ道で別々に走り出したらどうなるか。 武装した日本兵は全部で10人ぐらいしか乗り込んでいなかった。 何台かに一人だ。それで足りるだろうか。 もし襲われそうになったら、 先に自分が怪我しないように飛び降りて逃げるしかない。 それにしても此処はどこだろう。 家まで歩いたら何時間かかるだろうか・・・・。 2時間ぐらい走って山道にさしかかった。人家はほとんどない。 いつの間にか道路の横に水が流れていた。 幅は1、2メートルと狭いが、岩の間を流れて底まで透き通っている。 小休止になってトラックが止まると、クーリーたちがその水を飲んでいる。 「あ、飲めるんだ」と私も飲み始めた。 こんなきれいな水が湧くところは中国には滅多にない。 後で分かったことだが青島ビールの原料となっている労山の水だった。 飲料水も要塞をつくる一つの条件だったのだろう。 ↑金口一路の建物 しばらく走ってトラック部隊は目的地に着いた。 山の中の小さな村だった。段々畑に野菜が青々としている。 クラス全員が集合、人員点呼して人数を確かめ昼食となった。 段々畑の石垣や、狭い草原に座って弁当を開いた。 我われの弁当箱の中身は、 麦の少し混じった白いゴハンにおかずはたいてい肉か魚である。 すこし離れてクーリー達の昼食も見えた。 くるんだ布から取り出した中身は堅いパンのようなものだった。 それは食べ物屋で売っているのを見たことがあるが、 厚さ4センチ、直径30センチ位で、 トウモロコシや高粱の粉に小麦粉をまぜて練って焼いたものだ。 それを注文に応じて切って売る。 インド料理のナンに似ているがそれよりも厚くて堅く、ぱさぱさしている。 それをザーサイのような塩辛い漬物と一緒に水を飲みながら食べていた。 そのナンのようなものは子供の目にはあまり美味しそうではなかったので、 我われの買い食いの対象にはならなかった。 日本人が家庭で食べていた小麦粉だけのマントウは贅沢品で、 彼等は誰も食べていなかった。 ↑金口一路の建物 弁当を食べ終わった私は時間がありそうなので、 集合地が見える範囲で村の探検に出かけた。 所々に民家があったが、ほとんど人は見かけなかった。 段々畑の中のちょっとした平地に牛が木に繋がれていた。 ゆったりと寝そべっておとなしそうだ。 青草を千切ってきて口に持っていくとうまそうに食べる。 “よし、それなら”と調子に乗った。 これまでに動物の背中に乗ったのは、公園でロバにまたがったくらいだ。 それも、手綱を持った係員がいた。 今、目の前に長々と大きな牛の背中がある。 しかも地べたに寝ているので、またげば乗れるのである。 飼い主に見つかって怒られたら、その時はその時だ。 誘惑に負けてそっとまたがった。 とたんにガンと頭をぶつけ、痛みが顎までひびいた。 気がついたら地面に投げ出されていた。 牛が猛烈な勢いで立ち上がり、 私の頭が地上に平行に伸びていた木の太い枝にぶつけられたのだ。 大きなタンコブが出来た。誰も見ていなかったが、猛烈に痛かった。 牛がノロマだと思っていたのは大違いだった。 馬よりももっと動作が敏捷だ。 それは戦後、アメリカ映画の西部劇を見て分かった。 ロデオ大会で荒馬を乗りこなすよりも、暴れ牛を乗りこなす方が難しいようで、 ルールで乗っていなければならない時間は、牛のほうが短くていいことになっていた。 帰りはクラス全員が同じトラックに乗った。 しかしこれだけ珍しい経験だったのに、誰とどんなことを話し合ったか覚えていない。 やはり中学では国民学校時代のような親友がいなかったからではないだろうか。 ↑金口一路の建物 青島の奥地の山に要塞を造る、 というような当時の軍部の戦況判断に基づく作戦があったため、 後に大きな悲劇が起こった。 私はタンコブをつくった程度ですんだが、 青島に住む一部の日本人がその間違った判断のために、 財産から生命まで失ったのである。 昭和20年5月、 海岸に面した青島には米軍が上陸するかもしれないということで、 家に主柱になる男手のない留守家族や婦女子たちは 内陸の済南市などに疎開することになった。 その三ヵ月後に終戦である。 皮肉なことに日本に引き揚げる基地は、出てきたばかりの港のある青島だった。 8月15日終戦、その直後から中国の国民党と共産党の内戦が激しくなった。 青島と済南を結ぶ鉄道・膠済線もすぐ爆破された。 済南から青島まで400キロある。 敗戦の国民にはトラックなどもほとんど調達出来なかった。 それでも着いたばかりの疎開者達は、すぐ引き返さなければならない。 老人と女も子供も歩くしか方法はなかった。 済南の元からの在留邦人も含めて、途中ずっと略奪に遭い、 死者を出しながら、難民となって青島にたどり着いたのである。 こういう悲劇は大陸のいたる所であったが、ほとんど知られていない。
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