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ミニ軍隊の中学校(二) 勉強の代わりに釣りに熱中した。 湖北路から金口一路の家に引っ越して、海がうんと近くなったのだ。 前にも金口一路に住んだことがあるが、今度の家はもっと近かった。 ↑金口一路37号の家 ↑金口一路の家には5世帯が住んでいた ↑妹さんが訪問した時。門の前 ↑妹さんが訪問した時の家の内部 家の前の階段が途中に幾つかある坂道を下って、 大通りを横切るともう海岸である。 水族館と産業館があって、海浜公園(現・魯迅公園)と呼ばれている。 走れば3分とかからない。 泳ぐときは家から水着で走った。当時はフンドシである。 学校から帰ると毎日、釣りに行く。 三ヶ月もやっていると、すっかり魚の釣れる場所が分かってきた。 潮の満ち引きによって釣れる場所が刻々移動する。 干潮の時には100メートル近くの沖まで、海面下だった岩が現れる。 先ずその突先きに行って、潮の満ちて来るのとともに、 岸へ岸へと釣り場を移動するのである。 ↑99年訪問時の岩場。 アイナメやメバルなどの地付きの魚は年中いた。 岩と岩の間の藻の茂みに潜んでいる。 縄張りがあるようで、一つの茂みでは1、2匹しか釣れなかった。 釣ったらすぐ別の場所に移動するのがコツだ。 どこに魚がいるか、藻と岩の具合、つまり海の相を見て判断出来た。 その海岸では、ちょっとした漁師の域に達していたと思う。 回遊魚では黒鯛が、 これも潮が満ちて来るとともに一定のコースを通って群れをなして泳いで来る。 その場所場所で待ち構えていたら、向こうからやってきて釣れるのである。 ただ回遊魚は季節によって大きさが変わり、コースも変更されるので、 地付きの魚のようにいつも釣れるというわけではなかった。 餌は干潮のときの潮だまりに小さなエビが泳いでいるのを掬っておく。 これは父親と一緒に行った時に、「いちばんいい餌だ」と教えられた。 他にも岩場の間の狭い砂地を掘ると、生きのいいゴカイがいた。 つまり餌代はタダ。それで誰よりも早く、たくさん釣れた。 釣り場の岩の位置と形は今でも覚えている。 先年、五十五年ぶりに青島に行った時に釣ったら、 ちゃんと同じ場所に、同じ魚が待っていてくれた。 ↑99年訪問時、同じ場所で釣ってみた。 ↑その日釣れた魚。昔はもっと釣れたものだが。 戦時中ではあったが、学校から帰ると楽しい毎日だった。 ところが一年の二学期になってとんでもないことが起きた。 始業式の日に級長と副級長が改めて指名された。 一学期は中学独自の資料はないので、仮のものだったのだろう。 そこで、なんと私が一年二組の副級長になってしまったのだ。 成績はどうみても「上の下」にもならない。せいせい「中の上」である。 何故そんな私が指名されたのか。 理由は分からないが、私は体大きくて体力はある。 水泳と相撲は国民学校ではトップだった。 戦時中だからそういうことが加味されたのかもしれない。 さらに運が悪いことに、級長が父親の転勤ですぐいなくなってしまった。 外地の学校ではよくあることだ。それで私が級長に繰り上がった。 毎日の朝礼では整列したクラスの一番前に立つ。 授業の度に起立、礼、着席の号令、 教練の時間もクラス全員を並ばせ、「番号」と号令をかけ、行進では先頭を歩く。 それくらいならまだいい。問題は試験の後、答案用紙が返されるときである。 級長の私が5、60点なのに、80点以上の者がぞろぞろいる。 級長の立場なかった。恥ずかしかった。 それでも釣りは止めなかったが、勉強するようになった。 一年生の夏休み前の昭和19年7月19日、サイパン島の玉砕が発表された。 続いて東條内閣総辞職。 この中学最後の夏休み(2年の時は動員で休みはなし)に、 とんでもない宿題が出された。 教練の宿題で、「軍人勅諭」の一部を生徒だけでなく、 その父親にまで書かせるのである。 「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」で始まるかなり長文の一節を、 筆で書けというのだ。速い人でも一時間はかかるだろう。 当時の中学校には陸軍の配属将校がいた。 彼は生徒と共にその親までも「軍人精神」を叩き込もうとしたのだ。 父に頼むと「そうか」と一言だけで書いてくれた。 忙しい大人にとっては大迷惑で、仕事の妨げになる。 しかし表立って反対したら面倒なことになる。 もう軍人に対しては、 おかしなことであっても文句は言えない雰囲気になっていた。 ↑99年訪問時の忠の海(第一海水浴場) |
武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
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第8章 ミニ軍隊の中学校 ↑旧青島日本中学校(現・海洋大学) 昭和19年4月、中学に入った。 中学ではあまり友達が出来なかった。 国民学校時代からの親友はいたが、そういう友達ともあまり遊ばなくなった。 終戦の8月15日以後も少し通学したので、1年半ぐらい在校したのに。 青島中学校生徒の服装は国防色といわれたカーキ色の制服に戦闘帽、 膝から下にはゲートルを巻く。 襟には学年を示す襟章。まるで子供の兵隊だった。 カバンはランドセルではなくて肩から掛ける。 4、5年生になると格好をつけて肩から片側に長くたらしてもいいが、 下級生はきちんと短くタスキ掛けにしなければならない。 校外では上級生に会うと必ず挙手の礼。 中学には軍隊のような階級制度が至るところに蔓延していた。 1年生はさしずめ新兵、上級生は古参兵だった。 昼休みは部活動で、自由時間ではなくなった。 国民学校時代のように、クラスで分かれてサッカーで遊ぶことなど、 もう夢となってしまった。 やっぱり一緒に遊ばないと友情は生まれないのかもしれない。 ↑生物教室の左側に1年1組から4組までの教室があった。 (99年訪問の青島中学・現海洋大学) 校内では上級生の命令が絶対で下級生は何の意見も言えなかった。 私はラッパ部にいたが、 たまたま上級生が使っていたラッパを吹いたことがばれて殴られた。 その4年生は真面目で、殴ることにあまり慣れてないようだった。 私に説教して殴っているうちに興奮して赤くなり、汗をかいていた。 原田先生に鍛えられた私の方が、殴られながら冷静に観察することが出来た。 上級生による制裁は認められてはいなかったが半ば公認のようで、 校内には先生に訴えても無駄という雰囲気があった。 生徒を殴り放題の先生もいた。 ある日、休憩時間に廊下で友達と立ち話している横を英語の先生が通った。 頭を下げて礼をして、 通り過ぎてから友達が小さな声で「ドンビャー」(どん百姓)とささやいた。 その先生のあだ名である。 運悪く驚くほど耳が良かった。正に地獄耳。 「今、何て言った。ちょっと来い」と友達は職員室に連れて行かれた。 一時間の授業が終わってやっと次の休憩時間に帰ってきた友人の顔は、 腫れ上がって変形していた。 平手だけではなくて、拳でやられたのだ。 「酷いことをするなあ」 「うん、ドンビャーよりも、スッポンにやられた」 「ちぇっ、上のヤツにはおべっかを使いやがって」 スッポンとは担任のあだ名で、ドンビャーは教頭の次ぐらいで席次は上だった。 いつもスッポンのように首を突き出して、 周りを見回しているその担任が嫌いになった。 生徒はいくら殴られても抗議は出来ないから、心の中で軽蔑するだけだった。 殴る先生は一部だったが、指導というよりも、 絶対に無抵抗の生徒に権力を見せつけてやろうと機会を狙っている感じで、 原田先生のビンタとは大違いだった。 私が殴られたのは生物の「仮分数」(かぶんすう)というあだ名のおでこの先生である。 「何か分からん植物があったら、持ってきて見せなさい」 と言われて正直に、家の庭の隅に生えていた珍しい形の草を持って行った。 先生は判らなかった。 ひと月ぐらい置いてまた別の草を持って行ったが、それも判らなかった。 先生は持ち帰って図鑑で調べようともせず突っ返した。 暫くして生物の時間が野外での草取りの作業になって、終了の鐘が鳴った。 ぞろぞろと集まって整列しようとしているちょっとした時間に、 私はごく小さな石を拾って何の気なしに近くの電柱に投げた。 それを仮分数が見ていた。 「お前、何してるんだ。そんなことして何になる」 血相を変えて飛んできて私を殴りつけた。 頬を二発、三発。 呆気に取られたのは私だけではなかった。 見ているクラスの友人たちも、何故そんなにひどく殴るのか理由が分からなかった。 しかし生徒は先生に抵抗できない。 「まぁ我慢しろよ。あいつはお天気屋なんだから」 解散してから友人に慰められたが、私には思い当たることがあった。 先生の知らない草を持って行ったことである。 恥をかかされたと腹を立てていたところに 私の“悪事”を見つけて復讐したのだろう。 ↑一階右側が生物教室。その外で仮分数に殴られた。 (99年訪問の青島中学・現海洋大学) 勉強の意欲が全くなくなった。 仮分数のせいだけではない。 原田先生の影響下から脱したことが大きかった。 成績は悪くなった。特に英語がひどかった。 “どうせ、あと3年経ったら死ぬのが分かっているのに、今からやって何になる” とほったらかして、英語どころかローマ字さえろくに書けない始末だった。 (この項つづく)
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第7章 原田先生の戦後 原田先生については懐かしく感じていたが、 帰国して会うことについては、何かちゅうちょさせるものがあった。 あすこまで私達が信じ込んでしまったことについての、 自分自身や先生に対する抵抗感のようなものがあったのかもしれない。 しかし、戦後どうされていたのか、ずっと気に掛かっていた。 青島中学の同窓会の雑誌にそのことを書くと、 私の2年先輩の阿南直浩氏から丁寧なお手紙を頂いた。 私と同じように原田先生から5、6年の2年間教えられて、 しかも実際に海軍の予科練に入隊した人である。 その手紙を掲載させていただく。 ↑新青島風景、青島ヨットハーバー 先生は広島市のご出身で、青島にいつ来られたのかは不詳ですが、 そんなに以前ではないと思います。 終戦後は広島市に帰国、平成8年1月25日心不全で死去されました。 享年82歳(多分)でした。 私は昭和19年7月、中学3年一学期が終わって直ぐ海軍甲飛(予科練)に入隊、 復員後はほとんど学業に専念したことがなく今日に至っていますが、 70歳を越えた今でも、 人生で最も本気で勉強し、学問の基礎が身についたのは、 原田先生との2年間だったと思っています。 当時二国(第2国民学校)には原田、相川、妹尾、藤延という 30歳前後の少壮気鋭の先生方がおられました。 これらの方々は教育熱心であると同時に優秀なスポーツマンで、 特に100メートル競走、400メートルリレーでは 在留邦人の中でも屈指のグループでした。 聞いたところによると、 「当時、海外子女の教育に派遣される小学校教員は、 一等国民に恥じない教育を必要とするため、 師範学校の成績が5番以内でないと行けない」とのことでした。 原田先生は極めて多様な面を持っておられたように思います。 情熱家、直情型、文学青年。 そして思想としては皇道派、国粋主義者であったように思います。 当時少年であった私の目に映った先生の姿ですから、 正鵠を得ているかどうか忸怩たるものがありますが、 私も貴方と同じように非常に大きな影響を受けた方として終生忘れ得ぬため、 どういう人となりだったのだろうか、と考えていました。 貴方は二国を昭和19年卒ですから、その頃には敗戦の兆しが見えていました。 だから先生は 「予科練に行って戦死することが、唯一の報恩の道」 というような極論を言われたのかも知れません。 私が卒業した昭和17年頃までは戦勝に酔っていた時期ですから、 それほどの言葉は聞いた記憶はありません。 しかし、後年よく自問自答したのですが、 私が予科練に入ったのに先生の影響は「全くなかった」とは言えないという程度です。 私自身、少年時代は普通より多感であったようです。 国民学校4年から6年まで海洋少年団、 中学1年から3年までは海洋学徒隊に入って一日も休まず精励し、 海軍が好きでした。 それに5歳の時に母を亡くし、3人の弟妹が非常に可愛くて、 この子達のために死のう、自分の命で少しでも早く戦争が終わり、 この子達が助かるなら、という思いが強かったと思います。 天皇は余りにも遠すぎて離れた存在で、 この人のためなどとは考えていなかったと思います。 先生についての強烈な思い出の一つに、 6年生の時、昭和16年12月8日の開戦の日があります。 その日、青島は快晴で凛とするような冷たい朝でした。 登校する時には私達は既に宣戦布告のことは知っていました。 当日、先生は我われに檄文を配りました。 「晴れたぞ諸君、空は明るい、12月8日の朝はいつものようにやって来た。 だがこの日の朝はいつもとは違っていたのだ。 君も僕も高枕の夢だったその時、 世界歴史はバリバリとすさまじい音を立てて、めくられていたのだ」 という書き出しで始まるガリ版刷りの一枚でした。 60年経った今でもその情景が目に浮かぶのは、 少年の私の気持ちがいかに昂揚し、 また先生の檄文に同感していたかの証のように思います。 ↑青島ヨットハーバー 戦後、先生に二度お目にかかりました。 一度目は昭和45年頃、広島で同窓会をした時、先生をお招きしました。 二度目は昭和57年頃、私が一人で広島市のご自宅を訪問しました。 二度とも先生に笑顔はなく、 本当を言えば、“長居はされたくない”という風情が感じられました。 先生は戦後、教壇に立たれませんでした。 当時のことは何一つお話にならず、意識して避けておられるようでした。 おそらく、戦時中の自分の指導を深く反省し、 まして教え子の中でも、最も早く死にに征った私に対する罪悪感のようなものが あったのではないかと推察されました。 しかし、誰が先生を咎めることが出来るでしょう。 今と違って国民には正確な情報が皆無の状態にあって、 正直で真面目な者ほど誤った報道を信じ、仕事に没頭しました。 国策を無条件に信奉し、国難を憂い、国を愛しました。 それは当時のほとんどの日本人共通の生き方で、 原田先生は特に激しかっただけのことと思うのです。 戦後自らを愧じて教鞭をとることを断ち、 食品会社に勤め、長く役員を務め、全うしました。 穏やかな晩年のようにお見受けしましたが、 一生、重荷を背負われているようにも感じられました。 最後にお目にかかったとき、 心の中で“先生、もうそんなに自分を責めないで下さい”と念じながら、 「私が今日あるのは先生のお陰です」と申し上げました。 先生は少し安堵されたようですが、 心の中で“もう取り返しがつかんよ”と思われていたかもしれません。 阿南直浩 ↑青島ヨットハーバー ずっと気にかかりながら私が会いに行かなかったのは正解だったようだ。 口には出さないが、そういうクラスメートも多いと思う。 原田先生は戦後、潔く教職を辞められた。 しかし生活のために辞められず、先生の職業を続けた人もいるだろう。 その中には、平和教育からさらに 「すべて日本が悪かった」と反日教育に徹した先生も多かった。 軍国教育から手のひらを返すように、どうしてそこまで変われたのだろうか。 軍国主義はもう半世紀以上反省し、 これからもそうならないように警戒している。 その延長線上にあると思われる戦後の反日教育も、 同様に検討されなければおかしい。 特に当時の先生方のそういう心の軌跡も、 追跡し分析する時期に来ているのではないだろうか。 ↑青島五・四広場 |
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第6章 ピアノの中村八大君 ↑戦後の歌謡界を席巻した中村八大氏(写真=相子さん提供) 「断じて行えば」と書いた中村君はジャズピアニストになった。 亡くなる前、同窓会で一緒に飲んだ時、 彼は「青島ではイジメられたなぁ」と懐かしがっていた。 イジメた覚えはないが、そう言われると思い当たることが一つあった。 これも原田先生の思い出と重なってくる。 八大君と私は学校から家に帰る方向が一緒だった。 土曜日の授業は午前中の4時間だから弁当は持って来ないのが普通だ。 しかし八大君は帰り道に外国人のピアノ教師のレッスンがあるから、 学校で弁当を食べる。 当時、帰りの方向が同じ者は班をつくって一緒に帰らなければならなかった。 班のメンバーは5、6人。それが校門の前で腹を空かして待っている。 私は班長だった。 「遅いなあ、何やってんだ。ちょっとみて来いよ」。 それを二度ぐらいやったと思う。すると別の友達がやってきた。 「原田先生が職員室に来いって」 使いに出した二人と班長の私が何のことか行ってみると、 「お前たちは大勢で何故、中村にそんなことをした」 えっと驚いた。 こちらは「早くしろ」と催促しただけで、悪いことをした覚えは全くない。 しかし周りからはいじめていると見えたようで、 それで職員室の先生に知らせが入ったのだ。 私は言い訳を考えたが、身に覚えのないことだから、とっさには出てこない。 「僕達は弁当を食べていないので腹が空いていたから」 では余りに子供っぽ過ぎると思った。 そこで私は集団行動の必要性など、 戦時中の国民の心得みたいなことをくどくどと述べてしまった。 これは逃げ口上にしか聞こえなかったのだろう。 そこでビンタをもらったかどうかは覚えていない。 しかし怒られて、しばらく三人とも職員室に立たされた。 許されて帰る道で、 「ただ、腹が空いたからとだけ言ったほうが良かったんだよな」と話し合った。 弁当にまつわる私の二度目の失敗だった。 立たされた仲間にはブラジルに行った峰村君もいた。 八大君とは私の名前が直大で似ていることもあり、 特に親しいというほどではないが、お互いに印象に残る存在ではあった。 ↑ピアノレッスン中の中村八大氏(写真=相子さん提供) 戦後引き揚げて来て最初に会ったのは八大君のお父さんの方である。 八大君がビッグ・フォー時代のジャズ演奏から、 作曲活動に重点を移していた頃だった。 八大君のお父さんが新聞社に来られた。 各社の文化部や芸能関係の記者達に 「息子を宜しくお願いします」と挨拶回りしていたのだ。 当時私は週刊サンケイの特集デスクをしていた。 挨拶回りなどはマネジャーに任せるのが普通だが、 明治生まれのお父さんは律儀に自分で回って挨拶していた。 お父さんは青島時代は第一国民学校の校長先生だった。 一国は下町的なところがあり、 外国人のピアノの先生は山の手の二国の方に住んでいたので、 一家で引っ越してきたのだ。 私は二国だから中村先生に教わったことはなかったが懐かしく、 お相手をしながら自分の父親を思い出していた。 ↑中村校長ご一家(写真=相子さん提供) 私が定年になる頃、八大君は日本全国の地方の小学校を回って、 子供に音楽の楽しさを分かってもらう活動をメインにしていた。 教育者の父親の血を受け継いでいたようである。 彼のことを本にしようと相談したことがある。 引き受けてくれて話を聞き始めたのだが、 私が日本のジャズやポップスの歴史など基本的なことを知らなくて、 勉強し直さなければならないことが自分で分かった。 しばらく中断しているうちに彼は亡くなってしまった。 八大君から聞いた話の中で思い出すことが二つある。 彼は大学を出てすぐジャズ界のスターになったが、 自分で「やっと父親に孝行が出来た」と思ったのは 大ヒット曲を飛ばしたことではなく、 「作曲した曲が高校野球の甲子園大会の入場式テーマソングになった時、 喜んでくれた」 ということ。 ↑坂本九さんと(写真=相子さん提供) もう一つはかつて社会現象にもなった、 ロック等の音楽を聴いて女の子達が失神することについてである。 実は私自身がそれを経験して、 どうしてそういう生理現象が起きるのか興味があった。 私の経験は中野サンプラザで 「ニューオーリンズ・ジャズバンド・オールドマスターズ」の演奏を聴いた時である。 デキシーランド・ジャズばかりでちょっと退屈してうとうと状態の時、 突然、脳の中で一本の神経がムズムズしてきた。 アルトサックスが独奏していて、そのメロディーが私の神経を微妙に撫ぜている。 そのうちにアアッと驚いた。 席に座っていて身をよじるほどのセックスの絶頂間に襲われた。 セックスなら数秒で終わる恍惚の状態が、 演奏に導かれて一分間近くも続いた。 これだったんだ、と思った。 女の子達が失神するのも当然の素晴らしい快感だった。 曲は「ベーズン・ストリート・ブルース」だったので早速そのCDを買った。 家で聴いてみたが残念ながら再びあの絶頂感は起こらなかった。 そのことを八大君に聞いた。 「それが音楽を演奏する者の憧れなんだよ。 僕達もお客さんにそこまで楽しんでもらいたい。 なかなか出来ないから、自分がその状態になれば出来るんじゃないかとも思う。 それで麻薬なんかに手を出す者もいるんだ」 その麻薬の経験は全然別のことで私にもある。 胆のう炎の発作を起こして普通の痛み止めでは効かないため、 病院でモルヒネを注射された。 なぜか楽しい気分になってきた。 幻影が見えて真っ暗闇の中、全身に銀粉を塗ったストリッパーが踊り狂う。 そこへ正義の味方がやってきてストリッパーを追い払う。 すると痛みが徐々に消えていくのである。 二回発作があって同じようにモルヒネを注射されたが、経過は似ていた。 しかし、麻薬による楽しい気分は、 あの音楽会の時のしびれるほどの絶頂感に遥かに及ばなかった。 麻薬に頼るミュージシャンも満足出来ないだろう。 それでも事件を繰り返す者が絶えないことを哀れに感じた。 私は八大君のリサイタルを一度だけ聴いた。 恐らく公式の場での彼の人生最初のリサイタルだったと思う。 二国を卒業、青島中学に入学して間もないある日、全校生徒が講堂に集められた。 壇上に立った音楽の黒澤先生が厳かに言った。 「この春、我が校にピアノの天才少年、中村八大君が入学した。 今も有名な先生について習っているが、 滅多にない機会だからここで諸君にも聴いてもらう」 八大君は先ずベートーベンの「月光の曲」を弾いた。 しかし堅苦しいのはそれだけで、あとは軍歌をメドレーで弾きまくった。 恐らく自分で編曲したものだろう。 軽快にまた荘重に、派手なアクションも交えて弾きまくり約一時間、 生徒を退屈させずにうっとりさせた。 この頃から既にエンタテインメントの才能があったようだ。 ↑故中村八大氏一周忌(羊会)=相子さん提供 |
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怒られたこと(二) 5年と6年、11、2歳の2年間に 私達が原田先生から受けた教育の集大成ともいえるものがある。 卒業記念の文集だ。私達の座右の銘とその注釈、先生の「送る言葉」である。 座右の銘 初志貫徹 金山重光 初志貫徹 藤沢淳 信は力なり 佐藤 康 至誠報国 森本和伸 必勝の信念 貴田利孝 必勝 緒方良一 捨我報国 佐々木光 一死報国 中村喜一郎 御盾 薮本和男 実行 山本茂人 雄飛五大州 峰村正威 沈勇果断 高見義和 断じて行えば鬼神も之を避く 柳田昌昭 尽忠報国 松波信光 念々之忠 荒砥宗興 豪胆 関口次郎 断行必死 “若い血潮の予科練”自分は予科練が希望だ。大空に征き征き (原文のまま)米英を撃滅する 岡本彰夫 大和魂 父祖の血を受け継いだ自分である。兄も予科練を希望している。 自分も希望して兄と二人で編隊を組んで。 空閑国靖 断じて行えば鬼神もこれを避く 私は軍神横山少佐の信条を私の信条として 航空兵になりたいと思っている。 登坂良則 七生報国 陸軍の兵隊になる 陳 俊雄 七生報国 倒れても倒れてもなおやまず。生まれ変わり生き返って 大君の御盾となる自分は、ひたすら海軍軍人を希望する。 小栗 茂 貫徹 何のその、岩をも通す桑の弓 自分は何事もでもやり抜く人に なりたい。日華のために尽くす人になる。 沃川 栄 大君の御盾とならん 大和男子と生まれた誇りが、自分の心を湧き立たせる。 海軍航空隊に入るのが希望だ。 武藤直大 皇運扶翼 天皇の大命のままに生き、大命のままに死ぬ人になる。 田上 徹 七生報国 七度人間に生まれて朝敵を滅ぼす。烈々たる忠烈の赤誠、 大日本帝国海軍軍人となり、楠公の心に生きる。 小川一成 反省 昔の人は一日に3度は反省せよと言っている。自分は今日の生活を 反省し、明日は再び同じような悪い行いをしない人になりたい。 中野良男 断じて行えば鬼神も之を避く。山本元帥の国葬に参列した私は、今まで二度と ない気持ちを味わった。涙が自然に出るのである。私は真珠湾の底深く 水く屍と散って行かれた横山少佐のこの言葉を信条として生き抜く。中村八大 至誠報国 まごころの人になる。戦時下の内地で中等教育を受けて、 ますます日本精神を鍛え上げようと思っている。 宗像 健 海の開拓者になるのが自分の希望だ。無限の海の宝庫を開いていく。宮崎 汎 ↑青島海軍博物館 送る言葉 原田義三 “戦いの中の子供”皆の生まれた昭和6年は、大東亜の夜明けであり満州事変の起こった年だった。それから今日まで、みんなは戦う日本の子供として育った。日の国、日の民の誇りもて、唯征きに征く兵の姿を目の当たりに見、聞きして育ったのだ。それだけに私は今までにない立派な覚悟の出来たみんなを信じている。私が心の糧としている歌を挙げ、みんなの門出を心から祝福する。 天皇に仕えまつれと我を生みし 我がたらちねぞ尊かりける ますらをが思いこめにし一筋は 七生かふとも何たわむべき 千万の軍なりとも言挙げせず 取りて来ぬべき男とぞ思う いのちより名こそ惜しけれ武士の 道にかふべき道しなければ 青雲のむかふす極すめろぎの 御陵威かがやく御代になしてむ 原田先生の言葉を改めて読むと、 私たちにある「覚悟」をつけさせることを教育の一つの目標にしていたと思われる。 座右の銘でみる限り、その目的は達せられたのではないだろうか。 座右の銘では、クラスの全員が国のためを思い、戦死を覚悟している。 しかし、私達は自分の死を深刻には考えていなかった。 そのために悩み、もがき苦しむことがあることなど想像もできなかった。 青島でも死んだ人は何度か見たことがある。 冬の寒い朝に登校する途中、 学校の塀にそった歩道に中国人の行き倒れがあった。 気味が悪かったが、そこに行き着くまでの死者の苦しみなど 考えたことはなかった。 12歳の軍国少年にとって戦死のイメージは、 戦争映画の「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘機隊」で観たように、 空中戦で撃たれたり、 体当たり攻撃で壮烈な最期を遂げるというような 華やかで格好のいいものだった。 中学3年から予科練に行けば、 エスカレーター式にそうなっていくという程度にしか考えていなかった。 それは子供の考えの浅さもあるが、 自分の命は天皇の大恩に比べたら、鴻毛のように、吹けば飛ぶように軽い、 と繰り返し教えられてきた教育の“成果”でもあるだろう。 今の北朝鮮やアラブの自爆テロの子供達と、 全く変わらない心理状態にあった。 しかし、幸いなことにそこまでいかないで、日本の戦争は終わった。 ↑青島海軍博物館 日本に帰国してからの進路はまちまちだが、 普通の小学校のクラスとはちょっと変わっていると思う。 「雄飛五大州」と書いた峰村君は大学を出るとすぐブラジルに渡った。 そこに生活の本拠を築き、青島でも事業をしていた。 ブラジルに行った者は他にも二人いる。 「断行必死」の岡本君は中国語が堪能だったが、 中年を過ぎてからエジプトに住みついて地方の王様と親しくなり、 これから観光事業をするようなことを聞いた。 「海の開拓者」の宮崎君は、水産学校からその道に進んだ。 薮本君はプロ野球の大映スターズの投手。 他に京都大学と九州大学の教授が二人。 新聞記者が私を含めて三人。 その中の一人、読売新聞の小川君は、 後にJリーグのサッカーチームの会社の社長になった。 青島でサッカーをやっていなければ、そんな転進はしなかっただろう。 公務員や商社、メーカーの海外駐在員もいれば、 布団屋の親父さんや写真館の主人になった者もいる。 40人ぐらいのクラスにしては多士済々でバラエティに富んでいる。 私たち世代は 学校では高校・大学でも “個性を伸ばせ”などという言葉は一度も聞かなかった。 それでもこんな結果になったのは、原田先生の影響が大きい気がする。
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