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「中学3年で全員戦死せよ」 先日、羊会の会員、武藤直大氏より分厚い原稿が届きました。 私たち昭和ひとけた世代が、 昭和という時代をどのように生き抜いてきたか、 その壮大な記録です。 この度、私のブログにこの記録を連載することになりました。 戦中派でもない、戦後派でもない、 その狭間の中でひたすら生き続けた昭和ひとけた、 中でも昭和6、7年(1931、32年)生まれの生きざまを、 今ここに強烈にアピールします。 どうぞご愛読ください。 「中学3年で全員戦死せよ」 昭和ひとけた戦中記 中国山東省・青島第二国民学校六年一組 武藤直大 【まえがき】 昭和をいちばん長く生きた世代はひとけた生まれである。 軍国主義にどっぷり漬かった時代から、 小中学校在学中か卒業した頃に終戦で 突然、民主主義になった。 軍国時代の小中学校にはどんな先生がいて、どんな教育をし、 どのような影響を与えたのか。 その内容と結果はただ「過去のあやまち」として、 ほとんど後世に伝えられずに消え去ろうとしている。 もう一つ歴史から消え去ろうとしているものに、 侵略したといわれる大陸に住んでいた一般日本人の生活がある。 私は中国大陸で生まれ育って、 中学2年まで軍国主義教育を受けた。 太平洋戦争が終わった時、世界各地に私達小中学生を含めて 約320万人の日本の民間人がいた。 そのうち約285万人が旧満州、南北朝鮮、 中国の大陸から引揚げて来た。 彼等が大陸で何を感じて何をしたのか、 帰国した日本でどのように生きてきたのか。 中国大陸の日本人については軍人の横暴とか残虐行為、 あるいは民間人の引揚げ当時の悲惨な面だけが報道された。 しかしその何十倍、何百倍もの 普通の日本人の日常生活は知られていない。 ↑日本、中国の子供たち。1938年ごろ ■日清戦争から日本との因縁、青島 中国の青島には昭和14年から同20年(1945年)まで、 学年で言えば小学2年から中学2年まで住んでいた。 しかし支那事変から太平洋戦争へと続くその7年の間、 自分たちが侵略者だとか、 中国人に対して悪いことをしていると感じたことは一度もなかった。 何も知らない子供だったから・・・というわけではない。 在留邦人の大人たちからも、そういう話は全く聞かなかった。 その頃、中国大陸に住む日本人で 罪の意識を持っていた人はほとんどいなかっただろう。 特に青島は当時の国際政治の常識として、 日本の“正当な権利”を主張していいような理由もあった。 青島は中国大陸が黄海に突き出た山東半島の南岸にある。 景色がよくて気候温暖、天然の良港があり、 交通や産業の要衝として、また観光地としての評価も高い。 日本との関係は明治26、7年の日清戦争にまでさかのぼる。 戦争に勝った日本は清国から台湾、澎湖列島などの他に 遼東半島(旅順、大連のある半島)も譲り受ける条約を結んだ。 これに対して独・露・仏から「東洋平和を乱す」と三国干渉を受け、 涙を飲んで遼東半島を清国に返した。 ところがその後すぐ、 日本に文句をつけた三国のドイツは青島を占領し、 ロシアは旅順・大連を奪って軍港にした。 フランスは清国から広州湾(広東省南部)を租借、 また東南アジアのベトナムを「仏領インドシナ」という植民地にしている。 その以前にもイギリスは香港を、 ポルトガルはマカオを割譲させるなど、 ヨーロッパ諸国はやりたい放題で清国の領土を奪っていた。 “支那(当時の中国の名称)はどうしようもない腐った弱い国” というような意識は子供たちも持っていた。 大正に入って第一次大戦が始まると、 日本は連合国側からアジアにおけるドイツ軍基地、青島を攻略してくれと頼まれた。 それで大正3年(1914年)11月、日本は青島を占領した。 ↑砲台跡。1938年ごろ。 三国干渉の仇を返せたと日本国民は喜んだが、 負けたドイツはよほど口惜しかったのだろう。 12月25日の新聞にドイツ海軍大臣チルビッツのこんな談話が載った。 在仏の大本営でアメリカ人記者に話したとして、 「アメリカは日本を用心しなければならない。 東郷元帥はかって 『この次にまた世界戦争が起きるが、 それは日本人の白人に対する大戦争になるだろう』 と言った。 イギリスがこの戦争に日本を参加させたのは白人に対する叛逆である。 余が言いたいのは、今度戦争になった場合、 ドイツは決して白人を見捨てないということである」 ドイツも白人国の一員として日本を叩くと言うのである。 欧米諸国同士で一時的に戦うことはあっても、 本当の敵は有色人種である・・・と公言していたのである。 実際はドイツの変心によって、 第二次大戦では日独伊の三国同盟軍が連合軍と戦って敗れるのだが、 大正の頃から欧米諸国に日本に対する警戒心が出て来たことは事実である。 青島を占領した日本は ドイツが中国に対して持っていた権益を受け継ぐことを主張、 軍港として使うだけでなく紡績工場等もつくった。 今まで占領していたドイツに代わっただけなので、 新たに侵略したという意識もなかったわけである。 民間人の移住者も増えた。 ↑青島の民間人と兵士。年代不詳。 しかし満州事変が起こった昭和6年ごろから中国各地で反日運動が盛んになる。 青島はドイツの占領時代から“東洋のナポリ”とも呼ばれ、 欧米人の観光客や滞在者が多く、それは日本統治時代になっても続いていた。 昭和12年7月7日、 盧溝橋事件勃発で支那事変(宣戦布告はせず、 公式の戦争とは日本も国際社会も認めなかった。 各国に貿易その他の利害関係があって “戦争”としない方が都合がよかったからである) となる。 すぐ青島でも事件が起こった。 海軍巡邏隊の服部安蔵一等兵曹が市内の路上で何者かにピストルで射殺された。 市街戦になる危機が高まった時、 英米仏独伊の五カ国大使がそれぞれの在留国民保護のため、 日中両国政府に敵対行為を回避するよう申し入れた。 日本は、 「在留邦人をいったん引き揚げるが、 その条件として遺留財産は確実に保護すること」 を確約させて受け入れた。 反日運動が治まれば、また帰ってくるという条件である。 それで半年後の昭和13年1月には帰ってきた。 私達家族が青島に来たのはその1年後の昭和14年(1939年)で、 小学校のクラスの多くが総引き揚げの経験者だった。 初めて日本を見たという者も多かったらしいが、 1年も経つと小学2年の私のクラスでは、 当時の騒ぎはもう忘れて話題にもなっていなかった。 この頃の青島市の人口は約60万人、うち日本人は3万人だった。 小学校が二つ(後に1校増える)と青島中学、青島学院、青島高女があった。 中学は進学校だったが、学院は卒業して就職する者が多く、 中国人や朝鮮人の生徒も多かった。 黒澤映画で有名な三船敏郎も青島生まれで、この学院に入学している。 大正9年生まれで私より11歳上。 後に大連中学に転校しているから、 青島市内で彼とすれ違う機会はなかったようだ。 ↑青島学院の生徒。 戦後平成11年(1999年)に私はこの青島に帰った。 終戦で引き揚げてから55年振りである。 青島は人口700万人の大都市になっていた。 上海、香港と並んで急速に発展した沿岸都市で、 工場だけでなく労働者の保養地、観光地として人口が急増していた。 ホテルでタクシーに乗って、 「チン チュイ キンコウイーロ」 と告げた。 運転手は無表情にうなづいて走り出す。 子供時代に使った中国語は通じた。 チンは「請」「乞う」の意味で、 金口一路(通りの名称)に行ってくれという丁寧語だ。 金口一路は海岸に近い住宅地で、 昔住んだ家がこの道沿いに二軒あった。 ↑現在の金口一路。 その一軒目の前で降りて眺め、 ↑金口一路50号はもうない。50号あたりの写真。 ↑ ↑金口一路50号あたりから見える海岸。 二軒目まで歩いてまた眺めた。 ともに古びて壁は汚れているが昔のままである。 ↑2軒目金口一路37号の門。 ↑金口一路37号あたりから見える海。 そこから青島中学へ通学した道をたどった。 途中の岩山を切り開いた魚山路の坂もアカシアの並木も、 見覚えがある昔のままだった。 ↑魚山路。この坂の向こうに青島中学がある。 眺め眺めゆっくり歩いて15分ほどで青島中学に着く。 校舎は中国の海洋大学になっていた。 門に守衛がいたが黙って入っても咎められなかった。 ↑旧青島日本中学(現海洋大学) あとは勝手知ったる我が家も同然だ。 正面玄関から入った。受付でも咎められない。 左へ行って職員室だった前の廊下を通る。 突き当たりの右側にトイレがある。 55年ぶりの小便をして「いいなあ」としみじみ感じた。 故郷に帰って最初の使命を果たした気分だった。 右に曲がるとすぐ私が習った1年1組の教室がある。 覗こうとしたが今は使っていないようで、 窓に板が打ち付けられて中は見られなかった。 校庭に出たが中国人の男女学生がいるだけで、 校舎も自然の景色も変わっていなかった。 教練で行進した運動場、先生にぶん殴られた生物教室の横・・・。 ↑旧青島中学運動場。 次にそこから歩いて10分ぐらいの第二国民学校へ。 ↑旧第二日本小学校。 国民学校という名称は、 昭和16年3月の国民学校令で小学校の目的が 「皇国の道にのっとり教育を実施する」 とされて変わった。 校舎は海軍基地になっていて門には番兵が立ち、 警戒厳重で入れなかった。 門の外側から校庭と教室の窓を眺めるだけだった。 そこから昔住んでいたまた別の家に向かった。 15分位の湖北路の家である。 (以下次号へ)
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武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
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