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西村唯雄の「海外体験記」

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西村唯雄の「海外体験記」



<さらばラゴス>



ナイジェリアのラゴスは北緯5度付近に位置し

ここの気候は日本の四季と違って雨季,乾季の2つしかない。

雨季の半年はじめじめして昼夜を通して暑く、

乾季は昼は暑いが夜は乾燥しているので涼しく感じ凌ぎやすかった。

蚊が多くて難儀をしたが現地人は殆どマラリアに罹った経験を持っていた。

我々は予防のため、ドイツ製のマラリア予防薬を1週間に1錠づつ服用したが

そのためか2年間、だれ1人としてマラリアに罹った者はいなかった。

健康を維持する為、外での食事はすべて熱を通した物とし、

生ものは避けるようにしていた。

土地柄果物の種類は多く、色々食べてみたが

結局最後まで続いたのはバナナとオレンジなどの柑橘類、メロンだけとなった。

南方の果物は甘さ匂いの強い物が多く、

日本人には食べ馴れていないこともあって長が続きせず、

結局今まで食べ慣れてきたものに落ち着いてしまった。

イメージ 1

↑イスラム寺院前、ラマダンでのお祈り風景。




正月は2回此の地で迎えたが、

帰国後、家族と共にするという事で正月祝いはせずに仕事を続けた。

ラゴス基地での操業も1年半を過ぎ

1965年(昭和40年)8月20日、

我々にとって最後のラゴス入港を迎えた。

此方に来た時は2年間長いなと思っていたが、

経ってみると短かったようにも思える。

月日の経つのは早い物だと改めて思った。

荷揚げは2日で終った。

一緒に過ごしたナイジェリア船員とも名残を惜しみながら

8月25日にはお別れしなければならない。

船の修理と日本船員の交代は

スペイン領カナリア諸島のラスパルマスで行う事になっていた。

ラゴスからアフリカの西沿岸に沿って北上

約12日間の航程となる(4750キロ)。

ラスパルマスについてはアフリカ編第2として予定しています。

楽しみにしていただきたい。

9月6日入港ラスパルマスには交代要員11人が待機していた。

船の修理、補修に1週間掛るとの事、

我々は引継ぎを2日で済ませ1日休養、

土産物など買いもとめ

翌日10日飛行機にて待ちに待った帰国への途に着いた。

イメージ 2

↑市内のみやげ物売り風景

       (ラゴス編終り。)
西村唯雄の「海外体験記」


ナイジェリア・ラゴス編(3)



<船内で腕相撲大会>


その日の仕事が終った時

ナイジェリアボースン、レゴスより

これから家に帰るが一緒に来ませんか。

我が家のナイジェリア料理をご馳走します、と招待された。

一度は彼らの家庭を尋ねてみたいものと思っていたので快く受け、

彼に同行しタクシーで20分ぐらいの

アジェグンレという所にある彼の家に到着した。

黒人街の込み入った路地の中にあって、

こじんまりした家の中に10人ぐらいの家族と一緒に住んでいるようだった。

近所に住んでいるという乗組員2人も来て、待っていた。

男性の弟だとか、従兄弟だとか紹介され

7人ばかりであったがコーヒーをのみながら賑やかに話あっていた。

女性達は別室で何やらしているようであったが

こちらには全然顔を出すことはなかった。

イスラムの世界では其れが普通で当然と皆思っているようだった。

やがていろいろ料理が出てきたが、どれも香辛料を多く使った物ばかり、

日本人のわたくしには辛すぎる物ばかりであった。

ただ、揚げたバナナ、鶏の蒸し焼き、

ナイジェリアでは主食となっているヤム芋を煮た後、

乾燥させて粉にし、団子にしたものを

唐辛子の粉(ぺぺ)とピーナツ油を混ぜたものに漬けながら食べる、

これは中々美味しかった。

揚げバナナはさつま芋に似た味がした。

(野菜バナナと言って青く硬いバナナで黄色く熟れたバナナと違う)


2時間ぐらい滞在し、礼を述べタクシーで帰船した。

家庭にいる女性を見たかったが、帰るまで裏にいて姿を見せることはなかった。

街の中では大勢見ることが出来るのに、

家庭の中では違うのかなとちょっと違和感があった。

イメージ 1

↑ナイジェリア婦人(子供を背負っている)




船内での食事について、

日本人、ナイジェリア人は別々、魚も鱗の無い物は食べない。

イカ類については気味悪がって触りもしなかった。

しかし、我々はイカ類が好物、平気で食べているのを見て驚いていた。

特に取れたヤリイカを干してスルメを作り焼く時の香ばしいいい匂いには

彼等も興味深々。

我々が試しに食べてみなと割いたスルメを差し出してみると

若い男が恐る恐る手を出してそのスルメを口にした。

暫く噛んでいたが其の味の良さと美味さにびっくり。

それ以来魚に混じって混獲されるヤリイカを丁寧に拾い、

スルメ作りに励んでだ?ことは言うまでもない。

何でも土産に持って帰る為らしい。

鱗がないから教義に反するのではと言うと,

教義は教義、加工してこのような形になれば問題ないと

勝手な理屈をつけている所がまた面白かった。

これでナイジェリアの食文化に一石を投じた事になるかなぁーと可笑しかった。

以後の航海でこの行為が続いたのを見れば

スルメの評判は大いに良かったものと思う。

しかし陸上での加工は駄目、あくまでも船上で加工し,

スルメの形にして持ち込まなければ教義に背くことになると言うのだ。

いやはや・・・・・もう言うこと無しだ。

イメージ 2

↑ブリッジ内でコーヒーを




ナイジェリアの船員は日本人船員に比べ仕事の速度がとても遅い。

国民性の違いかも知れないがノンビリしている所がある。

しかし船の手入れ、特にペンキを塗らしたら

日本人乗組員に比べ懇切丁寧綺麗に塗ってくれる。

日本人はサッサッとやって仕事は速いが丁寧さがなく結構塗り残しがある。

この違いは何処にあるのか面白いところである。

また、長老の言うことは非常に良くきく。

我々はナイジェリア乗組員に対する指示は

総てナイジェリア・ボースンを通じて指示する事にしている。

そうすれば仕事はスムース行くことを知った。

共同で仕事をしていく為には大事な事で、ボースンの必要性を強く感じた。

また、技術力の高い人、力の強い人には尊敬の念をもつ。

船では時々、時間のあるとき、腕相撲などに興じる事があり、

お互いに力を自慢しあって勝負していたが、

やはり体の大きなナイジェリア人にはかなわない。

そこでいよいよ私の出番となった。

私は自慢ではないが腕相撲にかけては

今までどの船に乗っても負け知らずで知られた男、

日本人の乗組員は其の事はよく知っていた。

さあどうなるか?

勝負はあっけなく終った。

私の勝ちである。

相手は再三勝負をかけてきたが、結果は同じことであった。

これには要領が有るのである。

私は中学、高校、大学と野球をやっており、

ポジションはキャッチャーを8年間やっていた。

キャッチャーは2塁で走者を刺すため、内野手と違い、

しゃがんだ姿勢から2塁目がけ早い球を投げなければならない。

このため手首のスナップを鍛えるあらゆる訓練を積んだ訳である。

普通の人より手首を内側に曲げる力は格段に強い。

腕相撲はこの力を利用し、合図と共に素早く手首を内側に曲げると

相手はどんなに手に力を入れても倒す力は半減してしまう。

この技を使って今まで負け知らずで来た。

相手は私に対して完全に降参したことは言うまでもない。

これ以後、彼は私の家来?同然のような態度をとるようになった。

「技は身を助ける」ことになった一例とでも言っていいのかも知れない。

今、私は77才、筋肉も衰えており子供達にも負けるかも知れませんね。


10日ほど冷蔵庫代わりの停泊後、

1月20日再びアンゴラ沖漁場に向って出航した。

操業中ラゴス向け航走中の日本からの第2船と遭遇、

お互い挨拶を交わしながら航海の無事を祈った。

次の航海からは2隻の操業となる。

操業中アンゴラの小型漁船がエンジンの故障で

白旗を振りながら漂流しているのを発見、直ちに網を揚げ救助に向った。

乗組員は5人ぐらい船長はポルトガル人、

お互い下手な英語で話したが

アンゴラの港(首都)ルアンダに帰る途中エンジンが故障したとの事。

ここからルアンダ港まで約200キロ、

我々はお互い船乗り同士、曳航して故障船の救助に当たる事にした。

15時間あまりかかってルアンダに入港、

船から無線でアンゴラ側に通知していたのでポルトガル人の役人が待っていた。

色々事情を聞き、暫く港内に停泊していて下さい。

と言うので待っていたところ、

救助した船の船長と弁護士、通訳(ルアンダ在住の商社の日本人)と役人が来た。

救助してくれた礼を述べたあと、

救助料は幾らぐい払えば良いかという話になった。

我々はそんなこと少しも考えていなかったのだが・・・・

外国では当然と救助料を、しかも高額な金額を請求するのが普通だという事だった。

それで弁護士を連れて来たのかと合点した。

我が船の船長は、船乗りは海の上でどんな事か起こるか分からない。

お互い助け合うのが当然と、救助料の事はきっぱりと断った。

相手の船長は物凄く感激し笑みいっぱいで船長同士握手を交わした後

彼らに見送られながら漁場へと出航した。

3ヶ月後ポルトガル本国政府からナイジェリア・ラゴスの会社事務所に

我が船宛、救助に関する感謝状が届いた。

アンゴラは現在独立国(1975念独立)となっているが、

当時はまだポルトガルの領土で執政官がアンゴラを治めていた。

感謝状は船長室の壁にずっと飾られることになった。

イメージ 3

↑市内独立広場




もう一つ、この海域で10月頃、

ケープタウンを基地とする日本水産の

500トン型サイドトロール漁船が操業していた。

ところが何かのトラブルでSOSを発信しながら沈没した。

日本人乗組員20人が乗っていたが、急に沈没した為か

1人も助かった人はいなかった。

我々は操業を中止、沈没現場に急行、

既に日水の僚船が到着し沈没位置を探知機で確認していたので

その付近に網を入れ捜索を開始した。

引き返したり、行ったり何回かして網を揚げて見ると

魚の中に混じって、1人の遺体が上がった。

直ちに日水の船に引き取らせ其の後まる1日捜索したが上がらなかった。

どうも網を入れた後、船内で仕事をしていたか、部屋で休んでいる時の

突発事故ではなかったかと思う。

船名は「宇治丸」、悲しい異国の地の海難事故であった。

日水の方から、後は自分たちだけでそ捜索します。

どうぞ仕事に戻ってくださいとの要請があって、その場を離れたが、

なんとも言えない心に残る事件であった。

予定の300トンに達したのでラゴスに向け帰途についた。

ナイジェリア人乗組員もすっかり仕事に馴れ

網の破れの修理なども出来るようになり、

我々もおかげで仕事が少し楽になった。

操業中出会った僚船はラゴス入港後、

付近の海域で蝦を目的の試験操業に従事、かなりの蝦の存在を確認した。

この事が後ナイジェリア大洋の海外蝦トロール事業にもつながる事になった。

我々はだいたい1航海、1ヶ月のサイクルで回転している。

念願の1000トンクラスの冷蔵庫も完成した。

同クラスの2隻のトロール船の稼動も

15日毎にうまく入港することになれば

会社にとっては都合のいいサイクルとなる。

こんなにうまく行くか否か天気と漁次第という事になる。

神に祈るしかない。・・・・

せっかく馴れたナイジェリアの船員3人、

日本から来た第2船に乗船させる事になり、

新人3人と入れ替えることになった。

しかしベテラン?3人が残っているので心配はなかった。

相手船も同じ事だろうと思う。

休養を含めて5日停泊、2月26日再びアンゴラの沖漁場むけ出港した。

イメージ 4

↑岸壁での荷役風景



毎度の事ながら入港時、

日本の家族からの手紙を受け取る時は何をおいても1番嬉しく感じた。

返事も毎回出したが家族との絆というものがこれほど強く感じたことはなかった。

よし頑張らなくちゃーという新たな力が湧き出て来るのであった。

(ラゴス編つづく)
西村唯雄の「海外体験記」ナイジェリアのラゴス(二)



イメージ 1

  ↑ケープタウン沖で操業した2500トン級スタントロール船


<日本人は、バス代要らないよ>



ケープタウンで船の燃料補給と乗組員の2日の休養を済ませ

11月5日ラゴス向け出港した。

途中アンゴラ沖で7日間試験操業を実施した結果、

漁獲された魚種は多い順に

鯖、鯵、にべ、メルルーサ、ヒメジ、きしま鯛、にしき鯛、いとよりもどき、

舌びらめ、太刀もどき、えい、小型さめ類、かさご類、くちび鯛、

其の他やりいか、甲いか、えびなどがあげられる。

名前は日本で獲れている魚に似ていたというだけで

我々が勝手に付けたものもあり其の点勘弁して貰いたい。

鯖鯵主体に漁獲量は想像した以上に多く、

船内冷凍加工し日本からの積み荷か多く明きスペースの少ない場所に

やっと積み込んで目的地ラゴス港に向け漁場を後にした。


11月25日午前10時頃ラゴス港入り口に到着、


パイラー乗船後港内に侵入、アパッパ岸壁前で検疫を受け着岸後、

今度は入国管理官のチェック税関役人のチェックを受ける事になった。

我々を受け入れるラゴス側の有力者である人物が

それら役人に一言何か喋ったところ、

ろくに調べもせず書類にばんばんスタンプを押し、

あっと言う間に総ての手続が終ってしまったのには驚いた。

迎えに来ていた三井物産、大洋の社員は

アフリカではこの様な事は何時もある事だと笑っていた。

鼻クスリを利かすと何事も直ぐこのようになるらしい。

独立国だと言っても何ともいい加減なとろがある国だと思ったが・・・

何事も無く早く済んだ事は有りがたかった。


船長は三井物産の社員に対して、

この地に孤児院のような施設があれば

商品にならない様な半端物があるので10ケースぐらい寄付したい、

これからこの地に厄介にならねばならないのでと申し出た所、

早速引き受けてくれ、カトリック系の孤児院に寄付を申し入れたところ

よろこんで受け取ってくれた。


この事が翌日のラゴスの新聞にでかでかと載ったらしく、

停泊中、街に出ると貴方達は日本人かと聞く人が多く

バスに乗った時など料金は手を振っていらないよと、ただで乗せてくれたり

普段接した事のない日本人達を市民は暖かく迎えてくれた。

改めて船長はやるものだと感心した。

其の当時のナイジェリア国内の治安は

現在と違って夜中一人でどこを歩いていても問題なく安全であった。

面白かったのはタクシーは一応会社の名前がのってはいたが、

会社は単に自動車のリース会社で一日幾らで個人に貸し、

稼ぎが多ければそれだけ借主の儲けになるということだ。

メーターはついているものの料金は運転手と乗りてとの交渉次第、面白かった。

皆で幾ら払ったか夫々話し合い、多く払った者は悔しがること、悔しがること、

たあいのない遊びで楽しんだものであった。


漁獲した魚、さし当たって必要の無い品物を陸揚げし、

直ちに漁場に向け出港するつもりでいたところ、

ラゴスにはまだ大きな冷蔵庫がなく現在建設中とのこと。

従って船を冷蔵庫代わり使用、

其の日、必要な量だけトラックで運ぶということになった。

イヤハヤ何時まで停泊しなければならないのか・・・・。

乗組員は船の手入れに当たる当番だけ船に残し、

あとはラゴス見物?で過ごす事になった。

市内には英国領時代に建てられた大きなデパート、ホテル、レストランなどあり

椰子の木の街路樹、広い道路、整然とした街並みはヨーロッパ風の造りである。

イメージ 2

  ↑市内風景

イメージ 3

  ↑ラゴス国会議事堂前。像はエリザベス女王。



また町外れにはスラム街かと思われるような黒人の町があり、

ちょっと入りにくい地域もあったが

色々な店や賑やかな市場などがあり、

マッチ1箱の買い物も売り手、買い手の交渉次第で価格が決まるという

面白い買い物の出来る街でもあった。

日用品、果物など驚くほど安く仕入れる事が出来た。

デパートの買い物でもこの方式が通用する商品もあり、

これがナイジェリア式?買い物の仕方のようであった。

我々は度々黒人街に出かけたが、治安の問題は一つも起こらなかった。

イメージ 4

  ↑デパートでの買い物



ナイジェリア人の乗組員も採用され6人が船にやってきた。

聞いてみると(通訳を通じて)

皆ナイジェリアの会社の社長の出身地の一族で、なるほどなーと感じた。

(一族の結束の強い民族)

全員体格も良く人の良さそうな人で皆イスラム教徒であった。

すぐ乗船したいということなので船内にナイジェリア人だけの部屋を用意、

停泊中は我々船員と一緒に仕事をしながら馴れて行くいい機会だと捉え、

教育していくことにした。

始めて見る船内を案内、漁獲物を冷凍する冷凍室、機関室、操舵室、

冷凍した魚を保管する−12℃の魚倉の中に入った時は一同びっくり。

おそらく生まれて初めての経験だったのに違いない、其のしぐさが面白かった。

この中で長時間働く事になると説明すると肩をすくめた格好などしておどけていた。

今後どうなることやら・・・・


乗船したなかで一番年長のしっかりした人物レゴスという名の男を

ナイジェリアンボースン(甲板長)として

ナイジェリア乗組員の長を務めさせる事にした。

彼は皆からの人望も厚く適任と感じたが、間違いでなかった事がのち証明された。


やっと10日目、

捕ってきた魚(太刀、イカ類を残して)を全部出荷する事が出来た。

(イスラムの教えで鱗の無い魚は食用禁止なのだ)


日本人乗組員 船長 1等航海士 2等航海士 甲板長 甲板員2
       機関長 1等機関士 機関員2
       通信士           小 計 11人

ナイジェリア人乗組員           小 計  6人
           乗組員総数     合 計 17人

イメージ 5

  ↑船内デッキにて



食料品、燃料の積み込みに2日、

12月7日アンゴラ沖漁場に向けラゴスを出港した。

ナイジェリアの乗組み員も航海当直に組み入れ、

舵の取り方、デッキでの漁具の整備取扱などを教え

2日ほど船酔いで元気の無かったものも回復し、

出港して7日目、目的の漁場に到着した。


彼等にとって昼夜連続の仕事は初めての経験、

イスラムでは夜は休息する時間だとブツブツ言っていたが

日本人の働きを見て納得したようだった。

ただ、イスラムの教えでは朝、昼,夕の3回、

メッカに向ってのお祈りは欠かすことは出来ぬと

仕事中であれ何かやっている最中でも中止、全員お祈りをする。

これにはちょっと参ったが、

船長は「郷に入れば郷に従う」のたとえ通り、

彼らの宗教上の儀式であればしょうがないと

我々の方が彼らの日常のサイクルに合せるようにして仕事をするようになった。

彼らもこの事には感謝しているようであった。


最初の網入れから、荒らされていない漁場だった所為か

好漁が続き15日ぐらいで予定の300トン余りの漁獲を得た。

ナイジェリア人も終り頃には一人前に近い働きをするようになった。

最初−12℃に保たれている魚倉での長時間の作業を

熱帯で育ってきた事もあって嫌がっていたが、それもやや馴れてきたようだった。

1ヶ月の航海を通じ我々とナイジェリア人の仲は仲間同士と云う意識が芽生え、

これからの2年間うまく行くのではないかと安心した。

漁場から何も見えない海の中を一直線、

ラゴスに向けて走る事が出来る技術航法は彼等にとって不思議に思われていた。

私が太陽や星を観測し計算して船の現在位置を出しているのを見て、

たいしたもんだと感心していた。教えてくれと言う者もいたが・・・・

走って7日目(1月6日)ラゴス港の入り口に真直ぐ到着した時の

ナイジェリア人の驚きと歓声は今でも忘れる事は出来ない。

イメージ 6

  ↑ラゴス港入り口。



まだ冷蔵庫の建物が完成していないということで、また長期停泊を余儀なくされた。

われわれにとっては、考えてみればこんな楽な事は無い訳で、

あちらこちら見物出来る事になった。

ナイジェリア人乗組員も久しぶりに家族に逢えてとても嬉しそうだった。

2、3日すると家から船に来る時の彼らの姿が

ネクタイスーツに革靴とバリッとした姿に変身して、船に通勤して来た。

思った以上に多い給料を貰ったらしい。

乗船した時のみすぼらしい姿を思い出し、

馬子にも衣裳だなと我々も笑いながら見とれてしまった。

いい給料だった事も有ってか、仕事に熱が入ってきた。現金なもんだ。

会社には自分も船に乗せてくれと志願してきた連中も多かったと聞いた。

第2船が間もなく日本から到着する事になっており

その予備軍として必要になってくると思う。

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ナイジェリアのラゴス

海外体験記(4)アフリカ編



「ナイジェリア」(一)

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<ナイジェリアのラゴス>


アフリカ南西部に位置するナイジェリア(ナイジェリア連邦共和国)は

人口、1億4000万人(種族数250以上)を有する

西アフリカ最大の国である。

現在は国中央部のアブシャに首都が移っているが、

我々がナイジェリアに行った頃(1962年)はラゴスが首都であった。

ラゴスはアフリカ西部では最大の港を持つ商業都市である。

人口は推定1500万人ぐらいと言われている。

港からは木材、カカオ、ナッツなどの農産物が輸出の主体であったが、

1970年頃ラゴスの西ポートハーコート付近で石油が発見され

現在日量250万バレルを上回る生産能力を有するまでに至っている。

この石油の輸出により外貨獲得は総輸出の金額の中、

95%以上を担っていると言われている。

石油が発見されて以来、

この利権に関わる種族同士の争いが絶えず、内戦まで発展、

一方外国石油資本の参入に絡む贈賄、賄賂が平然と行われる

世の中?の風潮が生まれ、

ナイジェリアは一時独立国家として最悪の事態に陥っていた。

2003年再選されたオルセグン・オバサンジョ大統領は

汚職まみれていた政府の立て直しに着手、

何とか国家としての体面を保っているのが現状である。

利権、汚職、麻薬に汚染されている現状は容易に解決出来ていないのが

現在のナイジェリヤの姿であり悩みの種となっている。

また貧富の差も大きくなり、国内特にラゴス近辺は治安も悪く、

誘拐、殺人などの事件が頻繁に発生しているとの事である。


さて、話は石油が発見される前の1962年(昭和37年)に戻る事になる。

ナイジェリアのラゴスに会社を持つ現地の有力な実業家が

三井物産を介して水産会社をラゴスに設立したい、

日本は漁業については先進国ということで

三井物産は大洋漁業にこの話し持ち込んできた。

三者協議を重ねた結果、ラゴスに合弁会社を設立(○○大洋)

大洋から冷凍能力を持つ500トン級サイドトロール船2隻

(それぞれ日本人乗組員10人)、を参加させることになった。

漁場は何が捕れるかわからないが

ポルトガル領アンゴラ沖からナイジェリア沿岸までの

広い海域での操業となるそうだ。

漁船にはナイジリア人数人を乗船させ教育することも求められていた。

(将来ナイジェリア人だけで操業可能)

予定の2隻は昭和38年中頃まで日本での操業が決まっていたので

それをこなした後、ナイジェリアに輸出するということになった。

船の検査や積み込み品の検査など順調に進み、

また乗組員は2年間のナイジェリア派遣という事で

人選も慎重に選んだようだった。

私は会社より先発第一船の2等航海士として乗船を命じられた。

私としては当時年齢はまだ30才で元気盛り、

給与条件も格段に良かった事もあって子供2人いたが、

家内も「頑張る、留守はしっかり守る」と言ってくれた。

「よし」と心に誓ってナイジェリアに向け出発する決心がついたのだった。

昭和38年(1963年)9月25日、

下関支社裏の岸壁から社員、家族に見送られながら

船長以下11人は遥か彼方のアフリカ・ナイジェリアラゴスに向けて出港した。


「下関からラゴスのでの航路と航程」

下関→フイリッピン西(南中国海)

→スンダ海峡(スマトラ島とジャバ島の間の海峡)

→インド洋(斜めにアフリカ最南端ケープ岬に向ける)

→ケープタウン入港(燃料補給)→アンゴラ沖(試験操業を実施)

→ナイジェリア・ラゴス港に入港

イメージ 2




航程下関→ボルネオ西→スンダ海峡(4850キロ)

→ケープタウン(10600キロ)→ラゴス港(4860キロ)

全航程:約20310キロ。地球赤道周りの約1/2の距離に当たる。


漁船の平均速力を9ノットとすると

1日当たり約400キロ進むことになる。

途中給油休養のためケープタウンに2日停泊、

アンゴラ沖の試験操業7日を加えると

ラゴス入港までに要した日数は60日となる。

今までこんなに長い日数、

時化らしい時化にも合わず洋上を航海出来たのは初めてのことであった。


当時ケープタウンには

大洋の2500トン級スタントロール船2隻が

鱈科のメルルーサを主体に操業しており、

また南インド洋、南大西洋で操業していた

日、韓、台のまぐろ船より冷凍まぐろの買い付けなどするために

大洋漁業の駐在員事務所が設置されていた。

我々も入港中この事務所のお世話になった。

イメージ 3

↑ブリッジ内でコーヒーを飲む筆者


当時、南アフリカ共和国は

白人と有色人種を差別するアパルトヘイトと言われている政策をとっており

総てにおいて居住区域、入場出来る所、出来ない所が区別されていた。

街にある食堂、レストランも同様で

白人専用、有色人専用という具合に分かれ、

有色人種である日本人だけは名誉白人?として

(韓、中は有色)白人社会の仲間としてあつかわれ、

自由に白人専用の場所に出入りすることが出来た。

このような人種差別(人種隔離)的政策が長く続く訳がないと思っていたところ、

暫くたった1991年、

当時のクラーク大統領がアパルトヘイトの廃止を打ち出し、

1994年有色人種を含めた全国民参加の大統領選挙を実施し、

原住民出身のマンデラ氏が当選、

初の黒人政権が誕生したことはご承知の通りである。
西村唯雄の「海外体験記」インド編(七)



<ビジネス都市ボンベイ>


1976年


「ボンベイ」(8/24〜27)



1時間30分位の飛行でボンベイ空港に到着。

直ちにホテルタジ・マハールに向った。

ホテルはボンベイ湾に面して建てられており、

重厚なインド風のどっしりしとした建物で、

ホテルのすぐ前にクリーム色をした巨大な有名なインド門が目につく。

この門は英国王ジョージ5世の来印(1911年)を記念して

建てられたものであるとの事だった。

イメージ 1

↑インド門にて




ボンベイはインド最大の商業都市として栄えて来た町である。

街には背広姿のビジネスマンやワイシャツ姿のサラリーマンが

道路を活発に行き交い、流石にビジネスの都市だと実感した。

ここには日本を含め各国の会社の支店、出先事務所が多く存在しているという。

観光案内を見てみると近郷にも見るべき寺院・石窟群・遺跡も多いようだ。

今夜はここボンベイの仕事が最後ということで、

インド政府の役人多数と日本総領事館の領事、

水産加工会社の経営者などが参加した

何とも大げさなお別れ晩餐会?が催された。

最初にインド政府、水産物輸出担当のチェアマンが

我々に対するねぎらいの言葉と

日本政府に対して

技術者派遣に尽力してくれた事を感謝するという意味の言葉をのべられた。

これに対し、日本政府を代表して、領事が流暢な英語で答弁し、

最後に両国の更なる貿易の発展する事を願う。と結んだ。

(あとで領事から喋った内容を聞いた)

全員の拍手の中乾杯、約2時間以上にわたるバイキング式宴会となった。


翌日はボンベイの北150キロぐらいの所にあるダマンで

最後の仕事を済ませた。


20日間にわたったインドでの仕事の旅はこれでやっと終了した事になった。

ボンベイのホテルに戻った我々3人と

最後まで付き添ってくれたインド政府の役人3人と最後の夕食を共にし、

我々はまた最後のインドカレーに挑戦した。

さらっとしたカレーの辛さは抜群、味も抜群、目を白黒しながら完食した。

そばにいた役人達はニコニコ・・・・

この度は彼等とは同じ会社の同僚のような付き合いだったなぁーと思い、

改めて心の中で感謝した。

イメージ 2

↑ボンベイで最後の歓迎レセプション




翌日朝はいよいよ帰国の途につく。

今夜はインド最後の夜、

帰国後のODAへの報告はどうすべきかを3人で相談、

書類は几帳面に記録を取っていた日水の河野さんにお願いした。

出来た時点で3人改めて集まり、

一緒にODA事務所に出向き、私から報告書を提出することにした。


今回、思いがけなくインドへ行く事が出来、

インドの南部地方を主に回る事になったが、

インドの社会、文化、風土に少しでも触れる事が出来たことは

私の人生において貴重な体験となった。

ODAに感謝したい。



【後 記】

インド社会においてはカースト制が大きな問題となっているが、

これの廃止はインドにとって大きな試練となっている。

カーストの階級によって仕事は世襲的に定められており、

それを打ち破る事は社会に大混乱を招き、

失業者が国中に溢れかねないと心配しているからだった。

(徐々に変革はして行くと思うと言っていた)

インドの街中、特に観光地には物乞いしている乞食のような人がいて、

我々にたかって来る姿を何回も見たが、

この人達は最下級のアンタッチャブルと言われている人々で

世襲制によって引き継がれ、

これで彼らの生活が成り立っているという理論である。                       



※カースト制

大きく分けて5階級と言われている。


1、 バラモン(司祭)

2、クシャトリヤ(武人・王族)

3、ヴァイシャ(商人)

4、シュードラ(農民)

5、アンタッチャブル(不可触民)

の枠組みとなっているが、

地方地方によっては更に細分化されている所もあると言われている。

結婚の固定化、職業は世襲制となっており、

社会の然るべき所に位置づけられている制度である。

以上の様な異なった制度のまま総てを包含し統一しているインドの国、

また多種、多様の人種(約30種族)を抱え、

自治独立した州(20余り)があり、良く纏まっている不思議な国である。

これもヒンディー教の教えの賜物なのであろうか?

教育程度も高い国民(一部と思われるが)が多いという感じも受けた。
 

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