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西村唯雄の「海外体験記」インド編(六) <映画の一場面のようなもてなし> 1976年 「マンガロール」(8/21〜24) マンガロールに向う急行列車の旅は天気も良く、午後4時頃出発。 海の見える4人乗り冷房完備の個室2室(夜は寝台室となる)を利用、 左は椰子の木の並木の見える海岸線、 其の向こうのアラビア海には漁船らしき船がチラホラみえるという 絵の様な景色を眺めながら啜るコーコーの味も、 一段と美味しく感じたものである。 また夕刻、アラビア海に沈む雄大な素晴らしい夕日を見た時は・・・、 もう言う言葉もなく見とれてしまった。 ↑ツリバンドラムからマンガロールへ向かう列車の中から(西海岸)。 椰子並木の向こうにアラビア海を望む。 列車内の夕食も満足、快適な列車の旅となった。 翌朝早く8時頃マンガロール駅に到着した。 マンガロールには立派な港があり、 近くの海で漁獲された蝦、魚など加工冷凍するやや大きな工場が一ヶ所あって、 従業人も300人を越えて働いているとのことであった。 翌日午前中にいつもと同じく従業員の前で レクチァーと加工実演のデモンストレーションすることになった。 夕刻はまた州政府役人数人と、 関係工場のオーナー連中との交換歓迎夕食会に招かれ (州では法律で飲酒禁止)ジュースで乾杯?! 明日の我々の仕事の成功を祈願した事は言うまでもない。 其の日の宿泊地はマンガロールから山手の方に130キロ程はなれた 涼しい町メルカラのホテルとなっていた。 周りは樹木が茂りホテルと言うよりはコテージ風の宿といった感じだった。 夜はクーラー要らずで過ごす事が出来た。 翌日の午後仕事は順調に終わり、 再びメルカラのホテルに帰り2泊することになった。 翌日午前中、車で近郷の寺院、遺跡など観光し、 昼は当地の昔の殿様?だったという土地の豪族 (大地主で元州政府の大臣を務めた人らしい) から自宅で昼食をとの招待を受けていたのでその人の自宅に向かった。 到着しゲートを潜ったが邸宅は遥か彼方に見える広大な敷地の中に、 花畑やテニスコート、プール、何かの畑、 使用人の家らしい建物などが見られ、 日本国内では公園ではないかと思われるようなところに住んでいた。 宮殿ではないかと思われるような大邸宅、 床は皆大理石が敷きこまれ、 階段を上がる両側には、男の使用人達が素足で並んで立っていた。 我々も靴を脱がなければならないのかと其のしぐさをした所、 そのまま靴をはいたまま上がってくださいと言われた。 上がると奥のほうから体の大きな主人が にこにこした顔で現れ一人一人と握手をかわし 奥へと手招きし次の部屋に案内された。 何か映画の一場面を見ているような感じだった。 其の部屋は天井が高く 高価なシャンデリアのあるゲストルームのような所であった。 しばし休息。 主人と役人達は色々と話をしながら時間をつぶしている様だった。 暫くすると正面の大きなドアが開いて其の中に入った。 大きな丸テーブルの上には美味しそうな料理が美しく並べられており、 各自給仕が案内する椅子に座ることになった。 私は日本人のリーダーという事で主人の真向かいの席に座らされた。 これがインド式だとのこと。 主人の挨拶があり次に私が立ってお招きに預かった御礼を日本語で答えた。 ついてきた通訳がそれを英語になおして伝えてくれた。 出された料理はインドのこの地の代表的な料理という事であったが、 カレー味のものが多く結構美味しい物が多かった。 皿が空になると、4、5人居る給仕がすぐ新しい皿に取替えてくれ、 自分ですることは、ただホークやスプーンでひたすら口に運ぶだけ。 コップの水が無くなりかけると担当の給仕が水を足してくれた。 こんな至れりつくせりのもてなしを受けたのは生まれて初めての経験であった。 最後に果物のデザートで終ったが、 本当のインドの宮廷料理?に出会った様な気がした。 厚くお礼を述べ辞した事は言うまでもない。 明日はマンガロールから 最後の目的地ボンベイへ飛行機で向う予定となっている。
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西村唯雄の「海外体験記」
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西村唯雄の「海外体験記」(五) (ツリバンドラムの夕日) 1976年 「ケラーラ州の州都ツリバンドラム」(8/17〜21) 海岸から近く、起伏の多い 椰子とバナナの木に囲まれたような美しい町である。 ケラーラ州は教育程度の高い事、キリスト教徒の多い事で知られている。 飛行場に到着した時は例のごとく、 州政府の役人数人の出迎えを受け歓迎の昼食会場となる Kovalam Ashok Beach Resortという 長い名のホテルに案内された。 市内から約15キロ、南アラビヤ海を見下ろす岬の上に建っているので、 海に沈む夕日がとても美しく、又前面に海水浴場があり、 多くの人から保養地として利用されている所でもあるとの事であった。 ↑ツリバンドラムのホテルコテージで寛ぐ。 それぞれお互いの紹介も終わり今回の昼食会はバイキング方式で、 他の場所で宗教上禁止されていた食材も並べられ、 総ての人の好みに応じられるようになっていた。 牛肉、豚肉を使った中国料理もあり、 我々はやっと馴染みのある料理にありつく事が出来た。 久しぶりの事で何となく美味しく感じた。 昼食会後、席を変えて明日以降のスケデュールを協議したが、 既に州政府の方で決められていたのでそれに従って行動する事になった。 ↑州都ツリバンドラムの冷凍加工場にて。 ケラーラ州は南北に長い510キロにも及ぶ海岸線を持ち インドでも最も漁業の盛んな所である。 魚類は勿論蝦類の一大産地として知られている。 この辺で獲れている蝦は殆ど外国に冷凍加工され輸出されており、 輸出先は70%以上が日本向けという事であった。 同時にイカ類の混獲も多く、 インドでは宗教上食べてはいけない物となっているとの事、 もったいない話である。 我々はそのイカを加工し、 日本向けに輸出出来るようにする「請け負い人」といった 仕事人ということかもしれない。 スケデュールによると、 南から3地区 (ツリバンドラム、クイロン)・(コーチン)・(コージコート)に分けられ、 レクチャーと加工についての実演デモンストレーションを 各々するようになっていた。 やり方はマドラスと同じ方法でよいというので気が楽であった。 ↑ケラーラ州コーチンでの実演デモンストレーション 指導に3日費やしたが、一日丸々休養することが出来た。 休養日にはインド南端のコモリン岬周辺の観光とあいなった。 ↑コモリン岬と洋上の島にヒンズー寺院。 ベンガル湾、インド洋、アラビア海の3海が此処で一つに合する聖地、 (インドではそう言われている)で大きな寺院が建っており、 大勢の人が観光?に来ていた。 周りに土産品を売る店があったので覗いてみると この辺で採れる貝の細工物が多かった。 ここは日の出と日没が同時に見る事が出来る唯一の土地としても有名である。 また海を隔てた対岸には大きな岩だけで出来ている島があって、 記念堂と寺院が建っていた。 船で行き来出来、我々も船で渡り、寺院に敬意を表してきた。 翌日はここツリバンドラムからマンガロールへ 海岸に沿って走る汽車550キロの旅、 どんなものかとても楽しみであった。
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西村唯雄の「海外体験記」インド編(四) マドラスで最初のレクチャー 1976年 「南インド・マドラス」(8/13〜16) ↑マドラスでの歓迎会 カルカッタから約3時間の空の旅であった。 使用されていた飛行機はインド製のプロペラ機、 35人乗りの小型機であったが、 国内線は殆どこの飛行機が使われているとの事であった。 外国から飛行機を買わない理由は 自分たちはこの程度の飛行機なら作る事が出来るんだという 自尊心からきているらしい。 なるほどなぁーと思った。 マドラスは南インド、タルミナードゥ州の州都で、 ベンガル湾に接した人口約430万人の都市である。 昔イギリス東インド会社があった場所で、 植民地の拡大を図った拠点となった所である。 現在でも南インドにおける政治・経済の中心地としての地位を保ち、 発展している所である。 立派な港もあり、南インド最大の貿易港としてその機能を生かし、 マドラス西部地区に一大工業・商業地帯の建設に力をいれている。 飛行場に到着した時、州政府の役人数人と インド政府のチェアマンも同席して出迎えに来ていた。 早速市内の中心に近いホテルTajCoromandelに案内され、 会議室でマドラスでのスケデュールの打ち合わせ等済ませた。 夕刻マドラス地区の水産物加工業者、輸出業者の経営者、 それと当地の日本総領事館の領事が加わって、 歓迎のディナー会食会が催された。 ここでも我々の名前が紹介され一人一人と握手を交わし、 なんともはや華やかな晩餐会となった。 翌日、市内から少し離れた所にあった 冷凍工場を備えた結構大きな水産物加工会社に案内された。 広場には近郷の諸加工場から参加してきた各工場の従業員が 200人位座って待っていた。 正面には、字幕と数人が座れる雛壇が設けられてあり、 我々が到着した時一斉に起立拍手し、 代表者が我々一人一人に花で作られたレイを首にかける 歓迎の儀式?で迎えてくれた。 こういう事は初めての経験で、何ともてれくさいものであった。 (この会場にはテレビの取材も入っていて、 後日、全国放送されたとの事でした。) 先ず、我々3人が紹介され、 チェアマン、州政府担当者、業者代表の順で講話、 最後に私が日本語で挨拶と簡単なイカ等の加工について 別紙に書いていた通りレクチャーし、拍手のなかで終わった。 会社での会議より何倍も緊張し、終わった時は、何か疲れを感じた。 通訳してくれた人が、足らない所は補足してくれていたようで、 私のレクチャーは上出来だった?と言ってくれた。 やれやれ・・・・・。 ↑マドラスでの実演デモンストレーション 昼食後、工場内で SQUID(やりいか)・CUTLEFISH(もんこういか) の加工についての鮮度の見分け方・加工の処理の仕方・冷凍の仕方を、 現物いかを使用してデモンストレーションを行った。 全工程において、特に細菌の汚染については十分注意しなければならない。 また工場内の衛生管理を徹底する事も大事であるということを述べた。 今回参加した加工会社は日本に冷凍蝦を輸出しており、 漁船では蝦の外、混獲されている、やりいか・紋甲いかも、 蝦と同じく日本に輸出したいということから始まった事である。 輸出蝦の日本での細菌検査で 輸入禁止になった苦い経験をもつ業者もいたとの事、 衛生的な工場で生産して貰いたいものである。 当地での仕事は終り、 翌日午前中はマドラス近辺の遺跡など見ながら観光する事になった。 マドラスはヒンディー教の有名な大きな古い寺院が多く点在し、 また少し離れた南の海岸マハーバリプラムは 岩と石で出来た芸術的価値の高い建造物が多々見られる場所である。 途中で我々は其の中でも有名な寺院、カバーレーシュワ寺院を訪ね、 その建物の外壁に隙間無く宗教的な彫刻が施されているのには驚いた。 (写真参照) マハーバリプラムの海岸近くには切石を積み上げて作った寺院、 奥には巨大な岩を削って作った石窟と像などを彫刻したレリーフ、等々、 他にもいろいろあって本当にインドらしい構造物を見せてもらった。 (写真参照) マドラス市内は見たところ緑多く、 建物も瀟洒な西洋風のものが並んだ美しい街であった。 (但しある地区にはスラム街のような所もあるとの事であった) 翌日はマドラスから急行列車でバンガロール (南部中央に位置している高原の都市、カルナータカ州の州都)まで、 6人部屋特別室で景色を眺めながらリラックスし、 コーヒーやジュースを飲みながらの旅となった。 バンガロールはさすがに高原だけあって カルカッタやマドラスに比べ涼しく凌ぎやすい都市であった。 此処ではすることも無く我々の休養の為の1泊となった。 街の中も落ち着いた西欧風の趣のある街並みが続いていた。 宿泊したところはここでは有名なWest End 名前からして洒落ている綺麗なホテルであった。 欧米人が多く宿泊していたようだった。 翌朝早く一番の飛行機で次の目的地ツリバンドラム (インド南西地区ケラーラ州の州都)に飛んだ。
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西村唯雄の「海外体験記」(三) 3、インド編(つづき) (カルカッタのつづき) ↑カルカッタ市街:牛が寝そべっている。 「インドのカレーは辛かった」 次の日はインド側役人達と今後のおおまかな(これがインド的な)、 スケデュールの打ち合わせをした。 昼食は念願叶って?初めてのインドカレーを口にしたが、 種類の多いのにも驚いた。 我々3人は当ホテルの名物カレーであるチキンカレーを注文した。 皿の中にはやわらかく蒸したチキンの腿肉一本が入っていて 米は長手の米、 それにサラッとしたカレー汁(具の多いどろっとしたものではない)が かけられているだけで、 一緒に運ばれてきた10種類もの薬味 (赤青唐辛子を刻んだ物、後はわけの分からないものばかり) それらを適当に入れてまぜてスプーンで口の中に入れた。 最初はあまり辛く感じなかったが・・・・ しばらくすると頭が痒くなるぐらいの猛烈な辛さが 口の中一杯に広がってきた。 きたきたと言いながらコッブの水を飲まざるをえなかった。 傍で一緒に食事を取っていた役人は我々を見てクスクス笑いながら、 これはまだ序の口ですよと言っていた。 でも日本では味わえない美味しいカレーだったことは確かであった。 午後はまた近くの公園のなかにあるビクトリア祈念堂や インド博物館等を見物。 博物館には古い絵画、彫刻など多く展示されていて見応えのある物が多かった。 翌朝、最初の目的地マドラスに向け国内航空機で出発する事になった。 仕事の事も気になるが、 マドラスという所はどんな都市なのか楽しみでもあった。 (マドラス編につづく)
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西村唯雄の「海外体験記」(三) 3,インド (8/12〜27) インドの国といえば、ヨガだとか、コプラのおどりとか、 牛が街の中を悠々闊歩している得体の知れない不思議な国と思っていた。 ところが、1976年(昭和51年)8月、 日本政府の機関ODA(開発援助機構)より水産会社、 大洋漁業、日本水産、日冷3社に対し イカ等の加工技術者を1名づつ選出しインドに派遣して欲しい、 身分はODA嘱託職員とし日本政府よりの派遣とする、という事だった。 私は大洋漁業からの代表、 各社から2名、計3名がインドに派遣される事になった。 我々3名は出発前外務省内のODA事務所に集合、 ODAよりいろいろ説明があったが 受け入れ側はインド政府の水産物輸出担当部所であり、 向こうのスケデュール通り動いてください。 アテンドは総てインド政府の役人がしてくれるとの事であった。 また、世話してくれた向こうの役人にお礼として渡してください、といって 真珠のネクタイピン等預かった。 派遣される中で一番年長であった私が一応リーダーとなってくれ、 ということで、まあしょうがないかと簡単に引き受けてしまつたが、 これがインド各地を回った時、 イカ等の加工について技術的指導をする前、 関係者大勢のまえで壇上に立って 加工、保管、輸出にいたるまでの工程を 簡単でいいからレクチュアしてくれとインド側から申し出があった。 これは困った事になったなと頭を抱えてしまったが、 インド側役人の中に日本の東京水産大学に留学し卒業した人がいて、 其の人が総て通訳し、皆に伝えるから日本語でOKですとの事、 水産、漁業に共通的な知識を持った人がいたことに 我々一行も安心したことは言うまでもない。 この人には最初の入国から最後出国するまでの期間随分お世話になった。 我々が無事役目を果し帰国出来たのもこの人のおかげと心から感謝している。 ↑笛を吹いてコプラを踊らせている。 【レクチュアと技術指導のインド国内の旅】 昭和51年8月10日東京発。 東京→バンコック→カルカッタ(インド入国2泊)→マドラス(4泊) →バンガロール(1泊)→ツリバンドラム(5泊)→クイロン、コーチン) →マンガロール(3泊)→ボンベイ(2泊)ボンベイ発バンコック →香港(2泊)経由東京着(8月30日) 「東インド・カルカッタ」(8/12〜13) カルカッタの飛行場に インド政府海産物輸出担当部のチェアーマン外10人位の出迎えを受けた。 すぐホテルに案内され、その日は歓迎の昼食会。 お互い紹介しあって挨拶の言葉を交わしただけで終わり、 後は案内を付けて貰って市内見物となった。 案内人は東水大卒の日本語も非常に上手な ナンビアという名の役人であったが、 帰国するまで我々の通訳と面倒を見ていただいた。 さて、カルカッタであるが 何処からこんなに人が出てくるのかと思うぐらい混雑した通りが多く、 噂どおり白い牛が仙人の様な動じない顔つきで 悠々と道路に寝そべっていたり、歩いている姿を見たが、 車や人はその様な牛を当然のように避けて通っていた。 理由を聞いてみた所、 ヒンズー教では牛は神々のお使いをする役をおおせつかっているので 大事にされているとのことであった。 又市中を走っているバスはどれもこれも満員状態、 それでもぶら下がれる所にはバスの外側に多くの人がしがみ付いて乗っている。 見ていると危なくて危険な行為のようだが、 インドでは低所得者の人が多く、 其の為ぶらさがって乗っている人からは バス料金を徴収しないようにしているとのこと。 理由は色々有るもんだと思った。 夕刻カルカッタ第一の繁華街チョーロンギー通りを歩いて見たが、 物凄い混雑でレストラン、映画館、みやげ物店が軒を連ね、 人通りの多いのにはびっくりした。 迷子にならないように案内人の後ろに着いていくのがやっとだった。 宿泊したホテルはチョーロンギー通りにある(歓迎会のあった) 高級ホテルOberoi Grandであった。 ここの州政府はインド人に対しては法律で禁酒が定められていたが、 外国人に対しては飲酒OKで牛肉等の食事もとる事が出来た。 何ともヒンズー教の戒律は厳しいものだ。 しかし州によっては(キリスト教徒の多い州)飲酒OKの所もあるという。 インドという国は多種多様の種族民族から成り立っており、 公用語は対外的には英語となっているが、 国内では、14の言葉が公用語として用いられている。 その証拠に国内通貨のルビー紙幣の裏に 14の言葉で金額が書かれているのである。 実際に国内で通用している言語は30種類以上あるとの事であった。 インドは共和制をとって統一されているが・・ 人口は10億を越す南アジアでは大国でもあるのである。 大変だなと思った。 (カルカッタの項、つづく)
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