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光畑京子の「終戦日記」(十七) <学校の作業でモッコ担ぎ> 昭和20年(1945年) 【9月4日 火曜日 日本晴れの良い天気】 今日、昨日からの病気で朝部屋の掃除をして、 一日寝て、夕方から気分が良くなってので 講読を参考書を見ながら一通り読んでみる。 早く勉強が出来るようになったらいいなあーとつくづく思っています。 でも勉強が出来た時は時々嫌だなあと思った事があるのに 人間て本当に贅沢だなあと思ったりしています。 ↑第一小学校運動場で運動会。青島高女昭和19年卒業記念アルバムより。 【9月5日 水曜日 曇りのち雨】 今日で学校が休みになってもう一週間もたちました。 本当に月日のたつのは早いものだと感ぜずにいられません。 色々と一週間の事を反省してみると、 またこれと言って良い事は一つもしていない。 午前中は家のお手伝いに追いたてられて過ぎてしまう。 たった二つだけ良いと思った事は、 毎日楽しく兄弟3人で日記をつけていること、 勉強少ししていることだけです。 明日からもっと自分でも満足出来るようになるつもりです。 【9月6日 木曜日 雨のち晴れ】 今朝二階で掃除をしていると、 靴のコツコツ又はザックザックと兵隊さんらしいので、 ふと外を見ると私はった思ったのです。 白い桐の御箱がしずしずと言うよりも 何となく急いでいらっしゃるようでした。 戦勝を持って無言のお帰りをなさるのはたいへん嬉しいことですが、 こんなになってお帰りになったのはまことに残念だと思います。 又でも日本が必ず勝つと信じきってなくなられた方も 幸福だとも感じました。 そして私はお詫びをして黙祷を捧げました。 【9月7日 金曜日 晴れ】 二年四組の出校日なので 渡部さんと香月さんがさそってくださった。 学校に行くともう大分集まっておりました。 色々の話をして愉快に遊び、それから作業に取りかかる。 私はモッコかつぎをしました。 ごみを近所の壕に入れるのですけれども かご一杯に入れるのでとても重かった。 一生懸命やったかいがあって綺麗になりました。 帰りに新鮮なナスを五つ戴いて帰る。 夕方はそれはそれは綺麗な夕焼けが出来た。 ↑作業の時間。青島高女昭和19年卒業記念アルバムより。 【9月8日 土曜日 晴れ】 午後からお母さんと弟と妹の三人が歯医者へ行ったので、 留守番がてら鈴木さんと二人で私の家で遊ぶ。 夜しぼりの風呂敷を作る。 【9月9日 日曜日 晴れ】 今朝から大さわぎをしてお父さんと弟と妹と三人で 釣りに埠頭まで行きましたので 今どきはにぎやかな日曜なのに今日はひっそりして とても静かです。 お母さんはたまにこんな日曜もいいね、なんて言っておられる。 午後から自分のセーターを編む。 私は初めてするので何だか嬉しいやら不安やらで一杯になる。 ↑数学の授業。青島高女昭和19年卒業記念アルバムより。 【9月10日 月曜日 晴れ】 学校に行き始業式が行われる。 いよいよ明日から講堂を利用して 一箇学年ずつ授業が出来るようになると校長先生のお話でした。 本当に嬉しい事です。 でも一週間に一度四時間授業なのです。 二年は金曜日、修、国、数、体の時間割でした。 そして一週間に三日間だけ出て来ます。 火曜が作業、 水曜が全校出校日で行軍又は作業、 金曜勉強というように決定されました。 私はこれだけでも出来る事を深く感謝します。
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光畑京子の「終戦日記」
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光畑京子の「終戦日記」(十六) <久しぶりの登校> 昭和20年(1945年) 【8月29日 水曜日 晴れ】 海軍の特別サービスによって、 今日「いたづら小僧」という映画を見学に行きました。 それはとても愉快な映画でした。 短編で働く者の体育というのがありました。 その映画は色々の工場で働いている人は どういう風に体及び体操をしたらよいかというのです。 私はこの映画を見て第一に感じたのは 常に大井先生がおっしゃっていられた 「姿勢に気をつけよ」というお言葉でした。 そして働いた後には必ず軽い運動をやることが大切だと思いました。 ↑青島の水兵さん。大阪の伊藤さん提供。 【8月30日 木曜日 雨】 今日は休みの第二日目の行事として 先ず最初に自分の机の整理をしました。 不要なものは全部焚いてしまいました。 自分の机を整理する位気持ちの良いものはありません。 つくづく感じました。 雨が降ってとても鬱陶しい一日でした。 【8月31日 金曜日 雨】 又今日も昨日と同じような嫌な天気でした。 昨日の続きを又しました。 そして10時頃から始めて午後の3時頃すみました。 母からあまり呑気すぎると言われました。 明日出校日なのにこんなに雨ばかり降り続いて 本当に嫌になると思いながら報道に聞き取れていると、 明日雨が降った場合は2日に延期されると ラジオが言ったので嬉しくなりました。 学校に行く時はやはり青空を仰ぎながら みんなで愉快に休み中の出来事を話すのが楽しかったからです。 【9月1日 土曜日 雨のち晴れ】 又今日も一昨日からの続きの雨が降っている。 せっかく楽しみにしていた出校日もだめになってしまう。 本当に残念でたまらない。 午後からは少し小降りになって 夕方頃から青空が仰がれるようになる。 明日学校に行く事が出来るかと思うと嬉しくてたまらない。 夜庭へ出て空を仰ぐと 色々さまざまな色や光を持っている星が、 明日の出校を共に祝ってくれるような気がしてならなかった。 ↑青島高女跡(現青島大学医学院) 【9月2日 日曜日 晴れ(秋晴れの良い天気)】 朝から気持ちよく学校へ行く。 正門の前に立ち、 私達を立派に教え導く校舎に心から頭を下げる。 雨のためにじゅくじゅくになった道を通りながら行く。 四組の人達がいる所へ行く、みんなとても元気でした。 気持ちのよい快い朝の挨拶をすませて 今までと言っても三日間の楽しい思い出にかかる 色々な馬鹿話に興味を持って腹をかかえて笑っている。 私は急にはっと思いました。 これが敗北した日本国民なのかと思ったからです。 いよいよはじまり、 整列してから神社参拝に出発して拝礼をすませてから、 神社の御社の御前で一学期の終わる式を行いそれから学校に戻る。 校長先生のお話は、 中学校と女学校は当分の間授業が出来ないから、 家にあって自分で自分を修行するようにと言うお話でした。 そして校則にそむいた者は退校させるかもしれないと おっしゃっておられましたから、 私はこの御言葉を立派にまもって行くつもりです。 【9月3日 月曜日 晴れ】 今日は朝からお父さんと二人で麺粉の配給のお手伝いをする。 午後から旅順にいらっしゃった鍋井さんのおじさんがいらっしゃる。 おじさんは2月に大阪と神戸に行っていらっしゃったそうです。 そしてその話をしてくださいました。 私はそのお話を聞いた時に、何かこみあげてくるのを感じました。 今日は頭が痛いので早くから寝る。
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光畑京子の「終戦日記」(十五) <曲阜からの引揚者でいっぱい> 昭和20年(1945年) ↑旧青島日本高等女学校校舎 【8月25日 土曜日 雨のち晴れ】 終礼の時に澤田さんが挺身隊の仕事は今日が終わりであると言われる。 私はその言葉を聞いたとき、たとえようもない気持ちで一杯だった。 こんなになるのもみな残虐極まるアメリカのためなのである。 今も20時の報道で聞いたのによると 人道に背いて原子爆弾を用いて広島市に及ぼした損害は、 実に総人口20万人中死亡者は約6万人に及び、 負傷者は16万人という人員に達しているのである。 なお、そのあとからぞろぞろと死亡者は増えるばかりだそうである。 帰りに学校に出席簿つけに行くと、 チーフー(曲阜)から来た人で一杯であった。 鉄砲の中をくぐって避難してこられた人達ばかりで、 小さな可愛らしい子がたくさん寄り集まって、 歌を唄いながら遊んでいる様子は何とも言えませんでした。 きっと何も知らないのでしょう。 私は青島の人は幸福だとつくづく感じました。 それでもまだまだたくさん沿線付近からいらっしゃるそうです。 今日から義兄さんと姉ちゃんと浩子ちゃんが引っ越していったので 淋しくなってしまいました。 いる時は赤ちゃんはうるさいと思いましたが いなくなるととても淋しい。 どうぞ神様これからの日本を御護りください。 心からお願いいたします。 午後11時記す。 私の好きな歌。 何事のおはしますかはしらねども かたじけなさに 涙こぼるる。 【8月26日 日曜日 晴れ】 全校招集日 今日は日曜であるけれども学校に行って 配給を受けたり、学用品を戴いて帰る。 こんなにたくさんいただいたけれども これを使えるようになるのはいつかと思うと 胸の中は一杯になります。 そしてまた9月10日から授業が始まると言われていたのに、 また延期になると言われてがっかりしました。 でもこれも皇国のためですから じーっと我慢をすることが一番の御奉公のように思われますから、 私は弟妹と3人で独学をする決心です。 【8月27日 月曜日 晴れ】 今日は女子挺身隊の解散式が行われることになっていたが 明日に延期されることになった。 そして午後からは演芸会が催された。 色々の歌を唄ったり、ハーモニカの独奏をしたりして、 とてもとてもそれはにぎやかでした。 特に面白かったのは尾島さんでした。 最後に元寇の歌と軍艦行進曲と海ゆかばを 全員で合唱して閉会しました。 入隊して以来大変楽しかった。 ↑旧日本海軍基地跡の建物(現海軍博物館) 【8月28日 火曜日 雨のち晴れ】 いよいよ解散式が行われる。 とても残念でたまらなかった。 そして参謀の方のお話は、 1、 海軍精神を忘れぬこと。 2、 敗戦したけれども私達現地の者は日本人であることを常に忘れぬこと。 3、 正しくそして立派な大和魂を私達子孫に伝えること。 4、 男子女子ともに我が国復興に一生懸命になること。 5、 現地青少年の体はまだ健全であるから内地の人以上に一生懸命やる。 6、 女子は将来子女を教育すること。 の以上でありました。 私はどんなことがあろうともこのお言葉は一生忘れぬつもりです。 そしてそれにお答えして中学校側から代表者が出て答辞を読みました。 それで解散式を終わり、 その後で皆で楽しく茶話会を開きました。 明日は海軍から特別に映画をしてくださるそうです。
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光畑京子の「終戦日記」(十四) <海軍基地で地雷作り> 光畑さんの「終戦日記」は、 昭和20年(1945年) 6月19日から8月24日まで、空白になっています。 そのことについて、 光畑さんからお便りをいただきましたのでご紹介します。 【お便り】 日記を綴り始めたのは、 学校の連絡便にて記帳するように言われ 書き始めたように記憶しております。 一年生の二学期頃から週に何時間か 軍服作業(釦付け、穴かがり)を学校で始めました。 二年生の一学期半ば頃だったと思いますが、 特別女子挺身隊に指名され(学年で数人)、 青島海軍根拠地で働きました。 軍港の中にあり、どのような作業をしても、 家族は勿論、外部に伝えることのないよう口止めされました。 今でも憶い出すとぞっとすることは、 薄暗い建物の中で 地雷の火薬詰め作業です。 兵隊さんから 落とすと爆発すると聞かされたからです。 ↑旧海軍基地跡(現海軍博物館) 8月15日の当日は、 朝から兵隊さん達の何となく落ち着かない動きに、 私なり 今日は何かが起こるという気配は感じられました。 そして正午近くに海兵隊の方から 作業を止めて外に出るようにと言われ、 海辺の草地に正座させられました。 これから玉音放送が始まるので 心を静めて拝聴するようにと言われました。 しかし、私の能力では天皇陛下の御言葉の内容は 全く理解出来ませんでした。 でも放送が終了した途端、 兵隊さん達全員が号泣し始め、 私達は理解できずに戸惑うばかりでした。 しばらくして兵士の一人が 今日で太平洋戦争は終った――。 日本が負けたと聞かされ、作業を止めて帰途に着きました。 ↑旧海軍基地跡(現海軍博物館) 8月16日から三週間位は休校。 自宅にて自習、 日記をつけていたように記憶しています。 しかし、大通りに掲げてあった蒋介石の肖像画は毛沢東に変っていました。 外出も禁止、泰山路の道路を重慶兵(毛沢東軍の誤りか?)が行進し、 蒋介石兵との戦闘もありました。 数日間の出来事でしたが――。 近隣の日本人は幸いにも無事でした。 我が家の左隣と向かい側にも数世帯の日本人家族が住んでいました。 お付き合いはありましたが名前は憶えておりません。 右隣は中国人でした。 第一婦人の長男は京都の日本人小学校卒業、 終戦の年は青島日本医専の在学生、 藩明石さん(1984年に訪青した折は転居しており 再会は出来ませんでした)。 ↑光畑京子(旧姓小寺)さんの旧宅。84年8月撮影。泰山路40号 ↑同上、中庭にて。 青島市内の状況が少し落ち着き、 週何回かの割り合いで登校したように憶えております。 そして軍事基地から食料品(砂糖、米など)が学校に届けられ、 生徒に配給されました。 かなりの量を数回、家に持ちかえったような気がします。 10月8日に学校明け渡しが決まり、 12月31日の引き揚げの日までの出来事は、 また追って書いてみます。 以上です。 次回より「終戦日記」(8月25日から)を再開します。 ご期待ください。
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光畑京子の「終戦日記」(十三) <残るは女子供と老人ばかり> 昭和20年(1945年) 【6月11日 月曜日】 今日から今週一杯、午後は勤労動員ということになる。 その時は、無言の行で行うこと。 飯島先生からご注意がある。 それなのに1時間目の合同の生物が行われるので、 講堂で先生をお待ちしているときに、 みんながあまり騒いでいたので桑原先生からご注意をうける。 まだ飯島先生からご注意をうけて物の5分とたっていないのに こんなだらしのない事ではいけないから、 今後二度とこんなことのないように気をつけましょう。 放課後白鉢巻の布をいただく。 明日から鉢巻をきちっと結んでしっかりやりましょう。 ↑鉢巻姿も凛々しく。(昭和19年卒業記念写真から) 【6月12日 火曜日 晴れ】 勤労動員の二日目、今日も専攻科生の方が来てくださる。 する時は静かでよいが、 始まる前ももう少し静かにしなさい、とおっしゃる。 明日からはこの頭に結んでいる白い鉢巻のように潔白な心で、 私達の真心がこの軍服を着なさる兵隊さんに通じますように 頑張りましょう。 【6月13日 水曜日】 今まで約1年半、二人でどんな事も隠さずに話しあい、 教えあった中尾さんも、 明日いよいよ済南におたちになる。 本当に悲しいことです。 でもこれもお国ためですから仕方がありません。 【6月14日 木曜日】 一時間目から涼しい校庭の木陰で救急の訓練を行う。 これからは、銃後の女学生として恥ずかしくないように もっともっと訓練をしましょう。 【6月15日 金曜日】 放課後、宮崎宮司から、天剣隊のお話を聞く。 本当に始めから終わりまで感激しない所はありませんでした。 私達も天剣隊の神様の御心を受け継いで 勤労に、日常のことも、もっともっとしまりをつけましょう。 このお話の内容一番良く表している歌は、 八重桜 共に散らふぞ 皇国のために でした。 本当に我が国特有の大和魂が表れていると思った。 そして最後蹟書の前に立ったときは、 自然に頭がさがりました。 【6月16日 土曜日】 昼食をしているとサイレンが鳴る。 急いで身支度をして校庭に出る。 並んで帰らなくてよいのだそうである。 家について20分位すると空襲になる。 今日も無事に命を長らえることが出来たのであるから、 最起御奉公のつもりで、益々国の為につくしましょう。 【6月17日 日曜日】 私達の隣組も大分出征なされるので、 女と子供と年老の方ばかりになったから、 私達が大いに頑張らなければいけないと思った。 午後山田さんの家のミシンが21日の日に 出征すると言っておられた。 今は国を挙げての総力戦である。 滅私奉公の心持ちで行いましょう。 何事も。 ↑現地召集出征兵士の記念写真。(大阪の伊藤さん提供) 【6月18日 月曜日 日本晴れ】 今朝ふと目をさましてあたりを見回すと、 何とも言われぬ良い空気、新鮮な匂いがしてくる。 急いで飛び起きて窓を開けると、 可愛らしい雀が赤いお屋根の上でチューチューと鳴いている。 今週もあの雀のように朗らかに過ごしましょう。 【6月19日 火曜日】 ― 空白 ― ※筆者の光畑京子さんは その後「特別女子挺身隊」に任命され、 海軍基地で危険な作業に従事されました。 8月15日前後の様子は別途お便りをいただきましたので、 次回に載せたいと思います。
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