|
光畑京子の「終戦日記」(十二)先生の送別会 ↑青島高女運動会風景(昭和19年卒業記念アルバムより) <先生の送別会> 昭和20年(1945年) 【6月5日 火曜日】 父兄会がある。今朝、お母さんが来てくださると言っていた。 1時間目は体操を早めにすませて2時間目を待つ。 いよいよ授業が始まる。 後ろには父兄の方が一杯参観していらっしゃる。 お母さんも来ていた。 何だか嬉しいやら恥ずかしいやらで胸がどきどきする。 帰ってお母さんに今日の出来事を聞くと、 もう少し勉強しなさいと言われる。 これからは一生懸命勉強しましょう。 そして校長先生のお話では 夏休みの時は勤労奉仕に行く。 その時は一生懸命に頑張りましょう。 【6月6日 水曜日】 中尾さんが疎開すると言うので、 もう二人で学校へ来たりすることや、 帰ったりすることが出来なくなるから、 今日三宅さんと習字会に行く約束をしたけれどおことわりする。 せっかく仲良く1年から松原さんや中尾さんと三人で 今もかわりなくしているのに、 本当に悲しいことです。 でもこれもみなお国の為ですから、しかたがありません。 【6月7日 木曜日】 橋本さんと二人で習字会に行く。 三牧さんと飯倉さんとに会う。 今日のお稽古は、 悪言不出口苟語不留耳 でした。 本当これからはこの言葉を守って日々の行いをしましょう。 【6月8日 金曜日】 三輪先生と城戸先生の送別会がある。 やさしい、いい先生がおやめになるなんて とても淋しくなります。 三輪先生に私達は習いませんでしたけれども、 先生の言葉を聞いている時は涙が出てきました。 城戸先生はとてもやさしく面白い先生でした。 考査の時は練習問題を作ってくだされたりしました。 一年間も生物を習った先生なので余計にそうでした。 そして、月曜日の生物の時間に、 みんなが眠い眠いと言ったりして、 一番最後の時間だと知っていたなら あんなことは言わなかったのに。 本当に悪いことをしました。 ↑青島高女の先生(中央が城戸先生) ↑同(中央が三輪先生)(昭和19年卒業記念アルバムより) 【6月9日 土曜日】 新しい防空服を着て行く。 なんだか外を歩くのも恥ずかしい。 夕方お手伝いをして発煙筒を燃やす。 これからの防空日はいつも 私とお隣のお姉さんとおばさんたちと燃やすことにする。 役目はなかなか重い。 【6月10日 日曜日】 午後から中尾さんの家に鈴木さんと二人行く。 ボールや色々のことをして遊ぶ。 夜、兵隊さんがいらっしゃる。 ↑青島高女運動会風景2(昭和19年卒業記念アルバムより) |
光畑京子の「終戦日記」
[ リスト | 詳細 ]
|
光畑京子の「終戦日記」(十一) <寂しい友達とのお別れ> 昭和20年(1945年) 【5月27日 日曜日 晴れ】 午前中に色々な物を洗濯する。 午後から少し休んで、 高橋さんの思い出草を書いてから 自習をしたり、ノートの整理をする。 【5月28日 月曜日 晴れ】 今日、松原さんと中尾さん、3人で去年に帰ったつもりでお話をする。 あいかわらず松原さんは面白くて朗らかなので、 まるで1年生になったような気がしました。 【5月29日 火曜日 晴れ】 高橋さんも今度、北京の女学校に転校することになる。 せっかく仲良くなったばかりなのに 又お別れすることになりました。 でもこれもお国のためなのです。 【5月30日 水曜日 晴れのち雨】 今晩は道朗兄さんの同期生の 海軍少尉候補生の小森さんがいらっしゃる。 そして軍隊生活の面白い話をしてくださいました。 海軍では釣り床を50秒以内に釣らねばならないのだそうです。 そして今晩は雨が降ったので、おとまりになりました。 【5月31日 木曜日 雨のち晴れ】 今朝は昨日から降り続いて雨は凄く降っております。 時々ピカッピカッと稲光が起こるかと思えば、 ゴロゴロゴロと雷の音がなると、 何だか臆病のようですけれどもとても怖かった。 午後から日本晴れの好い天気である。 夜、山田さんのおばさんと喬ちゃんが遊びにいらっしゃる。 ↑6月からは夏服です。昭和19年卒業記念アルバムより。 【6月1日 金曜日 晴れ】 午後から小森さんがいらっしゃる。 今日は軍艦内のお話を聞く。 夜は制服の整理をする。 今月もおくれをとらぬように頑張ります。 【6月2日 土曜日 晴れ】 これからは楽しい食事である。 一時限目の作業で大分おなかがすいている。 サイレンが鳴り出す。 手早く止めて支度をする。 近来にない警報なのでいそいで家に帰る。 【6月3日 日曜日 晴れ】 午後から鈴木さんの家で 川島さん、中尾さんの4人で音楽体操をする。 色々の話や写真を見せていただく。 夜は裁縫をする。 【6月4日 月曜日】 今日から待ちに待った夏の制服を着る。 去年少し長目のを着ていたので今年はちょうどよい。 学校に行く。 とても揃ってきれいでした。 明日は父兄会だから勉強して早く寝る。
|
|
光畑京子の「終戦日記」(十) <陸軍病院へ慰問> 昭和20年(1945年) 【5月21日 月曜日】 どうしてこんないやな気分を与えるのだろうと 私は人の話しているのに耳を傾けてはっとすることがある。 それは「ひいき」という言葉である。 ○○さんは○○先生に「ひいき」されているとか、 色々さまざまなことを言っている。 第一に私は何だか「ひいき」という言葉が気にくわない。 人のことでも口惜しくなって「ひいき」なんて、 こんな変な言葉はなくてもいいような気がする時がある。 【5月22日 火曜日】 昭和14年の今日は畏くも天皇陛下におかせられましては、 私達青少年にありがたい勅語をお下しになされたのです。 この良き日に当たりまして、学校では今日奉読式が行われ、 式の後に行軍を行いました。 私達2年生は陸軍病院に行って慰問を行いました。 病室に中尾さん、森沢さん、鈴木さん、吉田さん、高橋さん等と 20人位で行きました。 思ったより兵隊さんがお元気なので安心しました。 慰問の最中に隊長らしいお方がお見えになって、 怪我をしている兵隊さんの所にいらっしゃって、 ご自分で包帯を取ってみてあげていらっしゃる様子を見た時、 私はあんなこわい分隊長がやさしく部下をかわいがっている様子は 神のように尊く思われました。 そして鈴木さんが児島たかのり(高徳)を歌った時に、 兵隊さんはみんな下を向いて黙って聞いていらっしゃる。 短い御慰問でしたけれど、 お別れする時はとても名残りが惜しかった。 帰りに雨にあってぬれる。 でも兵隊さんのことを思えばなんでもありませんでした。 ↑陸軍病院を慰問する幼稚園生。写真は大阪の伊藤さん提供。 ↑旧陸軍病院跡地には現在立派な病院が建っている。 【5月23日 水曜日】 夕方、浩子を連れて山本さんの家にお使いに行く。 夜、山田さんのおばさんと喬ちゃんがあそびにいらっしゃる。 【5月24日 木曜日】 7時の報道、はっと思って、ラジオのスイッチをひねる。 大東亜戦争が益々熾烈の度を加えてくる。 いつもめざましい戦果が赫々とあがっていますが、 最後には必ず戦果の大半は特攻隊なりと言われている。 本当に敵艦にぶつかって行くのには 神様でなくては出来ないことだと思った。 私達は特攻隊にはなれませんが、 この精神だけでも受けついで、軍服を行って行こう。 【5月25日 金曜日】 今日は午後4時より横山文雄先生の民団葬が行われる。 今より2年程前に未だよくわからない音楽をお教えくださった。 私達の恩師が無言の凱旋をなされたのです。 叱られた事、誉められた事、色々な事が思い出されます。 本当に優しい先生でした。 【5月26日 土曜日 晴れ】 午後から山田さんの家にミシンをかけに行って、 制服に飾りミシンかけてたりする。
|
|
光畑京子の「終戦日記」(八) <引越しのお手伝い> 昭和20年1945年 【5月11日 金曜日】 今日と明日と軍服作業である。 今日は皆が全力をあげて行ったために 1080枚仕上げた。 私達は一生懸命にやればできぬことはないのであるから、 これからは倍以上も頑張りましょう。 ▼5月12、13両日、病気のため書きませんでした。 【5月14日 月曜日】 放課後、鈴木さん、高田さんと3人できれいに掃除をして帰る。 そして教卓の中を整頓する。 この頃、教室をお掃除する人はどうしてなまけるのだろうと、 時々思うことがある。 でも私はいつも鈴木さんと二人で、 しない人はしなくてよいと言って二人でする。 早くみんなが働くようになってくれればいいなあと思う、 【5月15日 火曜日】 国旗掲揚が行なわれる。 朝の気持ちがよい時にあの美しい日の丸が 松の間から上がる時は何とも言えない気持ちになる。 本当に日本人に生まれてよかったと思う。 【5月16日 水曜日】 千葉さんお家の人が越していらっしゃる。 夜、山田さんのおばさんが朝鮮に疎開なさるので、 小さな別れの会を開いて楽しくお別れをしました。 こうして一人二人といらっしゃってしまったら、 本当にこの隣組もさびしくなってしまうことでしょう。 【5月17日 木曜日】 今日、またこの間の病気がおきて、 明日の漢文を調べてすぐ寝る。 【5月18日 金曜日】 昨日予習した甲斐があって、 今日の試験は大体出来ました。 【5月19日 土曜日】 午後から高井先生のお家の引越しの手伝いに行く。 淄川路から徳平路の家までは相当の道のりです。 でも私は1年の日下さんと、2年の加茂さんと一緒に運びました。 専攻科の人もお手伝いに来ていました。 6時近くになってから帰る。 良い事をした後はとても気持ちがよい。 霧の深い、そしてアカシアの緑に両側が彩られている奉天路を 私は黙々として家に帰りました。 ↑旧奉天路(現遼寧路) 【5月20日 日曜日】 今日も昨日と同様に午前中だけ 高井先生の家に手伝いに行く。 午後から地理・物象を整理する。
|
|
光畑京子の「終戦日記」(八) <水不足深刻> 昭和20年(1945年) 【5月6日 日曜日 晴れ】 3、4日前からお悪くて寝ていらっしゃった 吉木さんのおば様が今朝入院なさって 夕方の七時50分に永眠なさいました。 何だかうそのような気がしてたまらない。 母も8時ごろ病院に行って その様子を詳しく話してくださいました。 一番下の赤ちゃんが可わいそうだと言って泣いていました。 私も目頭が熱くなって自然に泣けてきました。 【5月七日 月曜日】 夕方からひさし振りに雨が降って雷がごろごろと鳴っている。 この雨で今まで水の出なかった所に出るといいなあと思った。 何しろ日常生活でも何でも、水は非常に大切であるから、 何処の家も公平に出るようにと思った。 【5月8日 火曜日】 私は大詔奉戴日にいつも決まって奉読される勅語を拝聴すると 急に胸がひきしまって、 必勝の信念で胸がいっぱいになって来るのである。 校長先生は今日、 努力した方が必ず勝つのであるとおっしゃった。 体操の時間に運動場の修理を行う。 ↑青島高女運動場:昭和19年卒業記念アルバムより 【5月9日 水曜日】 午前中の防空演習で地下室に避難しました。 奥の方の人がさわいだので中林先生が注意なさる。 それでもきかないので対島先生が、 2年よりも1年の方がしずかだと言ったら、 みんなやっとしずかになった。 私は2年になった甲斐がないような気がした。 これからは1年に笑われぬような立派な2年になろう。 【5月10日 木曜日】 帰ってから、浩子を抱いて益都路までお使いに行く。 途中に支那人(中国人)の露天がたくさん並んでいる。 そして、そこには人がいっぱい見ている。 何かと思って覗くと、 日本人の着物を売っていた。 こんないい着物があったならば支那人の手に渡さないで、 内地の罹災者に送ったらどんなに喜ぶだろうと思った。 無念とくやしさでいっぱいになった。
|




