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太平角一路と栄城路の家 四方路と維県路の探訪を終えた私たちは、 栄城路と太平角一路に向かいました。 どちらも八大関の別荘地のど真ん中です。 栄城路1号と41号に日本人の方が住んでいたそうです。 41号の家が先に見つかりましたがかなりの豪邸です。 広い庭に樹木が生い茂り、豪邸全体の写真を撮ることもできません。 ここに住んでいた方が引越しされて1号にも住んでいたそうです。 こちらも広い庭のあるお邸でしたが、 足の悪い私は道路の奥まで歩く元気はなく写真は諦めました。 ↑栄城路の日本人旧宅。 ↑鬱蒼とした庭に隠れて豪邸の全体像はわかりません。 次に向かったのは太平角一路11号です。 ここは私のブログにコメントを寄せていただいた、 「むかみき」さんの旧宅です。 太平岬の根元部分に当たり、私も一番好きな景勝地です。 元イギリス大使館別荘地跡の番地が10番地で、 次が21番地に飛んでいましたので一度通り過ぎ、 また戻って、その間の道を入って行きました。 一番奥まったところに3階建ての瀟洒な建物が見えました。 それが11号でしたが、 現在、内外装とお庭のお手入れ中で住人はいません。 道路の途中の住宅も工事中で車が通れず、 写真はM田さんにお願いしました。 ↑太平角一路11号のプレート。 ↑3階建ての瀟洒な建物はただ今お手入れ中。 ↑さぞ見晴らしもすばらしいでしょう。 栄城路も太平角一路も、 私のように青島の下町に住んでいた者にとって、 こんなすばらしい環境の豪邸で暮らしていたとは、 まことにうらやましく、夢のようなお話です。
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日本人が住んでいた家
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大森貞郎氏旧宅探訪
↑大森氏の旧宅は破壊される寸前でした。
先般東京で行われた羊会の同窓会で、
この辺り一帯は黄島開発区に向かう道路になるそうで、
取り壊し工事が進んでいます。 M田さんが大森氏に、 「昔住んでいた濰県路の家がどうなっているか見てきて欲しい」 と頼まれたそうで、 私たちはモルトケ兵営の写真を撮りに行った帰りに、 濰県路に寄ってみました。 場所は膠州路から市場3路に抜ける道で、 1995年に青島で行われた同窓会のとき、 私も一度見に行ったことがあります。 この辺り一帯も取り壊し工事の最中で、 かつては高級アパートだったと思われる瀟洒な建物も、 崩壊寸前でした。 まだ辛うじて残っている建物を見て、 私たちは顔を見合わせ、 「間に合ったね」 と、胸を撫で下ろしました。
↑このアパートの3階の部屋から
毎日、膠州湾の出船入船を眺めていたそうです。大森氏はこの3階の部屋から膠州湾を行き交う客船や貨物船を 毎日眺めていたと聞いています。 大森氏と私は少年時代浅からぬ因縁があります。 小学校低学年時代は青島神社近くに住んでいて家も近く、 姉同士が同級生ということもあって、 何度か遊びに行ったこともあります。 背が高い少年でしたが私と同じ運動神経のほうはまるでだめで、 中学入試の千メートル走では二人でビリ争いを演じ、 仲良く落第した思い出があります。 あれから幾星霜、それぞれ進んだ道は違いますが 変わり行く青島の街並みを前にして、 ただただ歴史の無常を感じるのでした。 ↑6月16日は端午の節句。 手作り粽をたくさんいただきました。 |
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伊藤さんの旧宅は銀丁百貨店のすぐ裏にあった ↑伊藤さんの旧宅は高密路のこのあたりにあった。 昨年の暮れも押し詰まった12月17日、 来青中の伊藤千枝子さんの旧宅跡を訪れました。 伊藤さんの旧宅は当時青島一の繁華街だった中山路(旧山東路)のすぐそばです。 中山路から高密路の横道に入り、 M田さんの車が空地を見つけて外に出ると冷たいビル風が吹き抜けます。 昔、膠州路が中山路に突き当たった丁字路に銀丁デパートがありました。 そのすぐ裏に伊藤さん一家が住んでいたそうです。 今は銀丁デパート跡にビルが建ち、 伊藤さんの旧宅があった敷地もそのビルの中に飲み込まれた形となっています。 ↑伊藤さんの旧宅があった高密路の付近図。 中山路には高級商店や映画館、レストランが並んでいましたが、 一歩横道に入った高密路には日本人の住民も少なく、 周りはほとんど中国人でした。 ですから伊藤さんには日本人よりも中国人のお友達が多かったそうです。 昭和12年の邦人総引き揚げのときも、 伊藤さん宅に押し入ろうとした中国人を、 近所の中国人が「ここは私の家だから」と言って追い払ってくれました。 ↑現在の高密路。 昨年、中山路に劈柴院が復元されましたがた、 この劈柴院の中の小さな店で包子(肉饅頭)を買って食べるのが 伊藤さんの少女時代の楽しみでした。 今、一年に数回青島を訪れ、 忠の海(第一海水浴場)前の王朝大酒店ホテルに宿泊し、 静かに波打ち寄せる遠浅の海岸を一日中眺めて過ごすのが、 伊藤さんにとって一番幸せなひとときなのです。 ↑昨年復元された劈柴院。 この路地の中に小さい食べ物屋が並んでいる。 |
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沢田氏、田辺氏旧宅探訪 ↑澤田國男氏と田辺卓氏の旧宅周辺地図。 先日、沢田國男氏と田辺卓氏が来青されました。 忙しい日程を割いていただいて、 ご両名の旧宅を案内していただきました。 まずはいつもの通りM田さんの車に乗って 田辺卓氏旧宅へ向かいます。 江蘇路から観象二路に入って行くと、 間もなく大きな邸宅がありました。 お父上が製薬会社の技術者だったという田辺宅はまさに豪邸。 ↑田辺卓氏の家は豪邸でした。 ↑同横から見た田辺氏旧宅。 しかし、これだけではありません。 この豪邸の後ろにもう一軒豪邸が聳え立っていました。 こちらのほうは三井、三菱の役員の社宅用に貸していたそうです。 ↑田辺氏旧宅の奥にもう一軒ありました。 そして今度は観象一路の沢田國男氏旧宅に向かいましたが、 その途中にもう一軒田辺氏の持ち家がありました。 こちらも更に豪邸で、田辺家の財力は計り知れません。 ↑田辺家の持ち家はもう一軒ありました。こちらも豪邸です。 次に訪れた沢田氏の旧宅は観象一路26号です。 こちらも大きな邸宅です。 ↑沢田氏の旧宅。戦後増築された部分もありますがやはり豪邸です。 M田さんは取材のため家の中に入って行きましたが、 階段を下りなければならないので私は上から写真を撮って我慢です。 ↑M田さんは階段を下りて家の中まで取材です。 今は、この辺も家が建て込んでいますが、 高台ですから昔は見晴らしがよかったはずです。 沢田氏にお聞きしますと、 やはり海のほうまで見渡せて、 日本航路の出船入船がよく見えたそうです。 羨ましい環境にお住まいだったのですね。 ↑観象山からの眺めは絶景。 |
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無棣路で会ったおばあさん 今回の下町探訪は無棣路です。 無棣路4号に峰村氏、5号が松村医院、 6号にIさんが住んでいたことがわかっています。 大まかな見当をつけて熱河路から横道に入ると、 そこが無棣路でした。 ↑無棣路近辺の地図。 M田さんが車から降りて一軒一軒、番地をたどって探しましたが、 無棣路4号、5号の建物はもうなくなっているようです。 あきらめずに先に進むと、 大連路との角に3階建ての古い建物がありました。 そこの2階が無棣路6号甲、 1階が6号乙になっています。 ↑無棣路6号甲、乙の建物。 ↑無棣路6号甲が2階。半地下のような入り口が6号の乙だった。 私が写真を撮っていると、 1階の6号乙の入り口からおばあさんが出てきました。 不動産屋を営んでいるらしく、物件を書いた紙がたくさん貼ってあります。 ↑無棣路6号乙からおばあさんが出てきた。 入り口に不動産の物件を書いた紙がいっぱい貼ってある。 M田さんが、 「昔ここに日本人が住んでいたんですよ」 と話すと、 早速、家の中から小包のような大きな封筒を持ってきました。 日本人から送られてきた郵便物でした。 発送人を見ると、千葉県市川市にお住まいの方です。 ↑お婆さんが持ってきた大きな封筒。差出人は日本人。 私はその封筒の写真を撮って、建物の周りを歩いていると 「足立さん、足立さん」 と、M田さんが呼んでいます。 行くと、M田さんはもう家の中に招き入れられて、 何やらビデオカメラを回しています。 何を撮っているのかと覗くと、 テーブルの上に古い写真がたくさん並べてあります。 「この写真は以前、日本人一家がこの家に来たときのものだそうですよ」 「ほう!」 この家の家族と一緒に、日本人の家族がくつろいでいる写真でした。 そのほか、 この日本人家族がここに住んでいたときのモノクロ写真もありました。 子供たちの名前と当時の年齢、 そして60数年経った現在の年齢まで書いてあります。 ↑ここに住んでいた日本人家族の写真。 このおばあさんがこの家に住み着いたのは5歳のときだそうですから、 当然、日本人は敗戦で引き揚げた後のことです。 お互いに知らない者同士です。 それでも、この写真を、ここのおばあさん一家は、 大切に大切にしまっていたのです。 青島人はほんとうに純朴で、やさしいですね。
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