青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

生活日記

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さよなら電気館

さよなら、電気館



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   ↑かつての電気館跡。2007年撮影



あれは私が群馬の伯父の家に預けられ、

2年後青島に戻ってからまだ間もないころでした。

その日、姉と義母は映画を見に行き、私は一人いじけて留守番をしていました。

そこへひょっこり父が帰ってきて、


「何だ、ひとりか」

「うん、みんな映画見に行ったよ」

「お前は行かなかったのか」

「『風の又三郎』を見に行きたかったけど、

『愛染かつら』だっていうから・・・」


当時大人気だったメロドラマ『愛染かつら』が青島でも上映され、

厳しい戦局にもかかわらず女性たちは競って映画館に足を運んだのです。


「そうか。じゃ、『風の又三郎』を見に行こうか」


貿易商の父はよほど暇だったのか、

それとも2年間私を手離した罪滅ぼしのつもりだったのか。

父の思わぬ言葉に私は小躍りして電気館に連れて行ってもらいました。

映画は、又三郎が町の小学校から田舎の小学校に転校になり、

嵐の晩、また転校して行ってしまうというストーリーで、

私自身を又三郎に置き換えて想像することができて満足でした。

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   ↑聊城路の階段から工事中の市場3路を見る。
    電気館はもうない。




あれから67年が経ち、電気館もついに姿を消しました。

特に優れた建物でもないし、

周囲も貧民窟のようにみすぼらしくなっていましたので、

取り壊しも致し方ないことですが、

思い出の建物が次々と消えていくのは寂しいものです。

ありがとう、電気館、

ありがとう、風の又三郎


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   ↑解体された電気館のあった一帯。
    青島劇場が見える。

李さんの結婚式

李さんの結婚式



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  ↑李さんの結婚式はこの教会で行われた。
   この教会は青島で最も古い教堂で、昔の日本人は時計台と呼んでいた。




7月17日、土曜日。

李さんの結婚式の招待状をいただきました。

江蘇路のキリスト教会で式を挙げるというので

これはぜひとも出席しなくては、

と、T君の車で出かけました。

途中道路の混雑で式には間に合いませんでしたが、

教会の外で記念撮影中でした。

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   ↑私は遅れて到着したため式は終わっていた。




披露宴は山東路の“海明威大飯店”という大きなレストランです。

レストラン前の広場では大人数の楽隊と獅子舞が新郎新婦を出迎えます

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   ↑披露宴は山東路の海明威大飯店で。
    にぎやかな楽隊と獅子舞がお出迎え。

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   ↑披露宴で新郎新婦のご紹介。




レストランの中には百人以上も入れるかという大宴会場があります。

新郎新婦の入場から新郎新婦紹介と口づけ、

新郎新婦ご両親紹介とご挨拶。

ケーキカット、など、

披露宴は日本の結婚式とほぼ同じように進行し、

新婦のお色直しも5回ほどありました。

かつてのような延々と続く宴会はなくなり、

万事合理的、現代的な結婚式でした。

ともあれ、李さんの幸せそうな笑顔がたいへん印象的でした。

おめでとう、李さん。

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   ↑披露宴もたけなわ。新婦の笑顔がすてきです。
伊藤さん一家の青島見学


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  ↑伊藤さん親子のおばあさんの旧宅。辛うじて外壁だけ残っていた。
   一番左の家にお母さんが住んでいた。一番右が割烹「時雨」。




7月5日から8日まで、

アメリカ在住10年という伊藤さん一家がやってきました。

6日の午前中は例によって由君の運転で日本人学校見学。

伊藤さんご夫妻と女の子3人、

(小3、小5、中3)という学齢の子供さんの見学は珍しく、

校長先生自ら各クラスの授業参観をしながらご案内していただきました。

お昼は飲茶を食べ、伊藤家の旧宅へ向かいました。

聊城路の旧宅は解体寸前でしたが辛うじて外壁が残っていました。

伊藤さんのお母さんが少女時代を過ごした家と、

お母さんのおばあさんが営んでいた割烹料理「時雨」の店です。

お孫さんのそのまたお孫さんたちが、ゆかりの地青島を訪れたわけです。


そのあと、お母さんが通っていた第一小学校運動場と

貯水山公園(旧青島神社)を見学。

暗くなる前にドイツ軍の地下司令室を見学したいというので、

青島山砲台跡へ急ぎました。

日独青島戦争の戦跡を訪ねるのも子供たちには大切な勉強です。


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   ↑ドイツ軍の地下司令室入り口。

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   ↑ドイツ軍兵士に敬意を表して敬礼。




翌7日の午前中は山下さんに案内をしてもらって、私は休養しましたが、

朝一番に小魚山の眺望を楽しみ、

即墨路市場で買い物をし、お昼はギョーザ。

ビール博物館の見学中に私と山下さんは案内役を交代しました。

青島見学の最後は、八大関の花石楼から海岸沿いに遊歩道を散歩し、

ホテルへ帰りました。

ホテルは最近開業したばかりのル・メリディアン。

新しくできたジャスコが隣にあり、3階に広いレストラン街があります。

将来、市の中心はここになるだろうという豪華で便利なビル街です。

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   ↑八大関、湛山、第2海水浴場の遊歩道で一休み。

青島神社考

青島神社考




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   ↑青島に上陸した水兵も、
    まずは神社参拝して武運長久を祈った(?)。
    写真は、奈良県の白水さん提供。




1914年、ドイツから青島の権益を受け継いだ日本は、

モルトケ山(現貯水山・日本名若鶴山)の中腹に青島神社を建造しました。

1918年着工、1919年10月竣工。

その広大な敷地は靖国神社のほぼ2倍といわれます。

遼寧路から大鳥居をくぐると緩やかな坂の長い参道があり

その先の広場からさらに長い階段を昇りつめたところに

小鳥居と神殿がありました。

百段以上ある階段のほかに、右のほうに細い山道があり、

その途中に小さい休憩所、

さらに登ったところに猿舎がある小動物園がありました。


桜の季節には参道の両側の桜並木が咲き誇り、

境内のいたるところに植えられた桜の樹の下での花見、

毎年春秋に行われる大祭のにぎわい。



そこはまさに私たち子供たちにとって、

自由に遊べる広場であり、公園であり、

天国のようなものでした。


日本国内には至る所に鎮守様があるように、

この荘厳な青島神社の存在は、在留邦人にとって

「ここは日本なのだ」と思わせるに十分な仕組みだったのです。

日本が手に入れた植民地に、いち早く神社を建造した意味が、

今鮮烈によみがえってきます。

1923年、日本の軍政から中国に返還されたとき、

日本居留民団や日本の小中学校の敷地と共に、

青島神社の敷地もまた日本の権益として確保されたのです。


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   ↑青島神社大祭。階段を上がるお神輿。


□   □   □   □   □

当時青島神社の宮司の子息だった

羊会会長の宮崎豊茂氏からいただいたメールによりますと、

青島神社の社格は「別格官幣社」、ご祭神は天照大神と明治天皇。

ご神体は「鏡」だったそうです。

お宮に奉仕する神官は内務省所属の公務員で、

宮崎氏の御父上も公務員の転勤として青島神社宮司に赴任したことになります。

神殿の周りには松が植えられ、

その松の緑を守るため一般の立ち入りは禁止され、

山全体が柵または鉄条網で仕切られ、

青島神社への出入り口は大鳥居のある表参道、

東側は黄台路につながる南門、

北側は吉林路に出る北門の3か所でした。

敷地としては妙心寺(吉林路と泰山路の角)の裏近くまであり、

そこにお稲荷さんがありました。

神官の身分は、宮司、禰宜、主典とあり、

武徳殿(階段下の広場の左側)のすぐそばに社宅がありました。


終戦になると、

できるだけ早く青島神社を閉じて

御神体を本宮にお返ししなければなりません。

居留民団の方がたと相談の結果、昭和20年(1945年)12月末、

引き揚げの順番を早めてもらって船に乗り、鹿児島港に上陸しました。

落ち着き先の山口県から父はすぐに上京し、

無事、明治神宮に御神体をお納めし、お役目を果たしました。

(以上、宮崎豊茂氏のメールから)


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   ↑青島神社小鳥居。


□   □   □   □   □


現在、旧青島神社は貯水山公園として整備され、

市民の憩いの場として日本統治時代以上のにぎわいを見せています。

1988年5月、私と姉は44年ぶりに青島の地を踏み、

真っ先に向かったのがここ青島神社でした。

階段の上のほうに一塊となって日向ぼっこをしていたお年寄りたちが、

懐かしげに声をかけてきました。

この辺に日本人が大勢住んでいたことをよく知っていました。

第一小学校も知っていました。

そのあと、私たちの住んでいた家などを回りましたが、

どこに行っても久しぶりの日本人の訪問に何のこだわりも見せず、

気持ちよく迎えてくれたのです。


最近出版された青島関係の書物の中に、

「青島神社は敗戦直後火が放たれ、市民たちの手によって打ち壊された」

などというあり得ない話が記されています。

これは10月10日の青島高女の火事を見誤った

誤報によるものと思われます。


青島日本中学校教諭・及川作松氏の記録「青島引き揚げ」の中に、

次のように書かれています。(青島中学25期生同窓会誌「魚山」)


「4月の14日、いよいよ引き揚げの日が来た。

許可されただけの荷物をトラックに積んで、

指定の集合場所である青島神社前の広場に集まった。

これがほとんど最後の船で、

あとしばらく間を置いて一回出るというのであったから、

帰る人々は多かった。

民団長も総領事もいっしょだった。

皆で青島神社に最後の参拝をし、

それぞれ係員の指示に従って班を編成した。」


つまり、青島神社の宮司は12月の引き揚げ船に乗るまで

神社内の社宅に居住し、

及川氏は翌年4月14日の船に乗る際に、

青島神社に最後の参拝をしたのです。

その間、青島神社が焼打ちに遭ったなどということは、

根も葉もないまったくの作り話であることがわかります。


ならば青島神社はいつ解体されたのでしょうか。

私は以前、神社の近くに住んでいたT君に聞いたことがあります。

彼は子供のころ(80年代初め)、神社内でよく遊んだそうですが、

神社の建物はまだ残っていて、倉庫などに使われていたそうです。

そして更に、彼のお父さんに聞いてもらったところ、

神社の大鳥居は解放後(1949年)早いうちに取り壊されたが、

桜並木や建物が完全に撤去されたのは70年代後半から80年代にかけて、

と話してくれました。


青島人の気質、北京や上海から遠く離れた地理的条件、

戦後も続いた中国全土の内戦とその後処理、

などの状況から考えても、

T君のお父さんの証言が妥当なところでしょう。


中国人を十把ひとからげにして、

「日本の神社は中国人の怨嗟の的であった。

だから、青島神社も敗戦後間もなく打ち壊された」

などと結論付けるのはあまりにも一面的で皮相な見方と言わざるを得ません。

日中関係史の研究の上からも「青島人の懐の深さ」について、

もっともっと相互検証が必要だ、と私は考えます。


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   ↑青島神社で我が家の記念写真。ここはまるで日本だ。

6年生の授業に思う

6年生の授業に思う



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   ↑青島日本人学校6年生の授業。はきはき質問する生徒たち。




縁あって小学6年生の授業でお話しすることになりました。

テーマは「青島の歴史について」。

私としては、少年時代の青島の暮らしや思い出を語れば、

と、軽い気持ちで、張り切って出かけました。

青島日本人学校の多目的室にはプロジェクターも用意され、

7人の6年生と担任の先生が待ち構えていました。

先ずは、古い写真をスクリーンに映し出しながら説明を始めましたが、

話しているうちに私自身だんだん迷いが出てきました。

相手が大人ならかなり突っ込んだ話もできますが、

小学6年生の知識水準はどのくらいだろうか、

難しい話はどのくらい理解できるだろうか?

そして例えば、日独戦争や日中戦争について、

どの程度詳しく話したらよいものか?

迷えば迷うほど焦点が定まらなくなり、

我ながらもたついた授業になってしまいました。

6年生のみなさん、申し訳ありません。


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   ↑真剣に聞いてくれる生徒たち。




質問の時間は元気よく全員が手を挙げ、

子供らしい質問が飛び出しましたが、

日本敗戦のときどんな思いだったか、

引き揚げ後、いちばん辛かったことは、

など、大人顔負けの質問もありました。

敗戦のとき私は13歳。思えば彼らとほぼ同年代です。

時代に揉まれながらもけなげに生きた懐かしい思いがこみ上げてきます。

彼ら6年生は小さいながらも日本を離れて、

国際交流の最先端で学んでいるわけです。

日本の将来をリードする、国際感覚豊かな人材に育つこと間違いなしです。


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   ↑アメリカから来た伊藤さん親子も参加。国際感覚豊かな子供たちです。




授業の休憩時間に担任の若い先生から質問がありました。


「中国や中国人のために尽くした日本人はいませんか」


(きっといるはずだ)という期待のこもった質問でした。

幸い青島には「中国人にも教育の機会を平等に与えるべし」という信念のもと、

青島学院を創立した吉利平次郎氏がいます。


しかし当時の中国で、

「中国のために」という高い理想を掲げて活躍した日本人は皆無です。

たとえいたとしても時代に流され、軍部に蹴散らされて消えていったことでしょう。

貴重な質問でしたが、

若く、理想に燃える担任の先生の期待に応えることはできませんでした。


□   □   □   □

若槻泰雄著「在中2世」が見た日中戦争(芙蓉書房出版)

に、次のような記述があります。


△・・・(日中戦争が始まり)日本軍の占領とともに、

新米の人々によって日本人人口は増加していった。

日本政府が占領地に作った国策会社や新たに進出してきた日本資本の会社社員、

それに占領地ではどこでも見られる“一旗組”もやってきたようだ。

占領下、軍の権威を利用して、あるいは軍に取り入って、

経済的、社会的混乱に乗じ、一稼ぎ、荒稼ぎしようとする人たち・・・△


が大量に流れ込んできたのです。

日本が青島を租借した大正時代ならいざ知らず、

このような状況の下では、

「中国のために」という理想を掲げる人物が登場する機会はなかった、

と考えるほかはありません。

青島学院を創立した吉利平次郎氏の存在は、

青島が誇る稀な人物として評価されるべきでしょう。

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