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発見!ディーデリッヒ記念碑 先日、アメリカ在住の原山氏から ドイツ租借時代の青島の写真を送っていただきました。 その中に何の変哲もない信号山の写真がありました。 しかしよく見ると、山の中腹に白いものが見えます。 もしやディーデリッヒ記念碑ではないか、と思って拡大を試みましたが、 私のパソコンでは規格が合わないのか大きくすることができません。 そこで相子さんに送って日本で開いてもらうことにしました。 そしてついに発見! あの白いものは、私の思ったとおり、 まさしくディーデリッヒ記念碑に間違いありません。 まだドイツ総督官邸(現迎賓館)も建っていない索漠とした岩山に、 ディーデリッヒ記念碑だけが、 誇らしく未開発の青島を見下ろしているのです。
↑相子さんに開いてもらったドイツ租借時代の写真の1枚。
ディーデリッヒという人は1897年から1898年まで、
写真中央のやや左に白いものが見えます。
これぞディーデリッヒ記念碑です。 当時世界最強といわれたドイツ東洋艦隊の司令官でした。 ドイツ皇帝の極秘命令を受けたディーデリッヒは、 1897年11月13日、 艦隊3隻を率いて膠州湾沖に姿を現し、 「乗組員を休ませたいから」と偽って上陸させ、 そのあと清国守備隊を脅して青島を無血占領しました。 青島占領を記念してディーデリッヒ山(現信号山)中腹の岩に、 鷲の模様の彫刻と、ドイツ、中国両国語の銘文を刻み、 ドイツ帝国の威容を天下に示しました。 それがディーデリッヒ記念碑といわれるものです。
↑これがディーデリッヒ記念碑。相子さん提供。
時が経ち、青島の権益は日本が受け継ぎましたが、1937年、日中戦争が始まり、 日本軍が青島を撤退する際、 この記念碑を爆破したといわています。 その後、この記念碑の行方は杳としてわからなかったのですが、 数年前、青島の民間歴史研究グループによってその破片が発見され、 大きな話題になりました。 しかし、この記念碑が信号山のどの辺りにあったのか、 今や誰も知る人はいません。 今回、ドイツ占領時代の古い写真の中から、 ディーデリッヒ記念碑の1枚を発見し得たことは、 青島の歴史研究に大いに役立つものと思います。 アメリカ在住の原山さん、ありがとうございました。
↑ディーデリッヒ記念碑の写真発見を祝して、
ささやかながら(?)牛丼をいただきました。
青島多田屋の牛丼。 |
生活日記
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再びモルトケ兵営跡へ
↑モルトケ兵営跡1
↑モルトケ兵営跡2
先日、M田さんの車でモルトケ兵営の探索に出かけました。黙って(見つからないように)写真を撮ってきましたので、 みなさんも黙ってご覧ください。 モルトケ兵営は、日本時代は若鶴兵営と呼ばれ、 日本海軍の兵舎として利用されました。 場所が青島神社の裏側にあったためか、 若鶴兵営、若鶴バラックについての情報が極端に少なく、 写真も見つかりません。
↑モルトケ兵営跡3
↑モルトケ兵営跡4
先日、Yosiheiさんから、「若鶴バラックの跡地に第3国民学校が建てられたのではないか」 という情報が寄せられました。 古地図を見ると確かに位置が一致します。 しかし、この情報すらも真偽を確かめるすべがないのが実情です。 皆さんからの情報をお待ちしています。
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解体が始まった吉林路界隈 ↑すっかり空き家になった古い住宅。 ↑滅び行くものには哀感があります。 古い住宅が立ち並ぶ吉林路の解体が始まりました。 中国の解体工事はゆっくりゆっくり時間をかけて行われます。 日本のようにブルドーザーで一気に撤去、 というわけではありません。 少ない人数で少しずつ解体していきます。 工事につきものの騒音もなく、静かに進行しています。 ↑解体寸前の吉林路。 ↑吉林路の「里院」内部。 騒音が大きければ再度引越しを考えなければ、 と思っていましたが、杞憂に終わりそうです。 解体された後にどんな街が出現するのでしょうか。 高層マンションの林立ではなく、 落ち着いた、風情のある町並みの完成を願うのみです。 ↑住人もいなくなって寂しくなった狭い路地。 |
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老人天国、青島好日 ↑突如、青島上空に飛行船が飛来。 青島上空に突如(?)現れた飛行船。 何かの宣伝か、しばらくビル街の上空を旋回していましたが、 やがて私のマンションの屋上をすれすれに飛んで行きました。 ↑公園の真ん中に陣取っておしゃべりを楽しむお年寄り。 貯水山公園は相変わらず老人天国。 のんびり世間話に興ずるお年寄りたちもいれば、 トランプに熱中するグループがあちこちで塊を作っています。 ↑青島式のトランプゲームは一番の人気。 でも、やはり健康的なのは太極拳の講習会を始めた人たちです。 ↑健康的なのは太極拳です。 私が一人でベンチに座っていると、 まだ元気そうなおじさんが話しかけてきました。 私が日本人だと言うと、彼は韓国人で青島大学の先生だそうです。 インテリらしく、時折英語を交えて話をするので聞くほうも大変ですが、 この公園がかつて青島神社だったことも知っていました。 親指を立てて盛んに「ジャパニーズ、イズ、ナンバーワン」と言うので、 照れていると、 もう一人のおじさんが加わって、ますますこんがらかってきました。 このおじさんは楽陵路に住んでいるというので、 私は小さいころ博興路に住んでいたと言うと喜んでくれました。 博興路小学校を知っているかと聞くと、 知っていると言うので、 あれが私の家だったのだと言っても、 よく理解できないらしく「あの学校で勉強したのか」と、 ちんぷんかんぷんです。 あの小学校が丸ごと私の家だったと言っても 今の人にはわからないでしょうね。 ともあれ、日中韓友好の青島好日でした。 ↑マンションの上をすれすれに飛んで行った飛行船。 |

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大雨とパンクで受難の旧宅案内
↑アカシアがようやく咲きました。でもまだ花は小さい。
5月30日は朝からはっきりしない天気でしたが、午後からは一転、強い風と雨で大荒れとなりました。 午後2時に麗晶ホテルに菅野さんを迎えに行くことになっていましたが、 お昼ごろ電話が入り、 「これから東方飯店で食事をするので遅くなります」 とのこと。 いつものようにY君に車で私の部屋まで来てもらって待機し、 折を見て東方飯店へ菅野さん一行を迎えに行きました。 東方飯店に着いたときは強い風に煽られて歩くのがやっと。 菅野さん一行を乗せて菅野さんの旧宅、横浜正金銀行跡に向かいました。 途中、カトリック天主教堂に寄り、 中山路を通って、さらに市場3路の電気館跡へ。 風雨ますます強まる中、市場1路の横浜正金銀行裏門に到着。 そこで、子供を預けて駆けつけたM田さんが合流。 菅野姉妹が住んでいた銀行の社宅は新しいビルになっていましたが、 当時の中国人社員住宅は今も健在。 激しい雨の中、姉妹は懐かしそうに銀行の裏庭を歩き回り、 少女時代の思い出を確かめていました。 (雨のため写真はありません)
↑やっと雨が上がった第一小学校グランド。
そのあと1小、女学校、青島神社、中の町と周りましたが、そのころになるとさすがの雨も上がり、 一行は即墨路市場でお土産の買い物に時間をつぶしました。 天気が回復すると、菅野様ご一行は小魚山にもう一度行きたいとのこと。 実はその日の朝、旅行会社の案内で小魚山見学をしたのですが、 あいにく深い霧に包まれて視界はゼロ・・・。 というわけでもう一度挑戦することになりました。 ところがここで思わぬアクシデントに見舞われました。 車のタイヤが2本もパンクしてしまったのです。 すぐにタクシーを捕まえてM田さんと菅野さん一行は小魚山に直行。 その間にY君と私は大急ぎで修理店を探してパンクの修理です。 幸い、菅野さんご一行は雨上がりの小魚山の夕景を眺めることができました。 パンク修理も終わった私たちは青島一の本屋“書城”で落ち合い、 夕食のレストランへと向かったのです。
↑夕食を食べながら歓談。
こうして雨と風の中の旧市街案内も無事終わることができました。青島旧市街のご案内はどうぞ「青島満帆」へお申しつけください。 自信を持ってご案内いたします。
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