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青島日本人学校の運動場 ↑高層団地に囲まれた青島日本人学校の運動場。 ↑一生懸命走る生徒たち。 今まで何度か青島日本人学校をご紹介しましたが、 運動場のご紹介はまだでした。 私が日本人学校に見学に行くときは、 いつも雨が降っていたり、時間が遅くて暗かったりで、 写真が撮れなかったからです。 先日の白水さんの特別授業の日、 やっと運動場の撮影に成功しました。 体育の時間に徒競走の練習をしているのは、 小学2年生ぐらいでしょうか。 高層団地に囲まれて、決して広いとは言えない運動場ですが、 空間はたっぷりあります。 生徒たちはのびのびと一生懸命に走っていました。 ↑生徒たちの真剣な走りに先生も満足げです。 ↑さあ、今度はリレーです。 先生も走るときの注意事項をユーモアたっぷりに説明していて、 私の頬も思わずゆるんでしまいました。 校内では和太鼓の力強い響きが轟いていました。 ↑和太鼓の練習に励む生徒たち。 教室で和太鼓の練習に励んでいる生徒たちです。 この学校では和太鼓の練習に力を入れているそうです。 縁あって青島で暮らすことになった子供たちですが、 思う存分青島の生活を楽しんでください、 と祈るのみです。
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生活日記
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墨絵画家白水さん、「阿修羅像」を寄贈
↑青島歴史資料室で戦艦「日向」の写真を発見した白水さんのお兄さんは、
5月23日から26日まで、
感慨深げに見入っていました。
お兄さんは、戦艦「日向」が呉沖で撃沈されたとき、 レーダー室で指揮をとっていました。 戦艦「日向」の最後を見届けた数少ない生き残りの一人です。 墨絵画家の白水貫魚さんとそのお兄さんが来青されました。 24日の朝から私と由君、 それに総領事夫人も同乗して旧市街を案内しました。 青島駅、カトリック教堂、中山路、館陶路などを回り、 お昼は総領事の接待で飲茶をいただきました。 体調を崩していた私は、その頃から歩くことが困難になり、 日本出張から帰ってきたばかりのM田さんにバトンタッチ。 そのあと、白水さんが住んでいた周村路近辺を探訪し、 第一小学校へ向かったそうです。 その日は幸運にも第一小学校の内部に入ることができ、 しかも校舎の中にまで入ることができたそうです。 小学校3年まで在学していたお兄さんのほうは、 80年ぶりの教室を目の当たりにして感慨ひとしおでした。 しかもお兄さんは 弟(白水画伯)を連れて小学校や青島神社を遊び回っていましたので、 コの字形の校舎や三つあった運動場までよく覚えていました。 ↑日本人学校の廊下で中学生に話しかける白水ご兄弟。 今回の白水さんご兄弟の来青の目的の一つは、 白水画伯が丹念に描き上げた「阿修羅像」を 青島日本人学校に寄贈されることです。 ↑日本人学校応接室で「阿修羅像」を初公開。 翌25日、私の体調もようやく回復しましたので、 午後からの白水さんの記念講義を聴きに行きました。 午後2時半から日本人学校の多目的教室で、 総領事ご夫妻をはじめ多数の方のご出席のもと、 白水さんの作品「阿修羅像」が贈呈されました。 そのあと、小学校高学年と中学生のための「墨絵と仏像」の講義があり、 すばらしい「阿修羅像」を目にした生徒たちから、 おー! という驚きの喚声が上がりました ↑多目的教室に集まった生徒にも「阿修羅像」を公開。 思わず感嘆の声が上がりました。 ↑小学校高学年と中学生に「墨絵と仏像」について特別講義。 白水さんご兄弟をお迎えした今回のご案内は、 私のアクシデントのためたいへんご迷惑をおかけしましたが、 私たち青島在住日本人にとっては たいへん有意義なものでした。 白水さん、ありがとうございました。
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勘違いする日本語 ↑貯水山公園にも噴水が吹き上がりました。夏の風物詩です。 青島にもようやく夏が訪れたようです。 木々は青々と芽を吹き、 道行く人たちも半袖姿が目立つようになりました。 貯水山公園の入り口の噴水も吹き上がりました。 公園を散歩する市民も浮き浮きしているように感じます。 夕方になると街には夜店が並びます。 青島はやはり夏が一番です。 ↑午後3時過ぎには早くも夜店の準備が始まります。 ↑まだ明るいうちに開店します。 でも、夏が嫌いな人もいます。 日本語教室の生徒、張さんは寒さに強く、冬のほうが好きです。 その上、雨が大好き。 私は寒がりで夏が好きですから、 まるで正反対の性格です。 夏は肌が黒くなるので嫌いなんだそうです。 23歳でまだ恋人歴なし。 恋人がいると煩わしいから、と言います。 そんな彼女をからかいながらの授業も楽しいものです。 心地よい風を運んでくれる窓に向かって、 「おー、夏はやっぱり気持ちがいいなあ」 と、わざと大きな声を出すと、張さんはいやな顔をします。 「今度引越しするときは、 海に近い部屋を借りて静かに暮らしたいなあ。 でも、誰も来てくれない生活はやっぱりさびしいなあ」 と言いますと、何と、 「でも私はだいじょうぶです」 という答え。 この言葉には一瞬、勘違いが生まれそうです。 (私はだいじょうぶですから先生と一緒に行ってあげますよ) という意味に取れないこともありません。 (先生がどんなに遠くに行っても、時々会いに行ってあげます) という意味だとしてもこんなうれしいことはありませんね。 でも、張さんの言っている意味は、単に、 (私は一人が好きですから、先生と違って誰も来ない生活でも平気です) という意味ですから、 まあ、ドッキリするほどのことはありません。 「若い人は、遠くて不便なところにいても、 行きたいと思ったらどこにでもすぐ行けるからいいけど、 私のように足が弱くなると、どこにも行けないからなあ」 と嘆いてみせてこの会話は終わりにしました。 勘違いもまた楽しいですね。 ↑路上に雑貨品を並べるおばさん。 |
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青島第三日本国民学校跡 ↑1979年頃の第三国民学校跡。 ↑現在、校舎跡には青島大学医学院のりっぱな校舎が建っている。 青島第三日本国民学校は昭和16年(1941年)に開校しました。 青島の小学校(国民学校)では最後にできた学校です。 私が第一小学校に入ったのが昭和13年(1938年)ですが、 そのときの1年生が7クラスもありましたから、 第一小学校は当時すでにパンク状態だったのではないでしょうか。 青島の人口増加はその後も続き、 第三国民学校の新設が決まりました 第三国民学校は旧青島神社(現貯水山公園)の裏側にできて、 青島神社周辺の生徒が第一から第三国民学校へと移りました。 ↑青島大学医学院の寄宿舎。 ↑第三国民学校の講堂跡。現在も内装を一新して使われている。 開校後わずか4年、日本は敗戦を迎え、 短い歴史を閉じました。 現在は青島大学医学院として、 医学生や看護学生がここで学んでいます。 校舎や運動場はすべて一新しましたが、 入学式や卒業式として使われた雨天体操場(講堂)は残っています。 ↑私の部屋から望む青島大学医学院の白いビル。 |
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アメリカから65年ぶりの故郷訪問 初夏の香り漂う5月13日、14日、 アメリカ在住40数年という二組のご夫婦をご案内しました。 案内人は例によって、 由君、M田さん、それに私の3人グループです。 由君は、「青島満帆トラベルサービス」を立ち上げ、 本格的な旅行サービスの初仕事です。
↑初夏の香り漂う青島。小青島の新緑。
今回のお客さんは奥さん同士がご姉妹で、共に青島生まれです。長女・妙子さん(旧姓増満)は周村路生まれ、 次女・忠子さんは莒県路生まれ、 三女・恵美子さんは湖南路生まれです。
↑増満姉妹の住んでいた湖南路のアパート。
妙子さんは終戦の年の昭和20年(1945年)に青島高女入学、三女の恵美子さんはまだ幼かったそうです。 お父さんは日本人引揚げ業務の責任者として、 中国、アメリカ側との折衝に力を尽くしました。 青島最後の住居は陽信路で、 門衛も付いた安全な生活だったそうです。 引揚げ業務も終わった昭和21年7月の最終船で帰国しました。
↑増満姉妹が住んでいた湖南路のアパートの前で。
例によって私たち案内グループは増満姉妹の旧居、 湖南路26号のアパートを突撃訪問しました。 観光シーズンとあって湖南路は大型観光バスがずらりと停車中です。 そして、アパートは観光客のための有料トイレとして開放され、 一人のおじさんが入り口にがんばっています。 例によってM田さんがアパートの中に突撃を試みますが、 このおじさんが頑として中に入れてくれません。 「昔このアパートの2階に住んでいた日本人が、 65年ぶりに我が家を見に来たのだから何とかお願い」 と頭を下げますが聞き入れてくれません。 しかし、ここで引き下がるM田さんではありません。 M田さんは最後の一計を案じます。 「じゃ、2階の住人に聞いて来ますから、 2階の住人が入ってもいいと言えばだめとは言わないでしょうね」 さしも頑固なおじさんもこれには抵抗できません。 M田さんと由君が2階に駆け上がります。 そして住人のおばさんにお願いすると、 おばさんは快く招じ入れてくれました。 妙子さん、美恵子さん姉妹は65年ぶりの我が家に入って大感激。 M田さんも住人のおばさんの優しさに涙を溢れさせていました。
↑アパートの2階の部屋の内部。大事に使われている。
↑アパートの部屋の前で、住人のおばさんと。
私たち案内グループは、このほか青島日本人学校をはじめ、迎賓館、小魚山、青島山砲台跡、 小青島、忠の海、中山路(旧山東路)、館陶路などを案内し、 65年ぶりの懐かしい青島の街を堪能していただきました。
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