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青島日本人学校の子供たち ↑音楽の時間。音楽室にはグランドピアノはもちろん、 各種楽器も揃っています。 4月19日から24日まで、 日本から青島各同窓会グループ総勢10名の方がいらっしゃいました。 その第一報として、 21日に青島日本人学校を訪れ、 学校見学と授業参観で癒しのときを過ごされた模様をお届けします。 子供たちはしっかりと挨拶ができ、 元気よくみなさんをお迎えしました。 熱心な先生方と立派な施設という環境に恵まれ、 内地の子供たちより生き生きと感じられました。 ↑国語の時間。 今回の訪問団のお一人は1年生と2年生に 読み聞かせのボランティア授業を行いました。 ↑図書室で。予算が足りなくて、図書の数はまだ少ないそうです。 ↑料理の時間。設備も充実してみんな楽しそうです。 全校生徒の数はまだ95名。 順調な学校経営まではちょっと足りないそうです。 ↑講堂で昔の小学生が記念撮影。こちらもうれしそうです。 |
生活日記
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モルトケ兵営の写真 先日、米村さんから1枚の写真が送られてきました(写真A)。 説明文には「青島学院の朝礼風景か」と書いてありましたが、 建物と運動場の広さ、背景の山の形から、 この写真はドイツの兵営跡だろうと見当をつけました。 人数、服装から見て、青島中学と青島学院の合同軍事教練か、 本物の日本陸軍の軍事演習かのどちらかでしょう。 ↑写真A。米村氏から送られた朝礼風景?の写真。 青島にはドイツの兵営跡が3箇所あります。 イルチス兵営、ビスマルク兵営、モルトケ兵営です。 イルチス兵営跡は青島日本中学の最初の校舎として利用され、 その後日本陸軍兵舎、現在は中国海軍の施設として現存しています。 ビスマルク兵営も山東大学、日本海軍陸戦隊根拠地となり、 現在は海洋大学の建物として使われています。 モルトケ兵営だけは写真も少なく、 貯水山(ドイツ名モルトケ山)の近くにあるということはわかっていますが、 私も実はまだ見たことがありません。 ↑モルトケ兵営。日独戦争勝利記念。中央が神尾中将。 ↑モルトケバラック。同降伏調印式はここで行われた。 このAの写真の背景の山は高さから考えると貯水山ではないかと想像して、 中国人の方にも鑑定してもらいましたがはっきりしません。 そこで、今回米村さんが来青されたのを機に、 モルトケ兵営跡を探しに行くことにしました。 Y君に車を運転してもらって、 やっと探し当てた写真がこれです。 ↑最近撮ったモルトケ兵営跡の写真。 ↑同上モルトケバラック跡。 高層ビルに囲まれてもはや背景の山を見ることはできません。 しかし、Aの写真の建物はまさしくモルトケ兵営に間違いありません。 地図を見ると、モルトケ兵営と呼ばれているとは言え、 モルトケ山よりもイルチス山寄りにあることがわかります。 従って背景の山はイルチス山(現太平山)の北側の麓と確信しました。 足が丈夫になりましたら もう一度モルトケ兵営跡の写真を撮りに行きたいと思います。 それまでもう少しお待ちください。
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青島学院創立者の親族を迎えて
↑青島学院創立者の子孫を迎えて卒業生の歓迎会。
司会するのは牟さん、91歳。4月3日から3日間、 青島学院関係の資料を携えて米村氏が来青されました。 氏は青島学院創立者・吉利平次郎氏の兄方の子孫に当たり、 教育者吉利平次郎の研究に取り組んでおられます。 米村氏の来青を歓迎して青島在住の青島学院卒業生たちが集いました。 卒業生といっても齢はすでに80代後半から90歳台ですが、 みなさん元気いっぱい。 熱河路の某レストランで ペキンダッグをいただきながら学院時代を偲びました。 別れ際には青島学院の校歌を熱唱、 レストランの中は老人パワーの熱気に包まれました。
↑青島学院卒業生一同の校歌合唱。歌声は青島市内にこだました。
今年91歳になる牟さんは、青島学院卒業後日本に留学、明治大学を卒業されました。 在学中は得意の短距離走で各種陸上大会に出場し、 昭和15年、東京市陸上選手権大会で4等賞を獲得しました。 名前の載った陸上競技の雑誌を大事にとっておいたのですが、 それを紛失してしまったのが何としても残念です、と語っていました。 わが羊会のメンバーで明治大学の職員だった相子さんに このことをお話しすると、 早速明治大学に問い合わせていただきました。 牟さんは、昭和18年3月、明治大学商科専門部の卒業生として、 名簿に記録されていることがわかりました。 明治大学の交友会名簿には「住所不明」と書かれてあったそうですが、 これからは校友会からの連絡が牟さんの元へ届けられることでしょう。
↑青島学院の語学検定証。
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一小撮影解禁。校内に立ち入った第一号は? 青島の第一日本国民学校が撮影解禁になり、 先日私が早速撮影に成功しましたが、 その次の日、 来青中の相子さんが校内に立ち入ることができました。 ↑コの字型校舎の中庭。ここで毎朝朝礼が行われた。 その日、M田さんの車は一小正門前に乗りつけました。 前日と違って守衛室には制服に身を固めた兵士が見張りに立っています。 私は車の中で様子を見守っていましたが、 M田さんは相子さんを連れて兵士に近づき、 得意の中国語で交渉を始めました。 後で聞いた話ですが、 M田さんは、 「私のお祖母さんが日本からはるばるやってきて、 昔学んだこの小学校の中をどうしても見たいと言っています。 おそらくもう二度と来ることはできませんので、 何とか見せてやってくれませんか」 と頼んだそうです。 兵士は上司に相談してオーケーとなり、門を開けてくれました。 その上、校舎の周りを先に立って案内してくれたそうです。 M田さん「親切でやさしい兵隊さんでしたよ」 ↑校舎の東側。 こうして、戦後70年間、固く固く閉ざされた一小校門の中に、 相子さんが日本人として初めて足を踏み入れることができたのです。 掲載した写真はM田さんに撮ってもらったものです。 校内は昔とは少し様子が変わっていますが、 コの字型に囲まれた校舎の中庭あたりをたっぷりとご覧ください。 ↑一段下の校庭から校舎を見る。 ↑右側の建物のあたりに講堂があった。 ↑校舎の西側。昔ここにプールが造られた。 □ □ □ □ 当ブログの「青島第一日本国民学校の変遷」の一部を再録します。 青島に最初に小学校が設立されたのは大正4年(1915年)4月で、 後に第二小学校(広西路)になる青島小学校と李村小学校でした。 その後、青島在留邦人の急激な人口増加により、 大正6年(1917年)4月、一校が新設され(後の青島学院校舎)、 第一青島尋常高等小学校となり、 最初に設立された青島小学校は第二青島尋常小学校と改称されました。 第二小学校は元ドイツの実科学校跡を利用したものです。 各小学校の通学区域も定められましたが 高等科は全区域とも第一小学校に集められました。 大正7年(1918年)4月、第一小学校は武定路に新校舎が落成し、 移転しました。 大正12年(1923年)、青島の租借権が返還され、 邦人の各学校は居留民団立となり、第一、第二小学校はそれぞれ 青島第一日本尋常高等小学校 青島第二日本尋常小学校 と、改称されました。 ・・・以下略・・・
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青島妙心寺の古い写真 先日、妙心寺跡の場所が判明したことをご報告しましたが、 その後、yosiheiさんのブログに 妙心寺の古い写真が掲載されましたので、 早速転載の許可をお願いしました。 それがこの写真です。 鮮明な写真ではありませんが、 当時の妙心寺の大きさ、立派さがわかると思います。 ↑青島の妙心寺。写真はちょっとぼけていますが、 大きなお寺であることがわかります。 □ □ □ □ 次に、 Yosiheiさんのブログをそのまま転載させていただきますのでご覧ください。 青島・臨済宗妙心寺別院 写真 『大日本職業別明細図・青島編』1931年刊より 吉川大航老師が軍隊慰問使として来錫したとき 妙心寺出張所を開いたのにはじまり、 その後細川禅英師が1922年(大正11)仏殿、書院、庫裏を吉林路4号に新築、 境内の広さ1241坪、総建坪220坪の大寺院である。」 「昭和11年8月には銀4000元で東亜禅林の校舎が完成、 ・・・昭和12年学生募集・・・」 『戦闘機「臨済号」献納への道』木田全一著 かもがわ出版2001年刊 より引用 □ □ □ □ 尚、魚山会の井上氏より次のようなメールをいただきました。 「先日、青島満帆に妙心寺の事が出ていました。 徳増〔旧姓細川〕君の父上が寺主でした。 彼は青中弁論大会で熱弁を唱えていましたが、 惜しくも3年前他界しました。」 まだご存命なら、いろいろお話を伺うことができましたのに たいへん残念なことです。
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