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組対1課によると、窪田容疑者は昨年4月、アルバイトとして働いていた東京都葛飾区の居酒屋「白木屋新小岩南口駅前店」の同僚で中国籍の楊晨敏容疑者(24)と偽装結婚した。日本人配偶者としての在留資格を得たい楊容疑者から約75万円をもらう約束を交わし、虚偽の婚姻届を区役所に提出した容疑で7日に逮捕。また、同店の店長・原田将容疑者(29)も同年6月、楊容疑者の妹・楊晨霞容疑者(22)と結婚を偽装した疑いで、同日逮捕された。
窪田、楊両容疑者は入国管理局の審査に備えて窪田容疑者の自宅で共同生活を送るなどして夫婦関係を装ったが、窪田容疑者の本当の交際女性が楊容疑者と偶然会って事実を知り、警視庁に相談して発覚。窪田容疑者は「生活費に困り、家賃の足しにした」などと供述している。
「イキウメ」などによると、窪田容疑者は2005年頃に俳優活動を開始し、08年に「イキウメ」のオーディションに合格。年間3〜5本の作品に出演していた。
演出家の前川知大氏が演劇賞を連続受賞するなどして注目を浴びている「イキウメ」のスタッフは「舞台俳優はお金がない。我々にも責任があるかも。真面目で演劇のことばかり考えていた人間だから、ほかで足りないものがあったのかもしれない」とコメントした。
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2011年09月10日
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東京・初台の新国立劇場がプロデュースする公演「朱雀家の滅亡」「イロアセル」「天守物語」の合同製作発表が9日、同所で行われ、俳優の平岡祐太(27)ら出演者9人が出席した。
11月5日に開幕する「天守―」で図書之助(ずしょのすけ)を演じる平岡は「僕の役は(市川)海老蔵さんが(06、09年に)やっていた。圧倒的なオーラがあったと聞いているので新たなチャレンジだと思います」と対抗心を燃やした。
6月には歌手・Soweluとの熱愛が報じられた平岡は、報道陣からそのことについて聞かれると「今はちょっと…。舞台で精いっぱいです」とかわした。「朱雀家―」は20日、「イロアセル」は10月18日に初日を迎える。 |
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http://www.m-network.com/sengoku/parts/rs2.gif犬伏の別れ
今度は目を東へ向けてみよう。戦国期の謀将として名高い真田昌幸は、武田信玄の重臣・幸隆の三男として天文十六(1547)年に生まれた。はじめ武藤家を嗣いで武藤喜兵衛と名乗ったが、天正三(1575)年の長篠合戦で二人の兄信綱・昌輝が戦死したため、真田家に戻って家督を嗣いだ人物である。武田家滅亡後は織田・上杉・北条・徳川の大勢力に挟まれて対応に苦慮するが、まさにあちらに付いたかと思うとこちらに付くといった変わり身で何とか戦国の荒波を泳ぎ切り、最終的には秀吉の麾下となって小領主ながらも独立していった。 さて、関ヶ原に際しては、昌幸は初め家康に従って会津へと向かっていた。そして七月二十一日のこと、下野犬伏に着陣したとき彼の陣に密使が駆け込んできたのである。その使は彼と仲が良かった石田三成から発せられたもので、西軍の挙兵を報じて昌幸の加担を求めてきたものであった。昌幸はそれならばどうしてもっと早く報せて来ぬかと内心少々不愉快に思ったが、これは非常に重大なことである。早速信之・幸村を交えて談合を交えた。 信之の妻は徳川家の四天王・本多忠勝の娘である。彼には家康の強さがよく解っており、さらにここまで来て引き返しては不義の誹りを受けると極力反対する。しかし昌幸の娘は三成の義兄宇田頼次に嫁いでおり、加えて幸村の妻は大谷吉継の娘である。結局昌幸・幸村父子は三成を見捨てるわけにはいかず、信之は徳川に背くことなどは出来なかった。こうして父子が東西両軍に分かれることとなったのだが、これを世に「犬伏の別れ」という。 昌幸・幸村は急ぎ上田へと戻るが、途中沼田城で一泊する予定でいた。しかし父子が東西に分かれたことは既に沼田城に報されており、留守を守る信之の妻小松殿に頑として入城を拒否される。このとき、昌幸は「せめて孫の顔だけは見せてくれ」と小松殿に頼み、城壁越しに孫の顔を見て上田へ戻っていったというエピソードが伝えられている。 http://www.m-network.com/sengoku/parts/rs2.gif昌幸、秀忠を挑発 さて、昌幸父子と戦闘を交えることになる秀忠は八月二十四日の朝、兄の秀康の見送りを受けて宇都宮を出陣した。本多正信・榊原康政らがこれに従い、率いる兵は三万八千七十余という大軍である。二十八日、秀忠軍が上野松枝に差し掛かったとき、家康が九月一日に江戸を出陣するとの報せを受けた。秀忠は信濃小諸に軍を進め、ここから上田城の真田昌幸へ使者を発して「その方は三成の奸計に乗せられて籠城しているが、関東諸将は既に岐阜を落とし、内府は東海道を、我は中山道を軍を進めている。石田等が捕縛されることは時間の問題であり、その方も前非を改めて帰順し、子孫繁栄を考えよ」と伝えた。これに対して昌幸は、「それがしはこの度、大坂方の大老奉行衆が秀頼公の御為に義兵を挙げたればこそお味方した。一旦それに従った以上はたとえ味方が危機に瀕していようとも、義を捨て道を踏み外して心を翻すことなど出来申さぬ。これを憎み憤り給うならば、手始めに当城をお攻めあれ」と応える。 秀忠は言い返す。「昌幸が申すのは義に似て義ではない。なぜならこの度の件は、まだ幼い秀頼公がわきまえておられるはずがない。これは全く大老奉行どもの私心から企てられた邪謀であり、天下の人々は皆知っている。だからこそ太閤恩顧の者共が多く内府に従い、義を以て凶徒を退治しようとしているのである。その方も早くこの道理をわきまえて天命に応じない上は(東軍に付けとの意)、伊豆守には切腹、城は即日攻め落とす所存である」 昌幸はまたこれに応じ、「故太閤殿下の恩を蒙ったにもかかわらず、秀頼公を見捨てて内府公に味方する面々は、それぞれの下心があってのこと。それがしはたとえ嫡子伊豆守が切腹させられ城攻めに遭おうとも、君臣の道は踏み外せぬ。昌幸が義か不義かは天下後世の論に任せるべきである。道中のついでに当城を攻められること、どうぞご随意に」とやり返した。 秀忠はこの返事に怒り、諸将を集めて軍議を開いた結果、すぐに上田城を攻め落として美濃へ向かうことに一決した。 http://www.m-network.com/sengoku/parts/rs2.gif上田城の戦い このとき秀忠勢は近所の民家に分散して宿泊していたが、榊原康政は「真田は軍謀老練、早速今夜にも夜討ちを仕掛けるかもしれず、油断なきように」と提案、諸将は野陣を張り篝火をき、警戒を強めた。実際、真田幸村が夜討ちを仕掛けようと出陣していたが、警戒が厳重なので引き返したとある。 秀忠勢は九月六日、小諸から染屋平に出て上田城に対峙した。その時昌幸父子も四、五十騎ばかりで物見に出ていたのを見て秀忠は依田信守に命じて鉄炮を撃たせるが、昌幸は何喰わぬ顔で引き返す。そして城外の神奈川辺に尼が淵というちょっとした要害があり、伏兵を置いているのではないかと牧野勢が調べたところ、案の定伏兵が急に現れて襲いかかってきた。 牧野隊が戦うのを見た大久保忠隣・本多忠政隊も横合いから攻め掛かり、ここに戦闘が展開された。兵数に勝る秀忠勢は、勢いに乗って真田勢を城際まで追い詰めたと見えた瞬間、門を開いて真田幸村が突撃してきた。同時に虚空蔵山の林でおびただしく鬨の声が上がり、槍先を揃えて袋の鼠となって狼狽する秀忠勢を挟撃する。こうして寄せ手が混乱したところへ、とどめは真田昌幸が八十騎を率いて出撃、秀忠勢を散々に蹴散らした。結局秀忠勢は、ものの見事に「軍謀老練」の真田の術中にまんまとはめられたのである。 昌幸は程なく兵をまとめ、何と手鼓を打って「高砂」を謡い出した。榊原康政はこの様を見て激怒、手勢二千を率いて牧野父子とともに昌幸を追いかけたため、さすがの昌幸も高砂を最後までは謡えずに引き返したという。 この際、秀忠勢の朝倉宣政・太田吉正・鎮目惟明・辻久正・戸田重利・中山照守・御子神典膳の七人の活躍が「上田七本槍」または「真田表七本槍」と称されて讃えられているが、現実には「軍令違反」の上に敗軍でもあり、実際彼らは後に譴責を受けている。余談だが、七本槍のうちの一人・御子神典膳とは、後に秀忠の剣術指南役となる一刀流の達人・小野次郎右衛門忠明のことである。 秀忠の旗本にあった本多正信は「軍令違反である。見苦しいので早々に引き上げよ」と命じ、康政らも兵を収めた。正信は諸隊が軽率に戦ったことを怒り、大久保隊の旗奉行杉浦惣左衛門を切腹させた。牧野隊も責任を問われたが、牧野は「我等の命令により家人らは戦ったのである。物頭に責任はない」といって旗奉行・贄掃部(にえかもん)を逃がしてやったという。 秀忠勢は城を遠巻きにして善後策を協議する。戸田一西は力攻めを献策し、一旦はそれに決まりかける。しかし正信が強硬に反対し、結局城の押さえに兵を置いて美濃へと急ぐことに決し、上田を後にした。これが九月十日のことである。しかも正信は大事をとって本道を避け、間道を経て十三日に諏訪へ到着する。榊原康政ただ一人は正信の方針に怒り、「真田など如何ほどのことがあろう。攻めてくるなら踏みつぶすまで」と、本道を進んでいったという。 もうこの時点で同勢の関ヶ原への十五日参陣は、既に不可能となっていた。 |
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【済南(中国)9日】来年のロンドン五輪切符を獲得したなでしこジャパンの佐々木則夫監督(53)が大会での秘密兵器発掘のため、10月のU―19アジア選手権(ベトナム)などを視察することが9日、分かった。若手主体の代表候補合宿を年末に国内で行うことも判明。最有力候補はU―19代表MF仲田歩夢(あゆ、18)=宮城・常盤木学園高3年=。史上初のW杯→五輪制覇へ、なでしこが華麗に進化する。
ロンドン五輪の金獲得に向け、佐々木監督が動く。10月6日開幕のU―19アジア選手権、11月3日開幕のU―16同選手権(中国)を視察行脚し若い世代の発掘に力を入れることが決まった。
注目はU―19代表のMF仲田歩夢だ。「サッカー界のあゆ」は色白美人のレフティーとして注目される逸材。DF熊谷、鮫島らを輩出した常盤木学園ではサイドハーフをこなし、8月にはMF沢、川澄の所属するINACの練習に参加した。
同3日の練習試合でも1得点する活躍で、星川敬監督(35)からも「縁があったら、獲得したい」と入団を熱望された。昨年のU―17女子W杯(トリニダード・トバゴ)では日本の準優勝に貢献。ドリブルが得意で決定的な仕事もできる“美少女ドリブラー”だ。
佐々木監督は、今年12月に強化策として国内で若手の底上げ合宿を開催する考えを持っている。この合宿には世界一に輝いた主力は呼ばずに、控え選手や次代を担う10代のなでしこ戦士も招集することになる。仲田が呼ばれる可能性は十分にある。
W杯で世界一に輝いたなでしこだが今大会では、中盤の主力4人を総入れ替えしたタイ戦(1日)で苦戦するなど、控えの充実が課題として浮き彫りになった。佐々木監督は「まだまだ女子サッカーの底力を上げていかないと」と言う。なでしこジャパンの攻撃陣はMF宮間、大野が不動の両サイドハーフだが、控え選手の層が薄い状況。18歳の仲田にとっては指揮官が視察するアジア選手権が将来のなでしこ入りへ絶好のアピールの舞台になる。
五輪出場権獲得から一夜明けたこの日、佐々木監督は「キリンビール3本で祝った」と上機嫌。中国戦で起用する予定のサブ組の練習を熱血指導した。辞任覚悟で臨んだ最終予選を勝ち抜き、晴れて本大会までの続投が決まった指揮官はメダル獲得に向け、“金の卵”探しにも力を注ぐ。
◆仲田歩夢(なかだ・あゆ)
★経歴 1993年8月15日、山梨県生まれ。18歳。山梨南中時代まで武田消毒ジェイドFCなどクラブチームでプレーし、名門・常盤木学園高に進学。 ★なでしこ 高校ながら参加しているなでしこチャレンジリーグ(2部)EASTで今季9ゴールは、21ゴールでトップのFW京川舞らに続く3位タイ。 ★代表 U―15から世代別代表の常連。昨年のU―17女子W杯では6戦中5試合に出場し、準優勝に貢献。U―19代表。 ★プレー 左利きのアタッカーでポジションは左ウイング、左MF。代表では左サイドバックにも挑戦中。 ★既に人気 2ちゃんねるで立ったスレッドは既にパート3。 ★髪形 長い髪を束ねたポニーテール。上で結ぶ「お団子」も好評。 ★サイズ 161センチ、56キロ |
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若手個性派俳優の濱田岳(23)が、パリコレモデルの小泉深雪(みゆき、32)と7月下旬に結婚していたことが9日、分かった。関係者によると、共通の友人を介して知り合ったといい、交際期間は約1年。9歳年上の姉さん女房となる小泉は身長1メートル79、小柄な濱田は同1メートル60で、その差は19センチ。芸能界に新たな凸凹夫婦の誕生だ。
映画やドラマの脇役として強烈な個性を放ち、井川遥(35)と共演した「インテル」のCMでもおなじみの濱田が、私生活でひそかに美女をゲットしていた。 お相手の小泉は、1メートル79、B83W62H90の抜群のプロポーションを生かし、パリコレをはじめ国内外で活躍するスーパーモデル。現在「花王ソフィーナ・ボーテ」のCMにも出演している、エキゾチックな顔立ちが特徴の新潟美人だ。 複数の関係者の話を総合すると、出合いは約1年前。互いのフィーリングがあって、すぐに交際に発展。これまで交際が公になったことはなかったが、20センチ近い身長差はどこに行っても目立ち、デートする姿が度々目撃されていた。実はこの2人、歌手の斉藤和義(45)が昨年10月に発売したアルバム「ARE YOU READY?」の収録曲「Don’t cry baby」では、そろってコーラス参加もしている。 年齢も身長もかけ離れた2人だが、ゆっくりと愛をはぐくむ中で互いに大事な存在であることを確かめ合っていったといい、7月下旬に婚姻届を提出。親しい友人や関係者にはすでに報告済みだ。 芸能界の身長差カップルといえば、1メートル44・5のタレント、矢口真里(28)と1メートル92の俳優、中村昌也(25)が今年5月に結婚し、“47・5センチ差婚”として話題になったが、“男女逆転パターン”は珍しい。 濱田は放送中の日本テレビ系「ピースボート」(月曜後11・58)で連ドラ初主演を射止めるなど仕事も絶好調だが、陰には彼女の存在があったのか。来春には主演映画「ポテチ」(中村義洋監督)が公開。最愛の伴侶を得て、ますます脂の乗った演技が期待できそうだ。 |

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