江戸時代後期には、江戸幕府の全国統治は天皇から
将軍への委任関係に由来するという
大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた。
幕末の政局が動揺し
桜田門外の変以来、幕府の権威が低下すると、幕府および雄藩は朝廷と結んで権威を回復しようという
公武合体路線をとるが、かえって
尊王攘夷派に利用され、将軍
徳川家茂が上洛を余儀なくされるなど、幕府が本来朝廷の下位にあることが目に見えるようになっていく。
松平春嶽に請われて
越前藩の改革を行った
横井小楠や、
大久保一翁・
勝海舟ら開明的な幕臣などが、早くから政権を朝廷に返上して、政体を変革する大政奉還論は提唱されていたが、現実的な政策となることはないまま、政局は流動。
長州征討の失敗とそのさなかの家茂の病死により、幕府の権威はさらに低下し、新たな将軍に就任した
徳川慶喜は幕権強化に邁進することになる。一方、独自の考えで幕府改革を行おうとしていた
薩摩藩の
島津久光らは
参預会議などで慶喜と衝突し、また切り札と考えた
四侯会議でも慶喜の巧みな主導で無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、
長州藩と結んだ
薩長同盟をもとに武力倒幕運動を推し進めていく。このような状況の中、
土佐藩の
後藤象二郎は、慶応3年(1867年)
坂本龍馬(かつて勝海舟から教えを受けた)から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の
船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張。これに薩摩藩の
小松清廉・
西郷隆盛・
大久保利通も同意し、6月22日
薩土盟約を締結した。これは慶喜に大政奉還を迫り、もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こすというものであった。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、武力の発動を拒否する
山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい、頓挫。薩摩側は長州・
芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日には薩土盟約は解消。結局土佐藩は単独で
10月3日に大政奉還の建白書を
山内豊範を通じ将軍・
徳川慶喜に提出した。
これを受け、10月13日、慶喜は京都・
二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(
11月9日)に「大政奉還上表」を明治天皇に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。
摂政・
二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはなかったが、慶喜の意を受けた薩摩藩城代家老の小松清廉、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。天皇が慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立。
折しも、倒幕派公家の
岩倉具視らの画策によって
討幕の密勅が下されようとしていたときであった。慶喜は先手を打って大政を奉還することで、討幕の名分を失わせた。慶喜は10月24日に
征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えてのことである。上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになる。
実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。
この時点では倒幕派
公家は朝廷内の主導権を掌握していなかった。前年・慶応2年12月25日の親徳川派の
孝明天皇崩御を受け、慶応3年1月9日に践祚した
明治天皇は満15歳と若年で、やはり親徳川派である
関白・二条斉敬(慶喜の従兄)が約80年ぶりとなる摂政に就任した。朝廷内では二条家を含む
五摂家には他の公家衆に対しての支配力があり、一時期は近衛家が親薩摩、鷹司家が親長州となっていたものの、この頃には徳川家支持に傾いていた。一方
三条実美ら長州過激派の公家は文久3年
8月18日の政変以来、京から追放されたままであり、岩倉ら少数の倒幕派公家は家柄が低かったため影響力はあっても朝廷内の主導権を握れてはいなかった。
つまりこの時期の朝廷は、二条摂政や
賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)ら親徳川派上級公家によってなお主導されていたのであり、さきの討幕の密勅は、慶喜の大政奉還を想定した上で、主導権を持たない
岩倉具視ら倒幕派の中下級公家と薩長側の非常手段として画策したものである。(
詳細は討幕の密勅)
このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も徳川慶喜が主導するものになることが当然予想された。薩長や岩倉らが実権を掌握するためには、武力蜂起により親徳川派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して天皇親政の新体制を樹立し、慶喜には辞官・納地(旧幕府領の返上)を求めて新政権の中心となることを阻止することが必要となり、
王政復古へ向かっていくことになった。
他方では、
会津藩・
桑名藩・
紀州藩や幕臣らに大政奉還が薩・土両藩の画策により行われたものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。