上方落語復興の最大の功労者で、人間国宝の落語家の桂米朝(かつら・べいちょう=本名・中川清=なかがわ・きよし)さんが19日午後7時41分、肺炎のため死去した。89歳だった。数々のネタを戦後に復活させ、大ホールでの独演会を通じて、上方落語の魅力を全国に伝えた。「百年目」「地獄八景亡者戯」など十八番ネタも多く、桂枝雀さん(故人)ら多くの後進も育て、2009年には演芸界初の文化勲章を受章した。最後の舞台出演は13年1月2日に大阪市内で開かれた「米朝一門会」だった。
上方落語界を今日の隆盛に導いた巨星が逝った。13年1月まで新春恒例の「米朝一門会」(大阪・サンケイホールブリーゼ)で元気な姿を見せていた米朝さんだが、同年8月に肺炎を起こして入院。集中治療室での治療を乗り越え、2か月後に退院した。しかし、その間に唯一レギュラー出演していたラジオ番組が終了し、14年新春の一門会は開催44年目で初めて休演。その後、舞台に上がることはなかった。
米朝事務所によると、米朝さんは病院で息を引き取ったとみられる。詳細については20日の会見で明らかにするとしている。この会見には長男の米団治(56)のほか、弟子の桂ざこば(67)が出席を予定している。
また、関係者によると、14年6月に妻の絹子さんを亡くした際に車いすで通夜と告別式に姿を見せて以降は、自宅とかかりつけの病院を行き来して静養する日々が続いており、最近は口数が減り、一日中眠り続けることもあったという。
1947年、4代目桂米団治(故人)に入門。東京での学生時代に出会った演芸研究家に師事して評論家を目指したが、帰郷後、上方落語の危機に直面し、落語家の道を歩むことを決意した。入門わずか4年で師匠を亡くしたこともあり、自ら文献をあたって「算段の平兵衛」「矢橋船」などのネタを発掘。100本以上のネタを書き起こした大著「米朝落語全集」を80年から発表し、後世の落語家のバイブルとなった。「ほっといたら滅びるもんやから、意識して残そうとした」と、のちに語っている。
「はてなの茶碗」「天狗裁き」「立ち切れ線香」など、後世のお手本となった十八番ネタは数知れず。また、71年には1回限りと約束した大阪・サンケイホールでの第1回独演会で1500人を集客。全国に大規模な落語会が広まるきっかけとなり、品があり、ユーモアにあふれた語り口で万人を魅了した。
米朝さんの入門当時、十数人だった上方落語界は今や220人を超える規模に。米朝さん自身も枝雀(故人)、ざこば、吉朝(故人)ら本格派の弟子を育て、やしゃご弟子まで60人以上の一門を築き上げた。
酒とたばこを愛し、師匠として頻繁に弟子をどなりつけるなど厳しかったが、一方で「チャーチャン」と愛称で呼ばれ、親しまれた。09年に脳梗塞を患ったが、その後の座談会では「私ももう長いことないやろ」と自虐的なセリフで空気を和ませたことも。観客を楽しませることに心を砕き続けた、落語家そのものの人生だった。
◆通夜 24日午後6時から大阪府吹田市桃山台5の3の10、千里会館で。
◆葬儀・告別式 25日午前11時から同所で。喪主は長男の5代目米団治(よねだんじ=本名・中川明=なかがわ・あきら)。葬儀委員長は米朝事務所の田中秀武(たなか・ひでたけ)会長。
◆桂 米朝(かつら・べいちょう)本名・中川清。1925年11月6日、中国・大連生まれ。30年に帰国し、兵庫県姫路市で育つ。43年、上京して大東文化学院に入学(兵役のため中退)。病気で帰郷した後、神戸の会社に勤務しながら、47年、4代目桂米団治に入門する。63年、第18回文化庁芸術祭文部大臣奨励賞を受賞。以後、同祭優秀賞(69、70年)、芸術選奨文部大臣賞(80年)、紫綬褒章(87年)など。96年に重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。2002年、落語界初の文化功労者認定を経て、09年に文化勲章を受章した。長男は5代目桂米団治。
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