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ニッカウヰスキーの元社長の竹鶴威氏が17日、老衰のため都内の自宅で亡くなっていたことが22日、分かった。90歳。アサヒホールディングスが発表した。
NHKで放送中の朝の連続テレビ小説「マッサン」の主人公のモデルとなっている同社創業者、竹鶴政孝氏の甥で養子となった。告別式はすでに近親者で行ったが、後日、お別れの会を都内で開く予定。
威氏は政孝氏を継ぎ、ニッカの2代目マスターブレンダー。ウイスキー作りの基礎を築いた。
広島県出身。49年、北大工学部卒業後、ニッカウヰスキー入社。70年取締役、専務などを経て85年社長。会長などを経て92年社長兼務。94年3月から会長、相談役。
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お悔やみ
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NHK紅白歌合戦の総合司会などを務めた元NHKアナウンサーの生方恵一(うぶかた・けいいち)さんが15日午前8時46分、肺炎のため東京都練馬区の病院で死去していたことが20日、分かった。81歳、前橋市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻・かほるさん。
1956年にNHKに入局。「NHK歌謡ホール」「ひるのプレゼント」などの司会を務め、温かな人柄と軽妙な語り口で人気を得た。紅白の総合司会も担当したが、84年の放送で「都はるみ」を「ミソラ」と言い間違えて話題になった。
85年にNHKを退職後も、フリーアナウンサーとして日本テレビ系「お昼のワイドショー」でキャスターを務めるなど、多くのテレビ・ラジオ番組で活躍した。講演や執筆活動も積極的に行い、著書に「生放送だよ人生は」などがある。
約5年前から糖尿病を患い、腎不全で透析を受け、3年前から徐々に体調が悪化していた。
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映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」でアンチヒーロー役を演じて人気を博した俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた=本名同じ)さんが11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため、都内の病院で亡くなった。81歳だった。30日に福岡・太宰府天満宮祖霊殿で家族葬を行った。喪主は妻・文子(ふみこ)さん。ここ7年はがんと闘いながら、山梨で農業を営み、社会や教育活動にも携わっていた。11月10日の高倉健さんに続き、昭和を代表する大物映画スターが死去した。
健さんに続き、菅原文太さんまでも旅立ってしまった。東映で一時代を築いた両巨頭。11月28日の午前3時、肝不全で息を引き取った菅原さんの遺体は、福岡へと運ばれた。太宰府天満宮の祖霊殿で30日に家族葬を終え、1日に荼毘(だび)に付された。
太宰府天満宮のそばにある霊園には、01年に踏切事故で亡くなった長男で俳優だった加織さん(享年31)のお墓がある。菅原さんは、そのときが来たときは「必ず息子の眠るところで」と早くから心に決め、周囲にも「そうしてほしい」と告げていた。息子を離れた所に1人にしておきたくない、という思いが強かった。98年に生活の拠点を岐阜・清見村(現高山市)に移したが、福岡市内も自宅があった。数か月に1度は訪れており“息子との時間”を過ごしてた。
1男2女の父だった菅原さん。息子を失い、さらに7年前に膀胱(ぼうこう)がんに襲われた。血尿に苦しみながら放射線治療を選び、病魔と闘ったが「複数の箇所に転移し、肝臓がかなり侵されていた」(関係者)という。気力を振り絞り、11月初旬には沖縄県知事選で当選した翁長雄志氏の応援でも姿を見せていた。
しかし、同中旬に転倒し腰を強打。「予後が芳しくなかった」と社会的な活動もキャンセルして入院治療を続けていた。亡くなる数日前まで病床では「元気だった」というが、27日に容体が急変。妻・文子さんはこの7年間の夫の胸中を、孔子の「論語」を引用し、「『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』で過ごしてきた」と“代弁”。朝に人がどう生きるべきかを悟ることができれば、夕方に死んだとしても後悔はない、という意味だ。
宮城・仙台市生まれの菅原さんは早大に進学するが中退。モデル活動時にスカウトされ58年新東宝「白線秘密地帯」で映画本格デビュー。松竹を経て67年に東映入り。73年「仁義なき戦い」、75年「トラック野郎」でスターとして不動の地位を確立した。
高倉さんが正義感あふれる孤高のスターであったのに対し、アウトローや三枚目の役が多く、低く、野太い声に象徴される菅原さんは「ブン太兄ぃ」の愛称で大衆に親しまれた異色のスターだった。
「トラック野郎」は松竹のドル箱だった「男はつらいよ」に東映が対抗し、「トラ(寅さん)食う野郎」から生まれたものだった。今でも本職のトラック運転手たちが憧れを持って訪れ、そのときは必ず応対することにしていた。昨秋の本紙インタビューでこう答えていた。「本当のトラック野郎たちこそ、自分にとって最高のファン。先日も5、6人やってきてサインして『事故起こすなよ! 頑張れよ!』と見送った。たぶんこれが死ぬまで続くんだろうな」。役を愛するように山梨で励む農業では、育てたシイタケには「一番星」と名付けられていた。
しかし、東日本大震災後に生き方を見つめる中で12年に山田洋次監督の映画「東京家族」を降板し「俳優引退」を宣言。農業生活を送る一方、政治支援グループ「いのちの党」を結成。ニッポン放送のラジオ「菅原文太 日本人の底力」で持論を発信していた。
◆菅原 文太(すがわら・ぶんた)本名同じ。1933年8月16日、宮城・仙台市生まれ。仙台一高から53年に早大法学部に進学するが、授業料滞納のため2年で中退。ファッションモデルとして活躍中にスカウトされ58年、新東宝の「白線秘密地帯」で映画本格デビュー。その後、松竹を経て67年に東映入りし、スターの仲間入りを果たした。80年「太陽を盗んだ男」で日本アカデミー最優秀助演男優賞を獲得。66年に文子夫人と結婚。身長177センチ。
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オペラ歌手の中島啓江(なかじま・けいこ)さんが23日午前10時35分、都内の病院で呼吸不全のため死去していたことが28日、分かった。57歳だった。所属事務所がこの日夕方、ファクスで発表した。
所属事務所によると、中島さんは最近では体重増加を原因とした膝の痛みがひどく、移動には車いすを使用。以前から息苦しさを訴えることはあったが、今月17日に「どうしても呼吸がしづらい」と都内の病院へ。「血中酸素が少ない状態」と診断を受け、そのまま入院した。
病状はさほどひどくなく、「早く元気になって皆さんの前で歌いたい」と前向きな様子を見せていたという。18日に都内で予定されていた講演会にも外出許可を取って参加。テノール歌手・秋川雅史(47)の「千の風になって」など2曲を披露した。
しかし、21日から次第に容体が悪化。23日には急変し、帰らぬ人に。弟の洋一さんら親族や、事務所関係者も最期をみとることはできなかった。
親族の希望で27日に都内で密葬を執り行い、偲(しの)ぶ会は来年2月の初め頃に行われる予定。
◆中島 啓江(なかじま・けいこ)1957年11月15日、鹿児島県生まれ。79年に藤原歌劇団に入団し、1986年に初のソロコンサートを開催。「平成名物TV・いかすバンド天国」などのテレビ番組やCMにも出演。復興支援活動にも取り組み「阪神大震災追悼無料コンサート」は、96年から19回連続で行っていた。主な音楽のアルバムに「童神(わらびがみ)」「赤とんぼ」など。
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映画俳優の高倉健(たかくら・けん、本名・小田剛一)さんが、死去していたことが18日分かった。10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。83歳。福岡県出身。
31年に福岡県に生まれ、大学進学のために上京。55年、東映ニューフェイス2期生として入社した。演技経験などは全くなかったが、翌56年に映画「電光空手打ち」で主演デビューした。
映画スターとしての地位を確立したのは、60年代に入って出演するようになった仁侠映画だった。「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」などがシリーズ化され、大ヒット。映画ファンは「健さん」と親しみを込めて呼ぶようになった。
テレビドラマなどにはほとんど出演せず、自らを「映画俳優」と呼ぶほど。生涯の映画出演作は205本に及ぶ。最後の作品は、12年秋に公開された「あなたへ」(降旗康男監督)。田中裕子(59)が演じた亡き妻の面影をたどり、富山から九州まで自らハンドルを握り、旅をする刑務官を演じ、同年の報知映画賞主演男優賞を受賞した。
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