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大河ドラマ「江」

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1583年(天正11年)秋、秀吉は、突然江を嫁に出すことを決める。
相手は織田家ゆかりのある尾張大野城主、佐治一成で、江のいとこでもある。
秀吉は、茶々の身辺から、邪魔な江を遠ざけようと考えていた。
佐治は打倒秀吉の準備を進める織田信雄の家臣で、伊勢随一の水軍を持つ武将であり、また
信雄から離反させれば一石二鳥の策略である。
秀吉の思惑に気づいたおねは婚儀に反対し、茶々は自分が変わりに嫁に行くと、秀吉に詰め寄ったが、
戸惑う秀吉は、夢枕にたった信長の意志であり、この婚儀により信雄との、戦が防げると言い放つ。
江はこの言葉に心を動かされ、ある条件出し、この縁談を受け入れる。
天正11年初夏。茶々(宮沢りえ)が目覚めると華やかな着物で、部屋じゅうが埋め尽くされていた。江(上野樹里)や初(水川あさみ)の部屋も同様だった。茶々に目をつけた秀吉(岸谷五朗)の仕業で、母の思い出が詰まった着物をすべて処分され、茶々や江は激怒。秀吉は食事も豪勢なものを次々と用意。茶々は、着物も食事も一切受け付けず、三姉妹は絶食して抗議し続ける。やがて三姉妹は、千宗易(石坂浩二)と対面するが…。
名を「のぶお」とも読む。織田信長の二男。織田信忠の同母弟。母は生駒氏。幼名は茶筅・三介。侍従・左近衛権中将・大納言・正二位・内大臣。
永禄12年(1569)8月に父・信長が伊勢国に侵攻した際に伊勢国司北畠具教の子・具房の猶子となり、はじめ北畠具豊(ともとよ)、ついで信意(のぶおき)と名乗った。天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆:その3では、水軍を率いて参陣している。
天正3年(1575)6月に具教から家督を譲り受け、名実共に伊勢国司となる。以後は北畠氏の当主として実父・信長に従い、越前国一向一揆攻めや荒木村重の鎮圧など、各地を転戦した。
天正4年(1576)に具教を謀殺して北畠氏を掌中のものとした。
天正7年(1579)には信長に無断で伊賀国に侵攻した挙句に大敗を喫し、信長に叱責を受ける。しかし9年(1581)に伊賀の平定が成り(天正伊賀の乱)、伊賀国のうちから3郡を与えられた。
天正8年(1580)、伊勢国松ヶ島城を築いて移る。
天正10年(1582)本能寺の変の直後には父・信長の追悼戦のために近江国土山まで軍勢を進めたが、明智光秀敗死の報を受けて伊勢に帰国した。この頃に北畠から織田へと復姓した。
のちの清洲会議においては兄・信忠の遺領のうち尾張国を相続して清洲城主となり、信忠遺児・三法師(のちの織田秀信)の後見人として尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を領有した。
その後、羽柴秀吉柴田勝家織田信孝の図式が表面化すると秀吉に与して岐阜城の信孝を攻め、のちには自刃させた。
天正11年(1583)3月からの賤ヶ岳の合戦でも秀吉と結んだが、その後は徳川家康と通じて秀吉と断った。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦には家康の援助を受ける形で連合するが戦況は膠着し、11月に秀吉との単独講和に応じた。以後は秀吉に属して越中征伐九州征伐などに従軍した。
天正15年(1587)の九州征伐ののち正二位・内大臣に進んだ。しかし天正18年(1590)の小田原征伐後、関東へと移った家康の旧領へ移ることを拒絶したことが秀吉の怒りにふれて除封とされ、常陸国の佐竹氏に預けられ、剃髪して常真と号した。
その後佐竹氏の秋田転封のときに彼の地へ移ったが、のちに家康の斡旋によって許され、天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役に際して肥前国名護屋で秀吉に再出仕し、相伴衆に加えられ、大坂天満に寓居した。
その後も家康に心を寄せ、慶長5年(1600)の関ヶ原の役直前には畿内の情報を家康に送り、大坂冬の陣の際には豊臣秀頼からの誘いを断るなどして間接的に家康の事業を支え、元和元年(1615)に上野国甘楽・多胡・碓井の3郡のうちで2万石、大和国宇陀郡松山で3万石を与えられた。
晩年は京都北野に住み、寛永7年(1630)4月30日に没した。73歳。法名は徳源院実巌常真。
能の名手であり、茶人としての素養もあったという。
信雄四男の信良は天童藩織田氏、五男の高長は柏原藩織田氏の祖となる。
出自
 
父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。兄(弟という説もある)に京極高次。弟に京極高知浅井長政は叔父、淀殿(茶々・秀吉側室)、(京極高次正室)、徳川秀忠正室)は従姉妹にあたる。 浅井氏の主筋に当たる京極氏の出身だったため、同じく秀吉の側室である淀殿よりも血筋上では名門に連なる。京極家は近江の湖北地方(長浜)の本来の主である。

生涯

初め若狭守護・武田元明に嫁ぎ、二男一女を生む。
夫元明は越前一乗谷から帰還後、遠敷郡神宮寺をへて、大飯郡石山において3,000石を織田信長より給されたので、竜子も石山(おおい町)において夫とともに平穏に暮らしていた。しかし、兄の高次と夫の元明は本能寺の変後、明智光秀の味方につき、元明は山崎の戦いで秀吉の軍に討たれてしまう。竜子は捕らえられた後、秀吉の側室となった。小田原城名護屋城に秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも三番目の輿を使ったり、淀殿と杯の順番を争ったことなどは、後の世まで受け継がれた有名な話である。秀吉お気に入りの側室で、肖像画から大変な美女であったと伝わる。
秀吉の死後、高次の住む大津城に身を寄せた。関ヶ原の合戦後、寿芳院と号して出家し、西洞院に居を構えた[2]。その後も竜子は京から度々大坂へ贈り物をしたり、豊臣秀頼に会いにきていた(『慈照院文書』)。秀吉没後も豊臣家の一員として北政所淀殿と親交をもち続けていた様子が『舜旧記』からも分かる。
大坂夏の陣の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、また六条河原で処刑された秀頼の息子・国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬した。寛永11年(1634年)9月1日に死去。法名は寿芳院殿月晃盛久。墓所は、京都市中京区誓願寺にあったが、現在の墓所は、豊国廟
高次の出世は、この竜子と、彼の正室・初の縁による所が大きいと思われる。

第11回「猿の人質」

1583(天正11)年4月。北庄城が落城し、勝家(大地康雄)と市(鈴木保奈美)は命を落とす。市の自害は、秀吉(岸谷五朗)にとっても衝撃の出来事だった。両親を失った茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)、江(上野樹里)は、秀吉を許さないと宣言。「猿」と言って食って掛かる江に、秀吉は信長(豊川悦司)の“亡霊”を見て恐れおののく。秀吉の人質として安土城に送り込まれた3姉妹は、おね(大竹しのぶ)から京極龍子(鈴木砂羽)を紹介される。龍子は、長政の姉・マリアを母に持ち、3姉妹のいとこに当たる。また、龍子は夫を秀吉に殺されていたが、現在は秀吉の側室であった。さらに、龍子は秀吉のことを掛け替えのない人と語り、3姉妹は驚くとともに嫌悪を覚える。

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