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夫の川村善右衛門重忠は最初今川家に仕え、人質時代の徳川家康の世話役であったが、今川家衰退後は夫ともども北条氏に仕えた。重忠の死後しばらくは駿河で暮らしていたが、生母を幼くして亡くしていた家康の子・秀忠の乳母として浜松城に召し出され、後に江戸城に移され、草創期の大奥で権勢を振るう。
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夫の川村善右衛門重忠は最初今川家に仕え、人質時代の徳川家康の世話役であったが、今川家衰退後は夫ともども北条氏に仕えた。重忠の死後しばらくは駿河で暮らしていたが、生母を幼くして亡くしていた家康の子・秀忠の乳母として浜松城に召し出され、後に江戸城に移され、草創期の大奥で権勢を振るう。
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慶長3年(1598)、太閤秀吉(岸谷五朗)が亡くなり、江(上野樹里)は深い悲しみを感じていた。「あれほどまでに憎み嫌っていたのに、なぜ」と問う江に、秀忠(向井理)は「本当の父娘のようであったからであろう」と答える。 そんな折、三成(萩原聖人)が家康(北大路欣也)の命を狙っているとうわさが広がる。危険を察知した家康は、秀忠と江にすぐにも江戸に向かうよう命じ…。 |
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出生から後継者争い
徳川家康の三男として遠江国浜松に生まれる。母は側室・西郷局。母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には三河守護代をつとめたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。
同母弟に、関ヶ原の戦いで大活躍した家康の四男松平忠吉がいる。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に織田信長の命令で切腹。次兄・結城秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を授けられ「江戸中納言」と称した。
天正18年(1590年)には上洛し織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。文禄4年(1595年)には秀吉養女・江と再婚する[1]
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、途上で発生した信濃国上田城攻めで時間を浪費し、更に悪天候による行軍の遅れもあり、9月15日(新暦10月21日)の本戦には間に合わなかった。
戦後、秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが、家康は遅参に怒り3日間対面を許さなかったという。
将軍後継者慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったのですぐに認められた)。これにより秀忠の徳川宗家相続が確定し揺るぎないものとなり、また、徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後15代続く代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。
そして慶長10年(1605年)、わずか2年で家康は征夷将軍職を秀忠に譲り、秀忠が徳川第2代将軍となった。
征夷大将軍秀忠が将軍職に就任するための上洛時、関東・東北・甲信の諸大名をあわせ10万人規模の軍を率いた。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。
大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の所謂「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。
なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある(岡野友彦『源氏と日本国王』)。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。
元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方で、弟の松平忠輝・甥で娘婿でもあった松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。
隠居元和9年(1623年)に将軍職を嫡男・家光に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年1月に死去。
家光に対して「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実紀』)との遺言を残している。
官歴※日付=旧暦
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大火事の際、夫・秀忠(向井理)が身をていして自分を守ってくれたことで、江(上野樹里)は、徳川の妻として生きる決意を固める。 ある日、江が暮らす徳川屋敷に、秀吉(岸谷五朗)がやってくる。秀吉は病から回復したものの、衰えは明らかで、家康(北大路欣也)は、秀吉亡き後に思いを巡らしていた。 そんな折、江の懐妊が判明。早速秀忠に、そのことを伝えるが…。 |
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江(上野樹里)は徳川家に嫁いだものの、秀忠(向井理)との関係は最悪。前夫・秀勝(AKIRA)の遺品や娘との思い出の品を眺めては、嘆き悲しむ日々を送っていた。 そんな2人の状況を知らず、嫡男を期待する家康(北大路欣也)に対し、平然と「励んでおります」と答える秀忠。その姿に、江はあぜんとする。 そんな折、秀吉(岸谷五朗)が病に伏せっているとの知らせが届き…。 |
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