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大河ドラマ「江」

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第29回「最悪な夫」

江(上野樹里)は、秀忠(向井理)に嫁げという秀吉(岸谷五朗)の命令を拒み続けていた。
 一方の秀忠は、父・家康(北大路欣也)に「私の人生は父上の意のまま」と言い放ち、まるで他人事のように婚儀を受け入れる。
 勝手に婚儀の準備をされ、かたくなになる江。家康はそんな江を訪ね、「ぜひ徳川に嫁に来ていただきたい」と頭を下げる。家康じきじきの申し出に、江は…。

豊臣 秀次

永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(当時は木下弥助)の長男として生まれる。織田信長浅井攻めに際し、宮部継潤に養子として送り込まれた(浅井氏滅亡後に返還)。その後、信長が開始した四国攻めにおいて、秀吉が四国に対する影響力を強めるため、当時阿波国で勢力を誇っていた三好康長に養子として送り込まれ、三好信吉と名乗る。天正10年(1582年)6月の信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を確立する過程において、秀吉の数少ない縁者として重用された。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、このとき「中入り」のため三河国への別働奇襲隊の総指揮を執ったが、逆に徳川家康軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興森長可らを失い、命からがら敗走する。このため、秀吉から激しく叱責された。この時期、羽柴秀次と名乗る。
天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻め千石堀城の戦い)、四国攻めでは軍功を挙げた。このため、近江国蒲生郡八幡山城(現在の近江八幡市)に43万石を与えられた(うち、23万石は御年寄り衆分)。 領内の統治でも善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。これは田中吉政など家臣の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっており、吉政らの補佐を受けつつ、徐々に彼らを使いこなすに至ったというのが実像であろう。
天正18年(1590年)の小田原の役にも参加し、山中城攻撃では大将となり城を半日で陥落させた。戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国伊勢国北部5郡などに100万石の大領を与えられた。天正20年(1592年)「御家中人数備之次第」に家臣団構成が記されており、御馬廻左備(牧主馬などが属す)などの組織名が記録に残っている。 同書には御馬廻右備219人の組頭として大場土佐、御後備188人の組頭として舞兵庫の名が記されている。
天正19年(1591年)奥州に出兵し、葛西・大崎一揆及び九戸政実の乱鎮圧においても武功を挙げた。

最期

天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。11月には秀吉の養子となり、12月に関白に就任。同時に豊臣氏の氏長者となった。
関白就任後の秀次は聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。その後、唐入りに専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。
しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。秀頼と秀次の娘を婚約させるなど互いに譲歩も試みられたが、結局文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で高野山に追放され、出家した。以降、出家した元の関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれた。同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。辞世は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。
死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。遺臣の多くは石田三成前田利家、徳川家康らに仕えた。

秀次事件

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/Toyotomi_Hidetsugu_large.jpg/200px-Toyotomi_Hidetsugu_large.jpg
豊臣秀次像/瑞泉寺
秀次の下に殉死した玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守を配す
文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられた。7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成前田玄以増田長盛の3名の奉行の他、宮部継潤富田知信(奉行代行)の計5名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促した[2]。 7月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次の許へ正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった。 秀次は雀部重政介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した[2]。 秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた。
そして、8月2日9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び正室側室侍女ら併せて39名が処刑された。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた。その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた[3]畜生塚)。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。
ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。豊臣十丸の祖母北野松梅院は死を免れている。直系の親族では、淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘で生後一ヶ月であったお菊は祖父の弟の子の後藤興義に預けられ、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその姉で梅小路家に嫁いでいた娘の同母姉妹も難を逃れている。
この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「瑞泉寺縁起」が京都の瑞泉寺に残されている。

粛清の理由

秀次粛清の理由において、次のような説が上げられている。
  • 実子である秀頼の後継を確実なものとし、秀次の子孫を根絶やしにして直系継承を守るため
  • 秀頼誕生後から酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行説(→後述
  • 秀頼の生母・淀殿と「近江派」の吏僚・石田三成らによる陰謀説(ただし、武功夜話によると、三成は秀次の無罪を主張していたという説もある)。両者は秀吉に秀次の素行調査を命じられ秀吉に報告している。
  • 秀吉側室・茶々(淀殿)が大野治長と密通していた事実を知り、逆にそれを知った茶々が逆上し、秀吉に讒訴した。[要出典]
  • 菊亭晴季の娘(一ノ台・秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰された)を見初め、晴季と相談し秀吉に黙って継室としたが、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする説

秀次事件の影響

どのような所業であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。それに輪をかけて切腹を受け入れたにもかかわらず首を晒し一族郎党を処刑するという、当時の日本の倫理観と社会常識に照らし合わせても悪逆無道ともいえる仕置は、豊臣政権内外に大きな禍根を残した。
藤木久志は政権内部の対立が秀次事件を機として、さらに深化を遂げたと評している。
また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因と指摘している。
秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となった。ただしその一方、後継者が確定しないなかで秀吉が死去した場合、覇権を巡り秀頼と対立し豊臣家内の分裂を引き起こした可能性もある。

風評

事件直前の秀次は比叡山での鹿狩り、嗜好殺人などの非道行為(盲人を辻斬りにした)を繰り返したとの風評があり、「殺生関白」(「摂政関白」の韻に掛けた創作)の異名をとったという。また、母子併姦や性風紀の乱れも噂されていた。公卿菊亭晴季の娘「一ノ台」を正室としたが、連れ子の女児を伽に召さしめ、母子共に戯れたともいい、これを父の晴季が秀吉に直訴している。ただし、実情は不明であり過剰に貶められた評価であるとの指摘も多い。

人物

  • 秀次は通説として凡庸・無能な武将として評価されることが多いが、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原の役での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしていることを考慮すると、そこそこの力量はあり、文武両道の人物だった。
  • 秀次事件のとき、秀吉譜代の家臣である前野長康、さらには木村重茲(しげこれ)、渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張して弁護していることから、秀次は諸大名から人望があったものと思われる。
  • 秀次はキリシタンではないにも関わらず、宣教師からは穏やかで思慮深い性質であると賞賛の言葉をもらっている(ルイス・フロイス「日本史」など)。この点からも巷説の「殺生関白」は実像だったか疑問がある。キリスト教についても理解を示し、キリシタンであったのではないかとする研究者もいる。
  • 秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったと言われている。ただし藤原惺窩の父・細川為純は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性も否定できない。
  • 武術については、疋田景兼より剣術槍術を学んだほか、長谷川宗喜片山久安からも剣術を学んだとされ、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。刀剣の鑑定も行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術も学んでいた。剣術試合を見世物として楽しみ、聚楽第で兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足」が、サントリー美術館に所蔵されている(サントリー美術館コレクションデータベースに画像と説明あり)。
  • 古典の収集に励み、これを保護した。小田原の役後、奥州に赴いた秀次は中尊寺大蔵経を収集し、これを持ち帰った。このほかに、足利学校金沢文庫の書籍をも、持ち帰っている。また、収集した日本紀日本後紀続日本後紀文徳実録三代実録類聚三代格実了記百練抄などを朝廷に献じている。

墓所と供養

墓所
京都市の慈舟山瑞泉寺に豊臣秀次の五輪の塔と、処刑された者の墓がある。墓所は妙慧山善正寺にある。 また秀次が切腹した高野山にも墓所がある。
供養
豊臣秀次の命日の7月15日には、村雲門跡瑞龍寺住職により、八幡山(滋賀県近江八幡市)で供養が行われる。
秀吉(岸谷五朗)は伏見に新たな城を築き、淀(宮沢りえ)と拾を迎え入れた。
 そんな秀吉のあからさまな溺愛ぶりに、関白・秀次(北村有起哉)は自分が排除されると恐れ、酒とタカ狩りで気分を紛らわす。江(上野樹里)は、そんな秀次が心配でならなかった。
 そこへ、家康(北大路欣也)が秀忠(向井理)を伴って訪れる。しかし、それは秀次のご機嫌うかがいを装った偵察だった。

豊臣 完子/羽柴 完子

豊臣 完子/羽柴 完子(とよとみ の さだこ/はしば さだこ、文禄元年(1592年) - 万治元年(1658年))は、安土桃山時代江戸時代の人物。豊臣(羽柴)秀勝の娘で、九条幸家の正室。従三位
豊臣(羽柴)秀吉の養子・羽柴秀勝(秀吉の姉・日秀の次男、三好小吉)、浅井長政の娘・(崇源院)の間に生まれる。徳川家光には異父姉にあたる。
子は九条道房二条康道松殿道基(道昭)、栄厳、通君(西本願寺良如光円室)、序君(東本願寺宣如光従室)、三女。
誕生前に文禄の役で父・秀勝が病死し、江は姉・淀殿のもとで完子を産んだ。なお、初名は不明。
文禄4年(1595年)、江が徳川秀忠と再々婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われる。淀殿は彼女を実の子として大切に養育したというが、おそらく相続の問題で『慶長日件録』では養子ではなく猶子と記録されている(猶子は相続の権利が発生しないので普通は名前のみの養子と捉えられる)。
慶長9年(1604年)6月、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。この婚儀の直前に完子の乳母が亡くなっていることが記録されている。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせている。また義弟・豊臣秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している。婚儀の4年後、慶長13年(1608年)に秀頼の左大臣任官の動きが朝廷にあったことが明らかにされている。
慶長13年(1608年)12月26日、忠栄が関白に任官し、完子は従三位北政所となる。なお「完子(さだこ)」という諱はこのとき選定されたものと考えられる。
慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である徳川秀忠の養女となっている。徳川家に対しても忠栄は完子の母の江が徳川家に縁づいていることから、公家武家の貴重な仲介役になった。
万治元年(1658年)、67歳で死去した。
 
  • 織田秀信に嫁いだともいわれているが、時期があわないため否定的な見方をされることが多い。
  • 完子の異父妹である勝姫松平忠直との間の次女鶴姫は、家光の養女として嫡男道房に嫁いでいる。
  • 完子と幸家との間に何人かの子がおり、この子たちが豊臣家の血を引いたことになる。そのため、幸家の家系が豊臣宗家である大坂羽柴家滅亡後で豊臣嫡流の血筋に近いことになる。この子たちは浅野家に嫁いでおり、浅野家にも豊臣の血が流れている。
  • なお下記の理由により、現在の皇室は織田氏浅井氏豊臣氏の血を受け継いでいる。
江(上野樹里)は初めての子・完を産むも、夫・秀勝(AKIRA)を失った悲しみから抜け出せず、わが子を抱くことすらできないでいた。
 一方、江戸では秀忠(向井理)が秀吉(岸谷五朗)の蛮行をあざ笑っていたが、秀勝死去の知らせに、いつになく神妙な表情を浮かべる。
 年が改まり、初(水川あさみ)が江のもとを訪れる。初は、江を立ち直らせようと奮闘するが…。

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