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大河ドラマ「江」

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第19回「初の縁談」

茶々(宮沢りえ)が、秀吉(岸谷五朗)の側室になる話を拒否した。そのことを江(上野樹里)は初(水川あさみ)に伝えるが、初は高次(斎藤工)のことで胸いっぱい。龍子(鈴木砂羽)から、高次が初のことを憎からず思っていることを知らされ、さらに胸をときめかせる。
 しかし、信長の姪(めい)であり政略結婚の最高の駒となる初は、自ら望む相手と結婚するなど無理だと諭され…。

京極高次

京極 高次(きょうごく たかつぐ)は戦国時代武将江戸時代初期の大名。京極家は若狭小浜藩を経て(丸亀藩)の藩主となる
本来は浅井長政の主筋に当たる人物。京極氏は北近江守護であったが臣下の浅井氏下克上を受け、高次は、その庇護のもと浅井の居城内で生まれた。のちに豊臣秀吉の側室である妹・松の丸(京極)殿や、淀殿の妹である妻・の七光りで出世したとされた事から蛍大名とささやかれたが、武将としての能力も有しており関ヶ原の戦いの際には居城の大津城に篭もり、1万人を超える西軍の大軍勢を食い止め関ヶ原の主戦場へと向かわせなかった。戦後、その功により若狭一国を与えられ国持大名となり、近世大名京極氏の礎を固め御家の再興没落 [編集]
永禄6年(1563年)、京極高吉浅井久政の娘で長政の姉(浅井氏・京極マリア)の長男として、浅井氏の居城である近江小谷城京極丸で生まれる。幼名は小法師と称した。
父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に出家し、高次は美濃人質として送られ幼少期を過ごす。元亀4年(1573年)7月には宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江奥島5,000石を与えられる。
天正10年6月2日1582年6月21日)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭武田元明と共に光秀に属し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが、13日7月2日)の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、19日7月8日)に元明は自害し、高次は初め美濃、そして若狭の武田領へと逃れ、一時は柴田勝家に匿われていたようである(京極家譜)。

大名への道

若狭の旧・武田領に逃れていた高次は、秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより許され、秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江高島郡2,500石を与えられる。翌々年には近江高島郡5,000石へと加増された。
さらに同年の九州攻めの功により近江高島郡で大溝1万石となり大溝城も与えられ、大名となった。天正15年(1587年)、京極家の旧家臣である浅井家の娘・(父は浅井長政)を正室とする。高次と初はいとこ同士であった。
天正18年(1590年)、小田原の役の功により近江八幡山城2万8,000石となり、翌年に秀吉が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられる。文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増され従四位左近衛少将に任ぜられ羽柴の名字公称も許され豊臣姓となる。翌年にはさらに従三位参議(宰相)に任ぜられる。
この頃の高次の出世は自身の功では無く、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったといわれ、高次は陰で蛍大名と囁かれた。しかし近江支配を円滑に進めたい豊臣家は、浅井家以前に北近江の代々の領主であった京極家の名声を利用するのが目的であった。

大津籠城戦

豊臣秀吉が亡くなった後の慶長5年(1600年)、徳川家康石田三成の対立が深まっていた。そうした中、会津上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は翌々日の6月18日7月2日)に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間の事を頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせる。しかし三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広朽木元綱から三成の西軍へ属する事を求められる。これに対して家康の東軍からも再三の書状により大津城の堅守を頼まれる。高次は大津城の守りが弱い事から一旦は西軍へ属する事を決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送り、大津城を訪れた三成と面会する。しかし関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。
9月1日10月7日)、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日8日)には越前の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。3日9日)、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣である井伊直政に伝える。高次の行動は即大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関に居た毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。
さらに立花宗茂軍がこれに加わる。7日13日)、西軍の寄せ手は1万5,000とも3万7,000とも4万とも言われる数に増し大砲が打ち込まれる。11日17日)夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、12日18日)に堀は埋められ、13日19日)には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが二ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。14日20日)、和平の使者が送られるが高次は拒否した。が、北政所の使者孝蔵主を受け、老臣の黒田伊豫の説得もあり、夜になって降伏した。
15日21日)朝には城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後紀伊高野山に入った。同時に関ヶ原の戦いが始まっており、正午過ぎには西軍が総崩れとなったため、結局高次の篭城により大足止めされた毛利元康および立花宗茂らの大軍勢は移動に時間がかかったため関ヶ原の戦いに参陣することができなかった。

若狭国主

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西軍軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価し、高次は井伊直政からの使者を受け早々に高野山を下りる様に伝えられる。始めはこれを断ったが、更に山岡道阿弥を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山し、大坂で家康に会い若狭一国8万5,000石へ加増転封され、若狭の名城後瀬山城に入る。慶長5年(1600年)10月に小浜に入り、翌年には近江高島郡の内7,100石が加増される。
大坂の役をひかえた徳川家康の命により新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に二条城に似た小浜城を築き始めた。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、小浜の城下町を整備した。
家康からの信任も厚かった様で、以下の書状を受けている。
御折紙 殊に生鮭到来祝着之至に候、将又其国之儀雖小国候、爰元手寄に候間、先進上候處、 御気に入御有付之由承候、左様候得者、弥令満足候、猶井伊兵部少輔可申候、 恐々謹言 十月十四日           家康 京極宰相殿
慶長14年(1609年)5月に47歳で亡くなり、長男忠高が後を継いだ。高野山奥の院には大津城で討死した22名の家臣を供養する石碑が、慶長5年9月13日(1600年10月19日)の日付と共に残っている。

墓所

後瀬山城の下屋形であり、若狭武田氏の守護所であった地を京極氏も日常の居所として使用していたが、高次の死にともない、その地は高次の菩提寺の敷地として使用されることとなった。高次の戒名に因み「泰雲寺」と命名されたが、のちに酒井氏により空印寺と改名される。
京極忠高は若狭から出雲に転封となった後、城下の出雲松江(現松江市竹矢町)寶亀山安國寺に父高次の供養塔を建立した。松江市には現在もその(宝篋印塔)が残されている(松江市文化財)。

第18回「恋しくて」

秀吉(岸谷五朗)は、江(上野樹里)たちの前で、帝を補佐する太政大臣となり、豊臣の名も賜ったことを報告。さらに九州攻めを決め、出陣命令を下す。
 そんな秀吉に対して唯一思ったままを口にする快活な秀勝(AKIRA)の姿に、江は恋心を抱く。
 一方、初(水川あさみ)は、大坂城内で見慣れぬすてきな男子を目撃。その顔立ちと立ち姿に一目ぼれをするが…。

関白とは

天皇を補佐し、百官を率いて大政を執行する重職。中国前漢の博陸侯霍光(はくろくこうかくこう)が幼帝を補佐した故事により、博陸ともいう。百官の上奏に関(あずか)り、意見を白(もう)すという意味で、887年(仁和3)宇多(うだ)天皇が太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)に賜った勅書にこのことばが初めてみえ、しだいにその職名となった。冷泉(れいぜい)天皇(在位967〜969)のころから、天皇幼少の間は摂政(せっしょう)を、成長後は関白を置くのが慣例となり、事実上朝廷最高の地位となって、「一(いち)の人(ひと)」ともよばれた。なお制度上は、摂政が天皇の代理人的立場にあるのに対し、関白は補佐の地位にとどまるが、政治上の実権にはほとんど差異を認められない。
摂関の職は藤原氏北家(ほっけ)に独占され、藤原氏長者(ちょうじゃ)を兼帯するのが常例となり、ことに藤原道長(みちなが)以後はその子孫に伝えられ、鎌倉時代以降は近衛(このえ)、九条(くじょう)、二条、一条、鷹司(たかつかさ)の五摂家が交互にこの地位についたが、幕末王政復古に際して廃止された。近世初頭豊臣秀吉(とよとみひでよし)・秀次(ひでつぐ)父子が関白になったのはまったくの異例である。なお、前関白を太閤(たいこう)といい、関白に准ずる地位に内覧(ないらん)がある。
朝日姫(あさひひめ、天文12年(1543年) - 天正18年1月14日1590年2月18日))は豊臣秀吉の異父妹(小和田哲男は同父妹と主張している)。徳川家康正室継室)。父は竹阿弥、母は大政所。名は、旭、末津ともいわれる。家康との結婚後は「駿河御前」と呼ばれた。法名南明院殿。
尾張国の農夫のもとに嫁ぐが、秀吉の出世とともに夫が武士に取り立てられたとされている。天正14年(1586年)、兄秀吉が家康を懐柔するために強制的に夫と離縁させられ、家康の正室として嫁がされた。その後、天正16年(1588年)に母大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第に住む。離婚などによる精神的負担のためか、晩年は病気がちで、母に先立って死去した。
朝日の前夫については「佐治日向守」という名と「副田甚兵衛吉成」という名とが伝わり、相互に矛盾するさまざまな伝承が存在する。要するに、天正14年以前の朝日の経歴については「ほとんど何もわからない」というのが現在の歴史学研究の到達水準である。
墓所は京都市の東福寺南明院。同院に肖像画が所蔵されている。また、静岡市瑞龍寺に供養塔がある。

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