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JINー仁ー

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第7話5月29日放送

坂本龍馬(内野聖陽)と気持ちがすれ違ったまま、長崎から江戸・仁友堂に戻った南方仁(大沢たかお)。その頃、龍馬に関する事を探るように上役(中原丈雄)から命じられた橘恭太郎(小出恵介)は、探りを入れるため、度々『仁友堂』を訪れていた。
あらためて“龍馬暗殺”がいつだったか思い出そうとする仁だったが、正確に思い出せない。とその時、またしても頭痛が仁を襲うのだった…。
そんなところへ、野風(中谷美紀)から仁と橘咲(綾瀬はるか)宛ての文が届く。そこにはフランス人・ルロン(ジャン・ルイ・バージュ)と正式に国際結婚できることが決まり、2人に婚礼に来て欲しいという旨が記されていた。かくして婚礼に出席するために横浜の野風の元へ向かった2人だが、そこで仁は、野風から診てもらいたい病人がいると告げられる…。
略年譜
  • 文化7年(1810年備中国足守藩下級藩士・佐伯瀬左衛門惟因の三男として足守(現・岡山県岡山市北区足守)に生まれる。8歳のとき天然痘にかかる。 
  • 文政8年(1825年大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出る。
  • 文政9年(1826年中天游の私塾「思々斎塾」にて4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。
  • 天保2年(1831年江戸へ下って坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。
  • 天保7年(1836年長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から緒方洪庵と名乗った模様。
  • 天保9年(1838年)春 大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重結婚。のち6男7女をもうける。
  • 弘化2年(1845年) 過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となった為である。
  • 嘉永2年11月7日1849年12月21日) その6日前に京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。
  • 嘉永3年(1850年) 郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
  • 安政5年4月24日1858年6月5日) 洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
  • 文久2年(1862年幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられる。
  • 文久3年6月11日1863年7月25日)江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。享年54(数え年)。
  • 1909年(明治42年)6月8日 贈従四位

人物論

  • 武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。
  • 当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。
  • また、日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。
  • 洪庵の人柄は温厚至極で、およそ怒りを発したことが無かったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり。」と評している[1]。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒げるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い。」と塾生に言わしめるほど効き目があった。
  • 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それはきわめて厳格で、実子の緒方惟準緒方惟孝が、預けられた加賀大聖寺藩渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである。(後日、復帰させた。)
  • 語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密(ちみつ)なることその放胆(ほうたん)なること実に蘭学界の一大家(いちだいか)、名実共に違(たが)わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰(かえつ)て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々(われわれ)は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している[2]。原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
  • 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
  • 福澤諭吉が適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。
  • 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。
  • 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。とくに和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな。」という悲痛な作品を残している。
  • 江戸での洪庵は将軍家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者としての風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが彼の健康を蝕んでいった。彼の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して長時間炎天下にいたことであると述べている。

周囲の人々

  • 緒方洪庵の妻八重は、夫との間に七男六女の子供(うち四人は早世)を産み、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。
  • 人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり顔が広かった。大阪城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。

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緒方洪庵の孫の緒方知三郎緒方章はそれぞれ病理学者と薬学者である。曾孫の緒方富雄東京大学血清学の研究を行い、日本の血清学の基礎を固めた。昭和23年(1948年)3月に財団法人血清学振興会を設立し、血清学領域の基礎研究及び応用研究が行われてきた。その後緒方医学化学研究所に発展し、血清学に留まらず広く医学歯学分野などの調査研究(学術誌:医学と生物学)を行っている。また、同研究所では緒方洪庵や杉田玄白石川大浪小石元瑞などの貴重な蘭学資料を「蘭学文庫」として所有し公開している。

第6話5月22日放送

ペニシリンの普及のため長崎の精得館で講義をする南方仁(大沢たかお)。実は長崎まで来たのはペニシリンを広めるだけではなく、坂本龍馬(内野聖陽)に会い暗殺の事を伝えようと決心していたのだ。
龍馬に会えず半ば諦めかけていたその時、突然仁の前に龍馬が現れる。ようやく龍馬に会うことが出来たと喜んだ仁であったが、そこで出会った龍馬は仁の知っている龍馬ではなかった。龍馬はグラバーから武器を手に入れ、幕府と戦争をする長州に武器を売って金儲けをしていたのだ。複雑な気持ちのまま、龍馬と共に長州を訪れる仁。
そこで目にしたのは、龍馬が売ったと思われる銃に撃たれた、幕府軍の大量の死傷者の姿だった。その戦場を冷ややかに見ている龍馬…。

少しずつ、少しずつ近づく龍馬への闇。
果たして、仁は道に迷う龍馬を救う事が出来るのか!?

第5話

南方仁(大沢たかお)が旅先の旅館で出会った少女・お初(畠山彩奈)。そんなお初が、折り紙で遊んでいる最中に、転んで大怪我を負ってしまう。
すぐさま橘咲(綾瀬はるか)とともにお初の治療にとりかかった仁だが、咲の目の前でなんと自らの身体が消えていってしまう!その瞬間、仁はあるものを目撃して…。
田之助(吉沢悠)の兄弟子・坂東吉十郎(吹越満)はレイノー症候群により手の先と足の指が潰瘍化していて延命するには手足を切断しなければならない。しかし、最後にもう一度舞台で芝居がしたいという吉十郎は、寝たきりの状態から動けるように治療をして欲しいと仁に頼む。仁友堂の面々は芝居ができるように吉十郎の治療をする。その甲斐もあり吉十郎は稽古が出来るようになるが・・・

皇女和宮について

和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、弘化 3年(1846年)閏 5月10日未刻(ひつじのこく)(午後2時頃)、仁孝(にんこう)天皇第八皇女として生まれた。 母は典侍(てんじ)橋本経子(つねこ)(議奏権大納言(ぎそうごんだいなごん)橋本實久(さねひさ)の女(むすめ))、のちの観行院(かんぎょういん)である。仁孝天皇は多くの后妃との間に七男八女を儲けられたが大半は夭逝して、成人したのは三人のみ。姉の敏宮(ときのみや)と兄、のちの孝明天皇、そして和宮であった。
 
和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化3年1月26日にお風邪がもとで病死なされている(御年47歳)。御誕生後、七夜に当たる閏 5月16日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。

 和宮は6歳の時、有栖川宮家の長男熾仁(たるひと)親王(天保6年2月19日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は17歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら6歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、 孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁(たかひと)親王から習字の手ほどきを受け、
のちに熾仁親王より和歌を学んだのである。
 和宮は小柄でとても可愛らしい少女で、1メートル43センチ、 34キロくらいだったとのこと。和宮は成長して14歳を迎える頃、熾仁親王は25歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体


 この時代は日本にとって重大な政治問題が山積、国際的な問題も多々あり、国内的には尊王攘夷を旗印として倒幕を目指す連中の力を殺(そ)ぐためには、 「公武合体」即ち江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと幕府は考えた。ときの将軍は紀州家から来た家茂(いえもち)(弘化 3年閏5月24日生)であった。 大老井伊直弼(いいなおすけ)は早くから公武合体を望んでいた。こうして和睦を図る一方で、京都の反対を押し切ってアメリカと条約を結んだが、反対派が激昂すると彼らを次々と捕えて投獄していった。 いわゆる安政の大獄である。吉田松蔭、梅田雲浜(うんびん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、橋本左内(さない)など、前途有為の人たちが犠牲になった。その後しばらくして、こんどは井伊直弼自身が水戸浪士らの凶刃にかかって桜田門外で果てたのであった。
 井伊大老横死の後、
老中 久世広周(ひろちか) 安藤信正(のぶまさ)らの画策により、万延元年(1860年)4月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川 第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮家への輿入も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。

 和宮は拒絶した。帝も妹宮の胸の内を思いやり、この結婚には反対の旨を幕府に伝えたのである。しかし幕府は諦めず何度となく圧力をかけて来た。帝は「仕方がない。それでは去年生まれた娘壽萬宮
(すまのみや)を江戸へ送ろう。 嬰児では困ると幕府がいうなら、退位しょう」と、帝は関白九条尚忠(ひさだだ)に手紙を宛てて信条を述べた。この手紙の写しが新大典侍(だいてんじ)勧修寺徳子と勾当掌侍(こうとうしょうじ)高野房子の両名により和宮の所へ届けられた。書面には「壽萬宮を江戸へ」と書かれたあと、帝は「一人娘のことで、少々寂しくはあるが」と添えられてある、その書面を見せられた和宮は胸を衝かれた。 「私が我(が)を張り続けているために、まだ乳のみ子の壽萬宮が江戸へ送られる。そればかりか、話がこじれれば帝は退位するとおっしゃっておられる」和宮は血をはく思いで「承知」の一言をもらされたのであった。

 文久元年10月20日辰刻
(たつのこく) (午前8時)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数 2万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り計四っの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。

   落 ち て 行 く 身 を 知 り な が ら 紅 葉 ば の
   人 な つ か し く こ が れ こ そ す れ


 大好きであった熾仁親王と別れて来た。 その人の面影を想い、 涙を流したことであろう。11月14日に無事板橋の駅に到着、翌十五日江戸九段の清水邸に入られた。それから約1ヵ月後の12月11日に、それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。

翌文久2年(1862年) 2月11日、江戸城内で将軍家茂と和宮の祝言が盛大に執り行われた。 ときに家茂、和宮共に16歳。京風とは全く違う、関東の荒々しい若者を想像していた和宮は、家茂が眉目律々しい気品を備えた初々しい青年であったのでとても安堵した。運命に翻弄された薄倖の和宮にとって唯一の救いは、夫家茂がとても思いやりのある立派な青年であったことである。家茂が井伊直弼らの策謀にかつがれ人望ある一橋家の慶喜(よしのぶ)(水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第七初め一橋家を嗣ぎ、後に後見職とて家茂を補佐、家茂亡きあと第十五代将軍職を継ぐ)を押し退けて将軍の座についたとき、ようやく数え年13歳であった。しかし、聡明な家茂はよく自分の置かれた立場を理解し、自らの能力の限度いっぱいを以て難しい政局に対処した。自分自身、攻略の犠牲となって遥々関東に送られてきた和宮は、幕府方、朝廷方と立場こそ違うが、同じ政治という怪物に苦しめられているこの同年代の夫に深い同情を抱いたのである。家茂は、か弱い少女の身で馴れない異郷へ送られてきた花嫁に青年らしく純粋ないたわりを示したのであった。和宮もまた婦道を弁え、いたらざる所がなかったという。

 和宮にとって不幸なことに、苦心の公武合体策は結局実らず、倒幕運動は激しさを増してい
った。結婚の翌年3月と、その次の年の正月の二度に渡って家茂は入洛(じゅらく)した。そして、慶応元年5月16日長州征伐のため大坂(現在の大阪)へ赴いた。 家茂はその年は江戸に帰れず、翌年7月脚気のため病床についた。 和宮は大層心配して、イギリス船で医者を送ったり、夜具や衣類、見舞の菓子などを届けさせたりした。しかし、その甲斐もなく家茂は慶応2年(1866年) 7月20日、20年の短い生涯を大坂城で終えたのであった。
 9月6日、家茂の遺骸は江戸へ帰った。そのとき、側御用取次平岡丹波から和宮へ西陣織物が届
けられた。これは家茂が征長出立の際に「土産は何がよいか」と尋ねたのに対し、和宮が「西陣織を」と、ねだったためである。形見となてしまった西陣織を抱きしめた和宮は、つと立って奥へ入って行き、そこで突っ伏して心ゆくまで泣いたのであった。

   空 蝉 の 唐 織 ご ろ も な に か せ む
   綾 も 錦 も 君 あ り て こ そ


 家
茂没後、 和宮は江戸城にとどまりその年の12月9日に薙髪(ちはつ)して静観院宮(せいかん  いんのみや)と称せられることとなった。

 時移り、風雲急を告げ、朝廷軍が江戸城を攻めるという際に、和宮は徳川家のために精一杯の努力をした。新将軍慶喜追討軍の総帥が、和宮のかつての許婚者有栖川熾仁親王であったのも不思議な巡り合わせといえよう。和宮の尽力により、何事もなく、徳川第十五代将軍慶喜は政権を朝廷に返上した。ときに慶応3年10月14日(1867年11月9日)、いわゆる大政奉還である。和宮は慶喜の助命を嘆願、徳川の家名存続にも尽力された。
 慶応4年(1868年)4月9日、和宮は江戸城を出て清水邸に移られた。 その後、京都に帰住されるため明治2年1月18日東京(明治元年7月17日、 江戸を東京と改称)を立ち京都に向かわれた。京都在住は明治7年6月までの5年に及んだ。
 既に東京に移られていた天皇のお勧めにより、東京移住を決心された和宮は、明治7年6月24日京都を立ち7月8日東京に到着、かねて用意されていた麻布市兵衛町の御殿に入られた。和宮はここで3年有余を過ごされたのである。

 和宮は数え年32歳になった頃より脚気の病になり、 伊藤博文公の勧めにより明治10年8月7日から箱根塔之沢の「元湯
(もとゆ)に静養のため滞在され、 一時よくなられて歌会を開かれるまでに快復されたが、26日目の9月2日、俄に衝心
(しょうしん) の発作が起こり、この地で他界されたのである。
 すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである。 しかし、和宮の遺言「将軍のお側に」とのお言葉が取り上げられ、9月13日増上寺での本葬となった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」と申し上げる。和宮様の七回忌の法要が、明治16年旅館「元湯」で行われ、増上寺からは立譽大教正
(福田行誡) が78歳の老躯をおして参列され、導師をつとめられた。

 和宮の七回忌が行われた明治16年9月2日、箱根阿弥陀寺は箱根、小田原をはじめ各地から集まった人々で賑わった。その際、和宮が朝夕に将軍家茂の無事を祈るために手元に置ていた仏像、もと徳川家康の護り本尊であった黒本尊が遷座された。
 そし
て、百年が過ぎた昭和49年9月2日、阿弥陀寺盛大な百年忌法要が行われ
の折りに作られた千葉仔郎詞の「和宮の歌」が今も和宮の歴史を伝えている。
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