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大河ドラマ「軍師官兵衛」

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小寺政職

永正14年(1517年)、播磨御着城主・小寺則職の子として誕生する。通称は藤兵衛。
小寺氏は、赤松氏の分家にあたり、祖父・政隆(まさたか)の代までは姫路城を本拠としていた。
赤松氏の重臣として仕え、大永元年(1521年)9月に赤松義村浦上村宗に殺害されると、義村の遺児・赤松政村(のちの晴政)と共に細川晴元を頼って落ち延びた。享禄4年(1531年)に村宗と細川高国を討って赤松氏の再興に尽力した(大物崩れ)。政村が「晴政」に改名した1540年から1541年ごろに元服してその偏諱(「政」の字)を受け、政職と名乗る。その後は幾たびかの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。この間、政職は多くの家臣を登用し、中でも牢人であった黒田重隆職隆親子の能力を認め、天文14年(1545年)に彼らを家老職に引き上げ姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えている。また自身の偏諱を与えた職隆の子・孝高にも、自らの従姪(櫛橋氏の娘・)をめとらせるなど厚遇している。なお、黒田氏の家紋である橘紋は、黒田職隆が小寺氏に仕えた際に下賜されて以来のものである。
天正4年(1576年)、播磨に東から織田氏、西から毛利氏と大勢力が迫ってくると、政職はかねてから織田氏と誼を通じていた孝高の進言を受け、織田信長に従った。ところが、天正6年(1578年)に荒木村重摂津有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。
しかし天正8年(1580年)、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城、政職は毛利氏のもとへ落ち延びたという。天正10年(1582年)、死去した。
なお、子に氏職(うじもと)、正則(まさのり)らがおり、そのうち氏職は後に黒田氏に仕え、子孫は福岡藩士として代々続いた。
官兵衛(岡田准一)は村重(田中哲司)が籠る有岡城に幽閉される。官兵衛は殺されたとの情報が飛び交い、光(中谷美紀)や職隆(柴田恭兵)は黒田家の動揺を懸命に抑える。
 
官兵衛(岡田准一)は村重(田中哲司)によって有岡城に幽閉され、共に信長(江口洋介)を倒そうとの誘いを拒絶し続ける。消息が途絶え、官兵衛はすでに死んだとの情報が飛び交う中、光(中谷美紀)や職隆(柴田恭兵)は懸命に家中の動揺を抑える。一方信長は、敬けんなキリシタンである村重側の右近(生田斗真)に対し、村重を裏切らねば、信徒を皆殺しにすると脅す。そして官兵衛はだし(桐谷美玲)を味方につけ脱獄を図るが…

有岡城

概要

南北朝時代摂津国人伊丹氏によって建築され、文明4年(1472年)には改築され、それまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となった。
しかし、天正2年11月5日1574年11月18日)、荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。
荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城することになる。
 大坂城江戸城などにもあった惣構えの最古(2005年現在)の遺構が発掘された。城の東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、これらの河川が天然の要害となっていた。

伊丹城・有岡城の略史

  南北朝時代伊丹氏により築城。伊丹城と称する。

  • 天正2年(1574年):荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。
  • 天正7年(1579年):村重謀反により織田軍に攻められ落城。
  • 天正8年(1580年):池田之助が城主になる。
  • 天正11年(1583年):之助が美濃に転封されることにより、廃城。
  • 明治26年(1891年):鉄道敷設の為、当城東側破壊。
  • 昭和50年(1975年):発掘調査開始。
その後史跡公園として整備され、現在に至る。

現在確認可能な残存遺構

  • 石垣
  • 土塁
  • 井戸跡
  • 堀跡
など。

その他

 黒田如水は当城内にあった牢内に幽閉されていた時期があった。

  • 信長に反旗を翻し城に籠もっていた城主の村重は、家宝の茶壺である兵庫壺を背負い、名「立桐筒」を腰に結わえ、少数の家臣と共に尼崎城に移ったという。逃亡という説もあるが、その後有岡城が直ぐに落城しなかったところから、同盟を結んでいた毛利と連絡を図るためとの説がある。残された家臣は堅城を恃みによく戦ったがついには内応により落城する。
  • 猪名野神社の紋章は村重を従えていた織田家の家紋(織田木瓜)である。
  • 城跡南東には「荒村寺」と言う村重の由来を感じさせる寺があり、伊丹城・有岡城で亡くなった人達の慰霊碑がある。
  • 城跡南西には「墨染寺」と言う寺があり、謀反後に処刑された荒木家由来の人々の墓がある。
信長(江口洋介)に謀反を起こした村重(田中哲司)に、政職(片岡鶴太郎)が同調した。官兵衛(岡田准一)は謀反の大本、村重を翻意させるため、単身、有岡城に乗り込む。
 
村重(田中哲司)が信長(江口洋介)に謀反を起こし、右近(生田斗真)ら摂津諸将も反織田包囲網に加わった。秀吉(竹中直人)の説得も物別れに終わる中、官兵衛(岡田准一)のもとに主君・政職(片岡鶴太郎)まで毛利方に寝返ったという知らせが入る。政職を翻意させるには大本の村重を説得しなければならない。周囲の反対を振りきり決死の覚悟で単身、村重の籠もる有岡城へ向かう官兵衛。それは人生最大の苦難の始まりであった。

荒木村重

天正二年(1574)に伊丹氏を伊丹城から放逐した荒木村重は、丹波多紀郡波多野氏の一族だといわれています。村重の父は摂津豊島群の池田勝正に属し、村重も勝正の郎党として仕えました。
 信長が摂津に進出すると、池田氏は信長に属し、村重も勝正に従い参戦しますが、池田氏の内紛に乗じて勢力を強め、天正元年(1573)、和田惟政をうち、茨城城主となりました この年、足利義昭を宇治槇島城に攻める信長勢に参加し、その功によって、信長から摂津一国の支配を任じられます。
 同二年、村重は池田氏を追放し、ついで伊丹氏を滅ぼし,伊丹を本拠として摂津の有力大名となり、摂津守に叙任されました。
 摂津は、都に近く、西日本の陸海運の流通路の要地であり、戦略的にも重要性の高いところです。南北朝の内乱期以来、摂津の支配権をめぐっての混乱が長く続いたことはよく知られるところです。村重はこの摂津の支配を任ぜられ、伊丹城を有岡城と名を改め、ここに入城しました。
 しかし、村重の有岡城在住期間は長く続きませんでした。天正6年(1578)の秋以来、信長に対して異心を持つという噂が流れますが」、村重はあえて否定しません。やがて翌七年九月には、十ヶ月の籠城の末、信長の総攻撃により町は焼かれ有岡城は落城します。籠城した妻子,武将、町人など全てが処刑されましたが、村重は毛利家を頼って落ち延びます。その後、秀吉のお伽衆として召し抱えられ茶人として生き、五十二歳で天寿を全うしました。

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