毛利元就の3男で、兄弟に同母兄の
毛利隆元・
吉川元春などがいる。
毛利両川の1人として、元春と共に
毛利氏の発展に尽くした。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。
豊臣政権下では
豊臣秀吉の信任を受け、
文禄4年に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に
五大老の一人に任じられた。実子はなく、
木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(
小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の統率者であった。
天文11年(
1541年)に竹原小早川氏の当主・
小早川興景が死去。継嗣が無かったため、小早川氏の重臣らは元就に対し子の徳寿丸に跡を継がせるよう求めた。
大内義隆の強い勧めもあり元就は承諾した。義隆の偏諱を賜い隆景と称す。元就の姪(
毛利興元の娘で隆景の従姉)が興景の妻だった縁もあり、この養子縁組は小早川家中でも平和裏に進み、天文14年(
1544年)に隆景は竹原小早川氏の当主となる。
天文16年(
1547年)、大内義隆が
備後神辺城を攻めたときに従軍し、初陣を飾った。この時、隆景は神辺城の支城である龍王山砦を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。
一方、小早川氏の本家・沼田小早川氏の当主であった
小早川繁平は若年で病弱な上、眼病により盲目となっていたため、家中は繁平派と隆景擁立派で対立し、大内義隆は
尼子氏の侵攻に堪えられないのではと懸念した。天文19年(
1550年)、義隆は元就と共謀し、
乃美隆興・
景興父子を中心とした隆景擁立派を支持、尼子氏との内通の疑いで繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んだ。そして隆景を繁平の妹(後の
問田大方)に娶せ、沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継がせることで、沼田・竹原の両小早川氏を統合する。その時、繁平派の
田坂全慶ら重臣の多くが粛清されている。なお、隆景と門田大方との間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。
以後の小早川氏は毛利一門に組み込まれ、毛利氏直轄の精強な水軍として活躍することになる。隆景の率いた小早川水軍は、毛利氏が一躍世に出た
弘治元年(
1555年)の
厳島の戦いにおいて、
陶晴賢率いる大内水軍を破って海上を封鎖し、毛利軍の勝利に大いに貢献している。この時、
乃美宗勝を通じて
村上水軍を味方に引き入れる調略でも功を挙げている。その後、弘治3年(
1557年)に
周防・
長門を攻略し、大内氏を滅ぼした戦い(
防長経略)にも参加している。
元亀2年(
1571年)には
三村氏の所領であった
児島を狙って兵を動かした
浦上宗景とこれに同調する動きを見せた
村上武吉らと交戦。4月に村上軍の
本太城を陥落させ、児島にも
粟屋就方を送り込んだが5月の
児島の戦いで浦上宗景と増援に現れた
三好氏配下の
篠原長房の攻撃により粟屋就方は惨敗し児島制圧に失敗した。そんな情勢の中で6月に元就が危篤になると、備中に駐軍を続ける事が出来なくなり児島周辺の情勢を憂慮しながらも兵を一旦安芸へ退かざるを得なくなった。
元就死後、毛利氏の家督はまだ若い元就の孫である
毛利輝元が相続する事となり、その補佐役として毛利氏の中での元春・隆景兄弟の役割はますます大きくなり、大友氏や尼子氏、大内氏の残党らと争い各地を転戦する。
天正2年(
1574年)に入ると、
織田信長の勢力が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになる。この年播磨の
浦上宗景が織田氏の支援を受け、毛利氏と戦いを交え、天正3年(
1575年)には
三村元親が織田方に通じて裏切る。隆景は三村氏を討伐し、
豊後の
大友宗麟が信長と通じて侵攻してくると、水軍を率いて大友軍と戦った。
天正10年(
1582年)には
清水宗治が籠る
備中高松城が包囲され、隆景は輝元・元春と共に毛利氏の主力3万を率いて救援に赴いた(
備中高松城の戦い)。しかし、この時点で既に3万の秀吉軍と兵力は拮抗しており、さらに3月に武田氏を滅ぼした信長の本軍が中国地方に向けて出兵の準備を進めていた。隆景は、毛利氏が織田氏に勝つ見込みが薄いと判断していたためか、
安国寺恵瓊を通じて秀吉と和睦交渉を秘密裏に行う。6月に
本能寺の変が起きて織田信長が死去すると、秀吉は
明智光秀討伐のため、毛利方に本能寺の変を秘したままで急ぎ和睦を結び、畿内へ取って返す(
中国大返し)。すでに秀吉の調略の手が伸びており、疑心暗鬼に陥っていた毛利軍は羽柴軍を追撃することができなかった
[3]。『
陰徳太平記』によると次兄の吉川元春が秀吉の追撃を主張したのに対し、隆景は「いったん和睦しようと起請文をもって約盟したのに、血墨のいまだ乾かぬうちに、敵の災いに乗じて約束を破る事は、大将たる者の恥であって、すべきことではない」と述べて反対したという。また隆景は中国の故事を出して喪を襲う事の非を説き、仁義を知る者の大切さを説いたといわれる。
天正10年(1582年)に隆景は居城を新高山城から
瀬戸内海に面した
三原城に移している。
天正11年(
1583年)の
賤ヶ岳の戦いでは中立を保ったが、この戦いで羽柴秀吉が
柴田勝家を破ると、毛利氏は日和見路線を捨て、秀吉に従属した。この時、隆景は養子の
小早川元総(弟、後に秀包と改名)を人質として秀吉に差し出している。
その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(
1585年)の
四国攻めでは
伊予の
金子元宅を破り討ち取るなどの功績を挙げた。豊臣政権は大名統制策として伊予1国を与えて独立大名として扱ったが、隆景側は一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保った。
湯築城に入城した隆景は大津(大洲)城に秀包を配置するなど伊予の統治を開始し、
河野通直を道後に隠居させて旧河野家家臣や
西園寺公広とその家臣を配下とした。ただし、約2年で終わる伊予領主の間も本拠地は三原のままであった。なお、隆景の伊予支配は素晴らしく、
ルイス・フロイスは「隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い」と称賛している。
天正14年(
1586年)からの
九州征伐にも参加し、戦後に秀吉から
筑前・
筑後・
肥前1郡の37万1300石を与えられた。しかし九州征伐で次兄・元春とその嫡男・元長が相次いで陣没したため、隆景は1人で輝元を補佐し、毛利氏を守っていくことになり、そのため九州の所領支配までできないとして1度は断った。しかし秀吉は
豊臣家の
蔵入地としてその
代官をするように迫り、ならば
肥後の
佐々成政と交替でなら引き受けるとしたが、これも許されず、結局豊臣政権下の独立した大大名として取り立てられた
[6]。隆景はこの時、「筑前は吾に過ぎたる事だ。最近まで敵だった身に大国を与えられるとは、吾を愛するに非ず。九州を手なずけるための仮の謀よ」と述べたという(『
常山紀談』)。なお、隆景はあくまで毛利家の家臣として筑前は自分の領国とせず、豊臣家からの預かり物として管理した。
文禄3年(
1594年)には豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(小早川秀秋)を毛利本家の
養子に迎える事を提案される
[6]。『
芸侯三家志』によると40歳になる輝元には跡継ぎとなる実子が無く、そこで秀吉は秀俊を養子に送り込もうとした
[8]。しかし秀俊の器量や本家の血統を保持するため、秀吉に謁見して弟の穂井田元清の嫡子・
毛利秀元を養子にする事を定めているとして養子入りを拒否し、自らの養子にしていた異母弟・秀包に別家を立てさせて秀俊を自らの養子に迎えた。
文禄4年(
1595年)に豊臣秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、
徳川家康や
前田利家等と共に
五大老の一人に任じられた。 その後、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、家臣団と共に三原に移る
[8]。その際、秀吉から筑前に5万石という破格の隠居料を拝領する。その際、
名島城を大改修して居城とした。慶長2年(1597年)6月12日急逝。享年65。死因は卒中といわれる。