享禄
3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸
吉田郡山城で生まれる。
吉川家相続
天文16年(
1547年)7月、母方の従兄の
吉川興経の養子となる。これは興経と仲の悪かった叔父・
吉川経世をはじめとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。条件は吉川興経の生命を保証すること、興経の子
千法師を元春の養子として、成長後に家督を相続させることであった。天文19年(
1550年)、元就は興経を強制的に
隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。そして熊谷信直らに命じて興経とその実子・千法師を殺害して、毛利家より格上の吉川家を事実上乗っ取ったのである。
以後、安芸大朝の
小倉山城に入った元春であったが、より要害の地である
日野山城を築き、拠点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。
大内・尼子との戦い
しかし、永禄12年(
1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の
山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。
布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する
大友宗麟の下に寄食していた
大内氏の一族・
大内輝弘が
周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を一気に攻めて自害に追い込み(
大内輝弘の乱)、
元亀2年(
1571年)には謀略を用いて
尼子勝久の籠もる
末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて脱走)。
織田信長との戦い
元亀2年(
1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・
毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。
しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた
織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、
天正4年(
1576年)に最後の室町幕府将軍である
足利義昭が毛利氏を頼って安芸国
鞆に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(
1577年)からは織田信長の命を受けた
織田氏の重臣・
羽柴秀吉率いる中国遠征軍が
播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(
1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の息の根を止めた(
上月城の戦い)。
天正10年(
1582年)、
清水宗治らが立て籠もる
高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(
備中高松城の戦い)。しかし秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。
そのような中、6月2日に織田信長が
明智光秀の謀反で
横死を遂げた(
本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・
安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった
[2]。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。織田軍は
備中国から撤退した。
『
川角太閤記』によれば、元春はこの際追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『
吉川家文書』では、両名が、追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている
[3]。
最期
天正10年(
1582年)末、家督を嫡男の
元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「
吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。
その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(
1585年)、隆景は積極的に秀吉の
四国征伐に参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。
天正14年(
1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら
九州征伐に参加した。しかしこの頃、元春は
化膿性炎症(
癌とも)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の
豊前小倉城二の丸で死去した。
享年57。