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大河ドラマ「軍師官兵衛」

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新たに豊前に領地を与えられ官兵衛(岡田准一)は九州に移り住むが、秀吉(竹中直人)が本領安堵の約束を破ったことに宇都宮鎮房(村田雄浩)が激しく反発、一揆を起こす。
 
 
秀吉(竹中直人)からキリスト教信仰を捨てよと命じられた右近(生田斗真)は、身分や領土など全てを投げうち信仰に生きることを決意、官兵衛(岡田准一)に別れを告げる。一方、黒田家は新たに豊前に領地を与えられ播磨から九州に移り住むが、秀吉からの本領安堵の約束を破られ、追い出された宇都宮鎮房(村田雄浩)が激しく反発、一揆を起こす。官兵衛は宇都宮との戦を禁じるが、長政(松坂桃李)は敵の誘いに乗り出陣する。
官兵衛(岡田准一)は豊前の領主・宇都宮鎮房(村田雄浩)に本領安堵(ど)を約束、味方にする。一方、九州入りした秀吉(竹中直人)は思うままに振る舞い官兵衛を振り回す
 
遂に家康(寺尾聰)が秀吉(竹中直人)に帰順、東の脅威がなくなった秀吉の九州出陣が決定した。九州に先乗りしていた官兵衛(岡田准一)は、豊前の領主・宇都宮鎮房(村田雄浩)に本領安堵を約束し、味方につける。出陣した秀吉は九州でキリシタンが大きな力を持つことを知り警戒を強め、信徒である右近(生田斗真)や官兵衛の不安が高まる。一方、茶々(二階堂ふみ)が秀吉の求愛を受け入れると言い出し、秀吉は大喜びする。
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享禄
3年(
1530年)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれる。
天文9年(1540年)、出雲国尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。
天文12年(1543年)8月、兄・毛利隆元より偏諱(「元」の字)を受けて元春と名乗った。天文16年(1547年)、自ら望んで熊谷信直の娘新庄局と結婚する。

吉川家相続

天文16年(1547年)7月、母方の従兄の吉川興経の養子となる。これは興経と仲の悪かった叔父・吉川経世をはじめとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。条件は吉川興経の生命を保証すること、興経の子千法師を元春の養子として、成長後に家督を相続させることであった。天文19年(1550年)、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。そして熊谷信直らに命じて興経とその実子・千法師を殺害して、毛利家より格上の吉川家を事実上乗っ取ったのである。
以後、安芸大朝の小倉山城に入った元春であったが、より要害の地である日野山城を築き、拠点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。

大内・尼子との戦い

弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、義兄弟の仲であった陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。弘治2年(1556年)からは石見国に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも晴久に退けられる(忍原崩れ降露坂の戦い)。弘治3年(1557年)に父が隠居すると、隆景と共に両川として毛利家を実質的に支える中核となった。
永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して大いに武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。
しかし、永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する大友宗麟の下に寄食していた大内氏の一族・大内輝弘周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を一気に攻めて自害に追い込み(大内輝弘の乱)、元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠もる末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて脱走)。

織田信長との戦い

元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。
しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って安芸国に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の息の根を止めた(上月城の戦い)。
その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、天正8年(1580年)には三木城が落城し、城主の別所長治は自害。そして備前国の宇喜多直家や伯耆国の南条元続が織田家に与し、豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡国鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。
天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠もる高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。
そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で横死を遂げた(本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[2]。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。
川角太閤記』によれば、元春はこの際追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『吉川家文書』では、両名が、追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている[3]

最期

天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。
その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585年)、隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。
天正14年(1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州征伐に参加した。しかしこの頃、元春は化膿性炎症とも)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57。
秀吉(竹中直人)の先鋒として中国の毛利勢とともに九州攻めを命じられた官兵衛(岡田准一)は、秀吉を宿敵と恨む・吉川元春(吉見一豊)を出兵させるため、勝負に出る。
 
秀吉(竹中直人)は大友宗麟(上條恒彦)の願いを受け九州攻めを宣言、東の脅威を取り除くため、家康(寺尾聰)の封じ込めを図る。秀吉に先立ち官兵衛(岡田准一)が先ぽうとして西に向かい、毛利勢を加え九州に乗り込もうとするが、小早川隆景(鶴見辰吾)はなぜか腰が重い。隆景の兄・吉川元春(吉見一豊)が長年の宿敵、秀吉に臣従することを快く思わず、出兵を拒んでいたのだ。そこで官兵衛は元春を動かすため、勝負に出る。

略歴
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摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城荒木村重の子として生まれる[1][2][3]。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り,信長の息子織田信雄近習小姓役として仕えたとい]。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。
代表作としては川越市喜多院の「三十六歌仙」の額絵、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。歌舞伎文楽の人気演目である「傾城反魂香」の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。
絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿梁楷風の水墨画や、狩野派海北派土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、しばしば浮世絵の源流といわれる。
代表作としては川越市喜多院の「三十六歌仙」の額絵、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。歌舞伎文楽の人気演目である「傾城反魂香」の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。

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