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大河ドラマ「軍師官兵衛」

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官兵衛(岡田准一)は毛利との決戦に出陣。初陣で手柄を焦る嫡男の長政(松坂桃李)を叱責する。一方、光秀(春風亭小朝)は信長(江口洋介)の強引な手法に不満を覚える。
 
毛利攻めで初陣を迎えることとなった嫡男の長政(松坂桃李)が血気にはやることを危ぶんだ官兵衛(岡田准一)は太兵衛(速水もこみち)に目付役を命じる。そして毛利の守りの要、備中高松城の清水宗治(宇梶剛士)の調略を図るが失敗、城攻めの奇想天外な策を思いつく。一方、光秀(春風亭小朝)は、強引な信長(江口洋介)の手法への不満を募らせる。そんな中、姫路では、光(中谷美紀)の14年ぶりの出産に沸きかえる。
NHKは19日、大河ドラマ「軍師官兵衛」(日曜・後8時)の第30回「中国大返し」(7月27日放送)のロケ写真を公開した。官兵衛役・岡田准一(33)と息子の長政役・松坂桃李(25)の馬上でのオフショットもある。
 中国大返しは、本能寺の変での信長の死を知った秀吉が毛利と和睦(わぼく)し、光秀を討つため京への約200キロを大軍で大移動した最大の見せ場。12頭の騎馬、エキストラ100人とのロケを終えた岡田は「トップギアの官兵衛を演じきった。手応えを感じています」と話した。
秀吉(竹中直人)軍と毛利軍との全面対決を前に官兵衛(岡田准一)は光秀(春風亭小朝)を訪ね、思わぬ誘いを受ける。一方、信長(江口洋介)は権力の絶頂を迎えていた。
 
毛利との決戦を前に秀吉(竹中直人)の命で、官兵衛(岡田准一)は織田家の出世頭となった光秀(春風亭小朝)と会う。光秀からは軍師になれと誘われるが断る。朝廷は光秀に接近を図り、力を増す信長(江口洋介)を抑えようとするが、その権勢は絶頂を極めつつあり、毛利方の小早川隆景(鶴見辰吾)は、織田との戦いに決死の覚悟を固める。そしてついに官兵衛の嫡男・松寿丸は元服、長政(松坂桃李)と名乗り、戦いに加わる。
軍師として復帰した官兵衛(岡田准一)の人が変わったような冷徹さに秀吉(竹中直人)は驚く。そんな中、裏切って逃げた小寺政職(片岡鶴太郎)が捕まり対面した官兵衛は…
 
播磨の反織田勢力は勢いを失い、残るは御着城の小寺政職(片岡鶴太郎)と三木城の別所氏のみとなった。官兵衛(岡田准一)は見事に三木城を開城させるが、その人が変わったような冷徹さに秀吉(竹中直人)ら周囲は驚く。一方、政職は城を放棄し逃げ出すが、善助(濱田岳)ら黒田家家臣に捕えられる。かつて己を裏切り幽閉へと追い込んだ張本人・政職に怒りをあらわにする黒田家の家臣達。そこに現れた官兵衛が下した意外な裁きとは

宇喜多直家

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浦上家臣時代

享禄2年(1529年)、宇喜多興家の子として生まれ]。一説に 備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城で生まれたとされるが、史料の裏付けはない。
天文3年(1534年)、祖父・能家島村盛実らによって暗殺されたとき、わずか6歳だった直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったという。成人すると天神山城主・浦上宗景に仕え、浦上家臣団の中で頭角を現す。
直家は策謀に長けており、祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、舅である中山信正龍口城主・穝所元常を殺害し、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たした。

下克上

永禄9年(1566年)2月には美作国へ進出した備中国三村家親を、顔見知りの阿波細川氏の浪人・遠藤兄弟(俊通秀清)を起用して鉄炮で暗殺。翌年7月の明善寺合戦によりそれまで備前西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。その後も、姻戚関係にあった金川城松田元輝元賢親子、さらに岡山城主・金光宗高などを没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった。
永禄12年(1569年)、織田信長や西播磨の赤松政秀と結び主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら赤松政秀が青山・土器山の戦い黒田職隆孝高親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正別所安治なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされた。この時は特別に助命され帰参を許されている。
天正2年(1574年)に再び宗景からの独立を狙うにあたってはまず小寺氏預かりとなっていた宗景の兄・浦上政宗の孫・久松丸の存在に目をつけ小寺政職に久松丸の備前入りを打診し、許可を得るとこれを擁立し宗景に対して反旗を翻す。今回は久松丸の擁立と直家の事前の諜略により美作や備前国内での宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、更に宗景と犬猿の仲であった安芸国毛利氏と結び軍事面での不利を覆す。天正3年(1575年)の毛利氏による三村氏攻撃にも加勢するなど協同体勢を取った。同年9月、宗景の腹心であった明石行雄ら重臣たちも内応させ宗景を播磨国へ退け、備前のみならず備中の一部・美作の一部にまで支配域を拡大した(天神山城の戦い)。
しかしながら宗景追放後も依然として備前には旧浦上家臣の勢力が残っており、また宗景や一門の浦上秀宗なども播磨からこれらと密かに連絡を取り合い[6]、度々備前に潜伏する旧浦上家臣の煽動した小規模な蜂起に悩まされる事となる。この状況は天正6年(1578年)12月の浦上残党が一斉蜂起し、幸島を占拠するという事件まで続く事となる。浦上宗景・秀宗らが首謀者となったこの武装蜂起は一時期、天神山城を奪うなど勢いを見せ鎮圧には数ヶ月を要した。しかし、これを期に備前や播磨に潜んでいた旧浦上の勢力を領内から放逐。更に宗景を援助していた美作鷲山城主の星賀光重を討ち、宗景の領主復帰の野望を打ち砕きついに宇喜多家の領内での安定した支配権が確立される事になった。
しかし織田信長の命を受けた羽柴秀吉中国方面に進出してくると、これに対抗、天正7年(1579年)5月には信長に内応したとして東美作の後藤勝基などを滅ぼしたものの、10月、直家自身も毛利家と手を切って信長に臣従する。以降美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返すが、天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。 その死はしばらく隠されたといい[7]、翌10年(1582年1月9日が公式な忌日とされている。戒名は涼雲星友。

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