ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、
所領安堵の約束を反故にして毛利家を
減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の
秀就に周防・長門2国を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の
毛利秀元と重臣の
福原広俊・
益田元祥らが藩政を取り仕切っていた。
周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年(
1605年)御前帳に記された石高である。
慶長12年(
1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(
1610年)に検地を終えた。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現
岩国市錦町・
本郷町)では
一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余をうちだした。慶長18年(
1613年)、今次の
江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。
ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は
本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の
広島藩主
福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は
寛永2年(
1625年)には65万8299石3斗3升1合、
貞享4年(
1687年)には81万8487石余であった。
宝暦13年(
1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。
また新しい居城地として防府・山口・
萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ
日本海に面し隣藩の
津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。
長州藩士はこの毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つといわれる
[1]。彼らは元来が
広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。
戦国期までは
山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、
表日本の
瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から
裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、
徳川家への怨嗟の声でみちた
[2]。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、
知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる
[1]。
前述のような辛酸を舐めたことから、長州藩では江戸時代を通じて「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという。この伝説について、毛利家現当主・
毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。ただ長州藩主導により倒幕・明治維新を迎え借りは利息をつけて返したわけであるから、維新も遠くなった昭和初年の生まれである現当主に、そのような教育はむしろ弊害としてされなかったことは考えられるかもしれない(当時華族は学習院に学ぶわけであるから、徳川家と先輩・後輩関係、同級生関係になる可能性はあった。実際、元敬は水戸徳川家と同級生で仲良くしていたことも言及している)
[3]。また、藩士は江戸に足を向けて寝るのが習慣となった(ただし、参勤交代時は藩主が江戸に在住している訳であり、また正室・世子は常に江戸に在住していること、萩から江戸方向は天子のおわす京と同方向であることをどう考えたのかは疑問が残るところである。しかし今でも旧藩士の家ではその伝統が伝えられている家がある)。
幕末になると長州藩は
公武合体論や
尊皇攘夷を拠り所にして、おもに
京都で政局をリードする存在になる。また藩士
吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)
松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(
文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、
会津藩と
薩摩藩が結託した
八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。
下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と
1864年(
元治元年)7月に、
英 仏 蘭 米の列強四国と
下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
1864年(元治元年)の
池田屋事件、
禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は
徳川慶勝を総督とした第一次
長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・
益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士
高杉晋作は、
伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(
元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の
奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(
木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした
諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(
大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(
四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まった。
だが、1869年(
明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(
萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(
1871年)旧6月、山口藩は支藩の
徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の
廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、
公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における
山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った
会津藩(
会津若松市)と長州藩(
萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた
戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。