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今日、私の若い友人から以下のメールを頂戴したので紹介する。
神奈川県が国旗国歌で、議論されています。県情報公開審査会は左翼教師の不規律、不唱和を「思想、表現の自由」などとふざけた主張を肯定し、県教委は、まともに反論できず、「東京」から「強弁」だと非難されています。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008020402085009.html
1職務命令は、一見かつ明白な瑕疵がない限り、当該職員を拘束します。
国旗、国歌の教育実施命令が「一見かつ明白な瑕疵」である根拠をまったく示せていません。
2学習指導要領で定めれた内容の教育を受ける権利は、すべての児童、生徒が享有するもので、それを妨げる行為、不作為は、学習権、児童生徒の学習内容へのアクセス権を侵害するものです。
左翼教師や県公開審査会は、教育現場でもっとも大切なはずの児童生徒の立場に沿って、モノを考えようなことをせず、たまたま少数派の左翼教師に当たった少数の児童生徒の権利が侵害された事態を受け止めようとしません。少数派をおざなりにして、自己のわがままにすぎない「自由」を一方的に主張、肯定するだけです。
自分の権利の普遍性を主張する者は、他者の権利の普遍性(ここでいう児童生徒の学習権)をも尊重しなければ、自己の権利は普遍とはいえません。
左翼教師の国旗国歌反対は、道理から、実態から、運動論からも完全に破綻しきっています。
自由権を主張するなら、教師を辞めて、街頭で自己の主張を展開すればいい、それは自由です。
他人の権利を踏みにじって、平然として、自己の権利を一方的に主張するなど、権利ではありません。
それへの私のレスの一部は以下のとおり
私たちが生きていることは幾千年の歴史の中で、無数の先達が苦闘した結果なのです。
もちろん、今の価値観から判断したら、許せない父祖もいたのかもしれませんが、それでも、その人がいなければ「私」は存在しないし、わが息子も二人生存していません。
歴史の中で、「光と影」はある。
影だけ教えられると人間は、誇りを失う。光があることで、より良く生きようと決意する。
わが息子は、大阪府立消防学校の卒業式で「君が代」を力いっぱい歌った。
父の私は涙で歌えなかった。
彼の一年半前の府立高校の卒業式では、何百人いる中で歌ったのは、私だけだった。
その昔、君の兄の小学校入学式で私は起立することなく、無言でいてた。
息子は「公」に奉ずる気持ちがあったから歌えたのだと思う。
この社会を「批判するのではなく支える」決意をした息子を持ったことで私はまわり道したけけど、生きた意味はあると思う。
私はその息子を一年と1ヶ月前にを台湾総統府と2.28紀念館に連れて行った。
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