共産党の前議長、不破哲三の京都での演説は歴史的な重みがあった。
12月24日付けの毎日新聞に載っている不破哲三のインタビュー記事を読んで、改めて実感させられた。
かつての自民党の重鎮である野中広務の言葉を引用して、安倍晋三を代表とするネオナチ極右勢力に乗っ取られた自民党の本質は、ネオナチ政党だ、と正体を暴いたのだが、これは安倍自民党を打倒する上で、戦略的にみて重要な意味を持つものだろう。打倒する対象の本質を掴んでいなければ、有効な戦略を立てることはできないからだ。
この件に関しては前にブログで言及している。
今回はこれとは別に、インタビューで不破哲三が述べた次のことに注目したい。
日本における二大政党制を考える場合、その実質的な産みの親である小沢一郎を避けて通ることはできない。小沢一郎はまだ二大政党制に固執している。妄執といった方が適切だろう。
わたしは二大政党制を考えるとは、そのまま小沢一郎を考えることだと思っている。二大政党制が小沢一郎の功罪と限界そのものだからだ。二大政党制が小沢一郎の本質を炙り出してしまうのである。
「そもそも2大政党制は歴史が生み出すもの」との不破哲三の指摘は何を意味するのだろうか。
不破哲三の意図するものと、わたしが考えるものとはおそらく違っているのだろう。それを前提にして、二大政党制の歴史的意味を述べてみたい。
わたしはブログで、二大政党制は本質的には変わらない二つの政党を背中合わせにして、裏と表を交互に変えることで、国民の目を欺き、国民の心を牢獄に幽閉することだと書いた。
アメリカ国民には、これほど不幸なことはない。が、歴史的な意味と必然性があったのである。それは社会主義大国ソ連の存在である。
社会主義革命によって、世界に初めて共産党の一党独裁によるソビエト連邦が誕生した。自由と平等を掲げる資本主義諸国にとっては脅威そのものでしかない。世界規模での社会主義の流れをどうにかして食い止めねばならない。その先頭に立ったのが建国から僅かの間に大国にまでのし上がったアメリカである。
アメリカには歴史と伝統と文化がない。新大陸へと移民が大量に渡り、そこで暮らしていた先住民を歴史と伝統と文化ごと、銃によって抹殺して建国されたのがアメリカだからだ。
アメリカの原点と本質とは、ここにあるといっても過言ではないだろう。そして、西欧近代主義の本質と、また自由と平等の負の側面もここに見出すことができないだろうか。
アメリカの建国とは、西欧近代主義そのものの理念である、自由、平等、博愛を掲げてなったからだ。西欧近代主義の純粋な理念を体現した国家なのである。思えばアメリカが前面に出て、ソ連に対抗したのは歴史的必然性があったのだろう。
ソ連は共産党独裁の一枚岩の政治体制である。それに立ち向かうとしたらどうすればいいだろうか。
ライバルとは、ある意味では鏡に映った自分という存在である。ライバルと見なすとは、相手の能力を最大限に評価していることを意味する。どうでもいい相手はライバルにはなり得ない。また、圧倒的に力と能力が相手の方が優れていれば、これもライバルとはなり得ない。真の意味での敵とは、鏡に映った自分なのではないだろうか。知らず知らずにお互いが、自分を敵に似せてしまうのである(笑)。
ソ連は共産党独裁の一枚岩である。それに対してこちらがめまぐるしく政権が変わっていたのでは不味い。しかし、露骨な一党独裁では自由主義と民主主義の看板を掲げられない。
苦肉の政体が二大政党制なのである。実質は一つなのだが、二つの顔を持たせているのだ。そんな妄想を、わたしはしている。レッドパージの歴史とは、この二大政党制を盤石にするためだったのではないだろうか。
敵に似せるとは、相手の強み(利点)を巧妙に取り入れて補強するという意味でもある。国民の心を繋ぎ止めながら、敵の強み(利点)を削ぐためである。ケインズ経済学を経済政策に持ち込んだのは、こうした効果を狙ったからではないだろうか。
ソ連は自壊した。
敵はいない。そして、アメリカには二大政党制がそのまま残ったのである。
敵がいなくなるとは、自分の姿を写す鏡がなくなるということである。自分の姿を客観的に眺められないということになる。つまりは、自分の悪しき本性を戒める歯止めが利かなくなり、欲望の赴くまま暴走を始めるということになるのだろう。その暴走が新自由主義なのではないだろうか。
二大政党制は国民を牢獄へと幽閉するものであった。偽りの議会制民主主義とでも呼ぶべきものである。従って、暴走を阻止するという機能は持ち得ていないのだろう。純粋な意味での独裁ではないが、広い意味での独裁なのかもしれない。二つの顔を持つことで国民を巧みに欺き、マスメディアを使って国民の心を自由自在に操るのである。
二大政党制とは一枚岩となって内側に閉じこもり、それを絶対化する方向に向かう意志が常に働くので、時代が吹かす新しい風を呼び込むことはできないし、地下深くで蠢く新しい時代を告げる胎動に気付くこともできないのだろう。逆に、そうした流れを阻止しようとする反動的な防波堤になるのではないだろうか。
フランシス・フクヤマは、ソ連の崩壊に対して『歴史の終わり』(1992年出版)を宣言した。
わたしは、アメリカの終わりの始まりだと見ている。
いや、アメリカの終わりでもなく、資本主義の終わりでもなく、西欧近代主義の終焉へと歴史が動き出したのではないだろうか。
ソ連という敵がいたから、アメリカも資本主義も自壊するのをどうにか免れていたが、ソ連という敵がいなくなり、アメリカと資本主義の自壊が加速したのだと、わたしは思っている。アメリカと資本主義の自壊とは、その土台をなす西欧近代主義の自壊なのである。
ソ連、つまり社会主義も西欧近代主義という土台の上にあったものだ。社会主義と資本主義とは西欧近代主義を土台にした二卵性双生児だ、とわたしは捉えている。
前回のブログで、これに関することを二つの円で説明している。そして、西欧近代主義という円から、違う円への橋渡しをするのが、沖縄の心であり、3・11の心だと書いた。
長くなってしまったが、以上を踏まえて、小沢一郎という政治家を眺めてみたい。
小沢一郎は二大政党制に妄執し、ライフワークにしているようだ。
小沢は自民党を離党し、新しい政党を次々と作って、次々に壊していった。小沢の夢が叶ったのは民主党単独で自民党に圧勝し、政権を奪取したときだろう。この民主党と自民党という二つの政党で政権を賭けて政策を競い合うことが、あるべき日本の未来の姿だという政治的理念をもっていたのだろう。
が、その民主党を自ら離党し、衆議院で二人という弱小政党を率いるまでに落ちぶれ果てている。それでも、まだ二大政党制に妄執し、野党再編を画策し、自民党に対抗し得るべき新たな政党を夢見ているようだ。
安倍自民党は独裁的色彩を強めている。圧倒的な議席数を持っているからだ。が、こうした状況を作ったのは、二大政党制を前提に改悪された小選挙区制にある。そして、圧倒的支持を受けて政権与党となった民主党政治が国民を裏切り、民主党への幻滅が政治不信を招き、投票率の極端な低下をもたらして、自民党と公明党を利したからである。
不破哲三が看破したように、安倍自民党はネオナチ極右政党へと変質を遂げている。そして、マスメディアを使った情報操作と世論誘導という戦前の大本営報道と同様なことを行い、言論弾圧と改憲によって、またふたたびの戦争の道へと突き進もうとしている。由々しき事態だといえるだろう。
小沢一郎はこうした方向性を持つ安倍政権を批判しているが、こうした事態を作り上げてしまった自分を自己批判することはない。性懲りもなく、二大政党制という醜悪な夢を見続けているのである。
二大政党制は百害あって一利もないだろう。
歴史が大きく動き出す激動期にあっては尚更である。見てきたように、反動にしかなり得ないからだ。
それにしても、不思議なことに小沢信者が多い。ネットなどでも熱烈な信者がいる。
このように露骨な小沢批判をしたりすれば、総攻撃を受けることだろう(笑)。
硬直した自民党政治に風穴を開けたという事実が、小沢一郎という政治家を過大評価させているのだろうか。小沢一郎に、政治を変えたい、変えてくれるという夢を託しているのかもしれない。その夢が大きければ大きいほど、小沢一郎へと向かう感情が熱く燃え上がるのだろうか。
わたしは護憲、反原発、反TPPを支持政党を選ぶ基本的な核に据えているが、小沢一郎ほどこの三つの間を揺れ動いた政治家はいないのではないだろうか。風見鶏とまではいわないが、変わり身の早さには舌を巻く。そうでないと、大同小異という美辞麗句で、新自由主義を掲げる政治家と極右思想に染まった政治家と同じ船には乗れはしない。
呉越同舟だとして、打倒自民がなった後で、何をしようとするのか、何をしたいのか、皆目分からないのである。単なる自民打倒が目的だとしたら、本末転倒である。政治的混乱と、国民の間に政治不信と政治蔑視と深い政治的ニヒリズムを蔓延させるだけである。
仮に安倍晋三を倒すことができたとして、こうした政治状況は、第二、第三のファシストの登場を促す土壌でしかない。もしかしたら小沢一郎は、本物のファシストを自らの手で生み出したいのだろうか。
かつての自民党には野中広務や加藤紘一、そして古賀誠がいたが、小沢一郎とは肌が合わないようである。この三人がわたしと同じ意味での純粋な保守主義者とはいわないが、近い心情を感じもする。そうだとすると、小沢一郎の政治的心情は何なのだろう、と考えてしまう。
共産党は謎である(笑)。
上述したように、わたしは資本主義と社会主義を西欧近代主義の二卵性双生児と見ている。
土台としての西欧近代主義の終わりは、その土台に乗っかった資本主義と社会主義の終焉を意味する。
西欧近代主義に代わるべき新しい価値観と世界観が息づく世界の幕開けを、わたしは沖縄の心と3・11の心に見ているのであるが、その地点にあろうことか共産党が立っていたのである。驚きを通り越して、まばゆい光に全身を打たれた時のように茫然自失したのである。
わたしは沖縄の心と3・11の心から、あるべき新しい未来の世界像をもった政党が、新たに生まれるのではないかと思っていたのだ。
その政党が共産党だった?
否、そんなはずはない!
頭を左右に振って否定してみたが、現実として共産党は、わたしが想い描く未来へと開かれた世界の架け橋である、沖縄の心と3・11の心の原点に立っているのである。
これは信じがたい謎でしかない。
謎であるが、仮にこれが幻でなかったら、日本の未来を切り開く可能性であり、希望の光である。
日本共産党よ、あなたは一体何者なのですか!